若者世代は都心に定住がベター。私ら世代の3時間通勤往復は生涯の無駄だった(2011.3.21)

2011-03-21 10:41:05 | Weblog

*東京スカイツリーの脇を通過(首都高速、3月20日午前7時30分頃)

 311大地震後の一週間、ガソリンを満タンにするために並んだと、このブログに書き続け“付和雷同型買いだめ”と思われたかもしれません。20日にクルマで遠出の予定があったのです。息子の引っ越し支援です。

 そもそも20日には越谷でのビッグバンド大会にでる予定があったのですが、大震災で主催者の越谷“市”のイベント自粛方針で中止になったのです。

 

 引っ越しは東京・馬込から独身1人分ですが業者を頼まず自力引っ越しです。クルマは、ワタシがいつも楽器運搬に使っているライトバン一台。引っ越し先は、渋谷駅に歩いても20分のワンルームのマンションです。

 独身ひとり分といっても6年も暮らせば、かなりの沈殿物でした。最後に雑多の物をライトバンいっぱいにして、春日部のウチにとりあえず、とりあえず運びます。運転は上の息子です。

*支援隊員BとCさん

 ワタシは引っ越しした下の息子と、渋谷>地下鉄半蔵門線>東武伊勢崎線>野田線で帰りました。電車の中の会話は、職住間の距離と時間のことになりました。息子から“毎日、片道1時間半って、大変だったねえ”と。

 ・・・・“なぜ、そんな遠くに住んだの?”と聞かれたように思い沈黙しました。前夜に徹夜で荷物を作った息子は眠りに落ちました。ワタシも眠ったら寝過ごします。

 

 この町、埼玉県郡部旧庄和町(現春日部市)に越してきたのは、たぶん1974年です。37年前です。30年間は、ここから東京・大手町に、往復3時間かけて通っていました。

 なぜ、この地を買ったのかと言われても、たいした理由はありません。出しても出しても“憧れの夢の公団住宅の抽選に落ちる時代”だったのです。超インフレ時代で“土地付き一戸建て幻想”もあったのでしょう。

“遠いとか、通勤ラッシュが苦痛だとか”思ったことはありませんが、なんにもない、図書館もない町でした。たぶん・・それもあって、帰宅は深夜、夕食不要がデフォルトの埼玉都民生活でした。

 

 引っ越しした下の息子の仕事は青山だから自転車で20分、上の息子は蒲田からお台場へ電車30分、の生活になります。

 30年間×往復3時間、一日24時間の中の3時間です。大きな無駄であったようにも思います。もっとも取り返しがつきません。若者世代が、この町を出て仕事に近い場所で住んで、時間を有効に使うことはいいことです。

 

 そうそう、ワタシもこの町に来る前、1970年~72年の3年間は、札幌の大通り公園直近(北一条西7丁目)に職住密接で住んでいました。4階の住居から2階の仕事場に通勤していました。通勤時間ゼロ。一緒に住んでいた、まだ若かった家人さんは、三越デパートで夕食材料を買っていました。

 

【おまけ】

*この町に住む知人のブロガーさんが、大地震・計画停電騒動による電車不通で、東京できれいなカプセルホテル(一泊3450円)に泊まって、“日々24時間分の4時間の無駄です。考え直さなきゃあと思った”と書いています。それで、わが生涯にも“ものすごく大きな無駄があった”と感じたのです。

*春日部市は、じりじりと人口が減っています。さもあらんと思います。それに伴って減っていく税収に対して、活気ある、魅力あるまちづくり、と行政はいっています。難しいでしょう。別のこと“何もないけど、静かな空気のきれいな春日部市”をうたう方がいいかもしれません。30年前の不動産屋の宣伝文句みたいです。