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慶應征長の役(第二次幕長戦争)・芸州口の戦い初戦

2021年12月06日 23時46分08秒 | 芸藩志第五部(第 
2021年12月12日、小瀬峠の動画追加

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広島藩を始め、鳥取藩、岡山藩、徳島藩等が
長州問題の寛大な処置を求めて幕府に働きかけを行っていたが、
遂に実らず、長州征討の決定が下された。
広島岩国の国境に当たる「芸州口」、
岩国の南にある「大島口」、
小倉・下関の「小倉口」、
萩・津和野の「津和野口」の四カ所で
幕府軍と長州軍が激突して「慶應征長の役」が始まる。
まず慶應2年6月7日、「大島口の戦い」(周防大島)が
幕府軍艦の砲撃で始まる。
続いて6月14日、「芸州口の戦い」が始まる。
ここでは、「芸州口の戦い」の内、
序章となる「小瀬川口の戦い」について記述する。
地元の大竹市歴史研究会の説明を元に状況を再現する。

6月13日
彦根・与板(新潟)藩兵が油見顕徳寺(油見2丁目)に布陣。
そこから大竹村大瀧神社に500、
更に一部が小瀬川河畔(現大和橋付近)に進出する。
夜になり高田藩兵が大野から小方村(厳神社)に進軍、
苦の坂へ進撃の為にに立戸の山(苦の坂立戸口辺り)に布陣する。
又、一部は与板藩と共に小島新開に布陣する。
(大竹の平地の殆どが埋め立て地だろう事が推定される)
征討軍側から様子見の大砲を3発発したが、岩国側に反応は無く、
長州側は布陣していない様に感じられた。
 
長州側の小瀬川口総督は岩国領主(藩ではない)吉川経幹(監物)
瀬田八幡宮に砲台を築き、小瀬川沿いの竹藪に銃隊を忍ばせていた。
又、本藩の総大将・宍戸備前は各諸隊を率いて
岩国関戸から小瀬峠を越え小瀬村籌勝院を本陣とし、
更に先の小原苦の坂口対岸)に布陣する。
又、一部は小瀬村対岸の中津原(木野1丁目)に布陣する。
小瀬峠はほぼ車道になっている為、ドライブレコーダーで撮影。

6月14日
早朝、彦根藩・竹原七郎平と曽根佐十郎が使者として小瀬川を渡り始める。
竹原七朗平は、馬上で封書を高く掲げていたものの、
川の中程まで進んだ処で岩国兵の一斉射撃に斃れ、そのまま開戦に至る。
彦根兵は小瀬川を渡ろうとするも、岩国兵の一斉射撃に加え、
瀬田八幡宮からの砲撃で撃退される。
加えて中津原本陣から山越えした一隊が
大瀧寺辺りで背後から挟み撃ちした為、遂に小島新開に敗走した。
小島新開には幕府軍が用意した小舟があったが、
既に与板兵が乗舟して沖に逃げており、
長州兵の追撃で彦根兵に大きな犠牲が出た。
一方、苦の坂では、高田兵1000が進軍、
対する長州兵は200と激しい銃撃戦が行われたが、
銃の性能差もあって圧倒され、高田兵は小方、玖波、
四十八坂(大野浦、玖波間)と敗走。
又、大竹、油見は放火され、立戸、小方、玖波へと延焼する。
長州軍は玖波まで侵攻するも、玖波、小方、苦の坂に警備兵を配置し、
中津原の本陣に引き上げる。
6月19日
最新式銃装備の紀州藩が進軍し、四十八坂で激戦を繰り広げるものの、
以後、一進一退を続ける。

これが「小瀬川口の戦い」の概要である。
今後、戦場カメラマンとして動画にてリポートする事を考えている。
(こういうのを戦場カメラマンと云うのか?)
勿論、芸州口の戦いはこれだけではなく、
もう少し内陸側の津和野街道等でも戦いが繰り広げられ、
戦場は廿日市にまで及ぶ。
(広島城天守から戦闘状況が見える)

芸州口の戦いは装備の差で幕府軍が負けたと評する者が多いが、
実際には局地戦で勝利しても戦線を維持させない等、
広島藩の周旋行動が大きく影響したのではないかと思われる。
しかしこれは別の機会に。




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