劇団誠〈せい〉と仲間たちの冒険

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先人の哲学にお前の問いの答えなど書いてない  ~自分でものを考えない哲学学者にたいする批判~

2016年11月28日 23時43分18秒 | 俺、森洋一の世界 ~森洋一作品集~

俺は「哲学学者」という人種が嫌いだ。 「哲学者」ではない 「哲学学者」だ。「哲学者」と「哲学学者」。
何がちがうかというと前者が自分から自然に哲学的問いが生まれ それを自分なりに考えるのにたいして、後者は先人達がそういう営みをしてきた文献などを(つまり結果)を研究する「だけ」の人種である。俺はかつていわゆる「哲学学者」たる人種に遭遇したときに「貴方達は先人達のものを研究するだけで自分で問いをたて考えてないのではないか」と批判した。するとこういった反論が返って来た。「自分の立てた問いは人類の長い歴史のなかでとっくに先人達が考えている だから自分で考えるなんてのは時間の無駄」と。
確かに彼らはもっともらしいことを言っているような気がする。私もその時は反論できずに言いくるめられていた
しかしよくよく考えてみると「先人達がすでに考えているから自分で考えるのは時間の無駄」という発想は二つの欠陥をそなえていると私には思えてきた
 まず一つ目の欠陥は本当に自分が立てた問いと全く同じ問いをたてた先人がどのくらいいるのだろうかという問いである。確かに今まで誰も考えてないような新しい問いをたてることは難しいかもしれない(別にわざわざ立てる必要もないが)しかし逆に自分がもっている問いと似たような問いを立てた人間がいたとしても全く同じ問いをたてる人間がどれだけいるだろうか?さらにその中からその問いの答えを導きだし、後世に残るようにした人間になるとますます限られることになる。本当に自分の立てた問いの答えを先人達の文献をあさって答えが必ずみつかるのだろうか?
ちなみ逆に先人達が今まで誰も考えてないような新しい問いを立てた場合、おそらく先人達の文献をあさる哲学学者は「そんなの哲学じゃない」とヒステリーを起こすであろう
 しかし今述べた一つ目の欠陥は本質的な問題ではない。次にのべる欠陥のほうがきわめて重要である
それは先人が自分と同じ問いをたてて答えをだしたからといって、その答えが果たして自分にとっての答えなのだろうかという問題である。例えばかつてソクラテスは「善く生きる」といったが、ソクラテスがいう「善く生きる」とたとえばこの文章を書いている俺がいう「善く生きる」と、この文章を読んでいるあなたの「善く生きる」
と果たして同じ意味なのだろうか。?少なくとも俺はソクラテスが「善く生きるとは何か」を考えだした答えを聞かされてもそれは「紀元前」という時代の「古代ギリシャ」という場所の「ソクラテス」個人が出した極めて個人的な「答え」であって、「21世紀」に生き「福岡」という場所に生きているこの「俺」の「答え」では断じてないと思う。
 そんなことも分からずに「自分の問いなんかすでに先人が答えを出しているからね」と自分で考えずにへらへらしているやつなど断じて哲学者とみとめない 少なくとも俺は
 ちなみに誤解されたくないが私は先人が考えてきた哲学の文献を読むなとかそういうことをいっているのではない もしも自分で問いをたてその答えを求める本物の哲学者ならば先人の考えた哲学を知りたいという衝動に駆られると思うし実際そうすべきだ。しかしそこに書いてあるのは非常に有益だとしてもあくまでも答えを導き出すヒントであって答えそのものではないのである。
 あと最後にこれだけはのべなければいけない。基本的に「哲学学者」は「哲学者」を馬鹿にする傾向がある。
二つのパターンがあって一つはその哲学者の「問い」が歴史にのこった先人達が考えてなかったある意味斬新な問いである場合 先人達を崇める「哲学学者」はその斬新さを理解できず、「そんなの哲学じゃない」とヒステリーを起こす
もう一つは、逆に先人達が問題提起した問いをもう一度自分なりに考えている場合 先人たちを崇めたてまつる「哲学学者」達はこういって馬鹿にするだろう 「お前の問いは使い古されているんだよ」と
 ちなみその「哲学者」が先人の文献を研究してなくて素朴に哲学をしている場合、哲学学者の下げすみはピークに達するであろう
 俺は「哲学学者」が「哲学者」を馬鹿にするところを何回もまのあたりにした
 はっきり言おう 俺は「哲学学者」が大嫌いである


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