春日部桐ダンスのお話を聞きながら春日部の備後(びんご)という地名を考える(2013.1.31)

2013-01-31 09:32:05 | Weblog

*春日部桐ダンス組合の島田さんのお話。
 昨日(1月30日)、<春日部市市民文化講座>が春日部市民活動センターで開かれました。今回は、桐ダンス組合の理事長の島田さんのお話でした。。

 春日部の桐ダンスのことは、ぼんやりとは知っていましたが、その歴史のお話が特に興味深いものでした。
 <春日部の桐ダンスは、ずっと“東京の下職”であって、春日部の名は出されなかったのです>と、話し始められ、<いつごろから、春日部の桐ダンスが作られていたのか・・>
*予稿集も充実しています。
 <安永年間(1777年)に作られていた書付けがでてきました>、<天保13年(1842年)に小渕観音院の聖徳太子堂修理に箪笥職人=指物屋長松の名があります>、<岩槻の酒屋から明和9年と書かれた桐ダンスが出てきました>といったことから、江戸時代中期には春日部タンスが作られていたことが立証されています。
 
春日部の山田箪笥店は、日本一古いタンス屋です。そこに円空物も保存されています。1602年、伊勢=宇治山田から二人連れで春日部に出てこられたので、山田タンス店です、と。

 なぜ春日部でタンスが作られたのでしょうか。桐の木がたくさんあった。江戸への交通の便・舟便がよかった。そして<百姓=小作人が食べていくのが大変で、手に職をつける必要があり、農業をしながら指物職人だった>のです。

 ワタシは、岡山県も広島県の境あたりの山間部で育ちました。
 子どものころから、いつとはなしに聞いていたことに、<女の子が生まれたら、桐の木を植え、女の子が嫁にいくとき、それでタンスを作ってもたせる>ということがあります。そのことが、一般的な<日本の伝統・習慣>か、ウチの近所の習慣かよくわからないのです。ウチの庭先にも桐の木が一本ありました。娘はいませんでしたが。

 それで、島田さんに質問してみました。お答えは、寒いところに育った桐の木でなければタンスには使えません、でした。同時に、<春日部を桐の町にしよう、桐の木を植えよう>という<まちおこし>ムードにもやんわり否定されました。
 
そうか、と納得したのです。春日部の桐ダンスは、<会津の桐>が使われているのです。

 その日、配布された予稿集は、桐ダンスの歴史資料、桐の木・花が丁寧に解説されていました。読んでいると、桐は、<中国大陸原産で日本、中国、南米、アメリカに分布しています。日本では古くから木材用に植栽され、岩手県の南部桐、福島県の会津桐、岡山県から広島県東部にかけての備後桐などが有名です>

 <・・・・岡山県から広島県東部にかけての備後桐・・・・!!!>。
 まさに<・・・おっと!!!>です。

 ワタシが育った<備後の桐>と、書いてあるではないか。
 ワタシが育ったエリアには、間違いなく、嫁入りタンスの桐と風習があったのです。

 【おまけ】
*市民文化講座では、毎回、お抹茶とお菓子がつきます。今回のお菓子は、青柳の花餅でした。
*春日部市には、<備後>という地域があります。ずっと前から気になっていました。なぜ備後?広島県の備後の国との関係ないのか?と気になっていました。備後桐・・・春日部市備後・・・春日部の桐、と連想ゲームをしてみますが、根拠はありません。ワタシが、新しい伝説を流布!!!します。

*ついでに、ウチの家人さんも同郷です。嫁入りダンスと一緒にきました。大阪近郊の<♪神田川・・・♪>の風呂なしアパートには、不釣合いなタンスでした。何度か引っ越ししている間に消えてなくなりました。嫁入りダンスは、リフォームしてでも大事に使って下さい、と島田さん。