沖縄慰霊の日。沖縄に行ったのは、仕事をやめる直前に一回だけです(2010.6.23)

2010-06-23 22:22:40 | Weblog

*沖縄の新聞の重要紙面復刻版がそのまま綴じてあります。新聞など発行できる状況でなかった沖縄のその日の新聞が読めます。本土=国内?の新聞とはまるで違います(1981年発行で2800円。ゴザの古本屋で買いました)

 沖縄で戦争が終わった日は、今日(23日)でした。仕事でも遊びでも国内外けっこうあちこちに行っている旅好きです。国内で行ったことも通ったこともないのは、48都道府県の中で高知県だけ。その前、47番目に行ったのは、沖縄県でした。退社の1ヶ月前に行きました。

 2003年のことです。20年ぐらいやってきたある雑誌の編集会議が200回記念ということで琉球大学であったのです。私費です。なぜ、それまでに沖縄に行ったことがなかったのか、とシンミリ思っていました。
 不思議といえば、不思議です。それだけ、私には特別な地域、誤解されると思いますが、アジアの一地域という気持ちだったでしょうか。

*左;この絵のパネルを博物館で見たときは、ある種の感動でした。同心円に沖縄からみたアジア各地の距離・位置関係に、沖縄の進むべき道を考えました。

 その時の沖縄行きは、原稿にしていますが、再掲するには、長すぎますしブログ向きではありません。
 その日、2003年3月19日月曜日。前日の日曜日、東京では、米国のイラク爆撃に反対する市民集会がありました。沖縄・那覇行きの飛行機で、機内で配られる新聞各紙のその記事の扱いを比較しながら読んでいたこともよく覚えています。
 翌朝、琉球新報社ビルに、“米国のイラク爆撃に反対する”垂れ幕がありました。労働組合のメッセージでした。もうついぞ東京・日本では、見かけない光景でした。しかも新聞社ビルです。沖縄の基地もイラクに直結していることは新聞報道で知っていましたが、ここは、沖縄・オキナワを強く意識しました。

 その夜、琉球大学の方と小宴会を伴にしたのですが、<この後どちらへ>の会話の中で<沖縄南部の戦跡には行きたくないのです>と言ってしまい、すぐに、まずかった、と思ったのです。
 翌日は、ゴザを歩いてみること決めていました。ゴザにある“アメリカ”を歩き回っていました。ゴザの宿は、“京都観光ホテル”という名前でした。ゴザらしいといえば、ゴザらしい名のホテルでした。

 いくつかのグスク(古城)を訪ねながら、沖縄の尾根を走りました。左右どちらにも海が見える風の涼しい旅でした。佐喜満美術館の屋上からは、真下に普天間基地を見ていました。 6月23日に陽が沈む時に、光が差し込む窓が心に残りました。6月23日は、沖縄戦が終わった日です。今日です。

    【おまけ】

* 今日、沖縄慰霊の日、お昼のNHKニュースをパソコンたたきながら聞いていました。女子高校生が詩を読み上げていました。この戦争は何を残してくれたのか、何を生んだのか、そんな感じの訴えが耳に残りました。

*夕刊に全文が載っています。そのくだりを探しました。“・・・・何も幸せなど生まれなかった。何も手に入れたものなど無かった。すべて失ったものばかりだった”と。

* 何を求めて、あの戦争を起したのだろうか。尊い犠牲の上に今の平和、平和の礎(いしずえ)という、ワンパターンのご挨拶はもういい。平和を求めて、あの戦争を起したのですか。

*これは、那覇の古本屋で買った。沖縄の新聞がつぶれる日(1994年)。戦争の前後の沖縄の新聞のおかれた状況を知りました。

*3月、半そでシャツで歩いていました。本土の方ですね、と話しかけられました。沖縄のものは、半袖を着ませんよ、と。陽が激しすぎるのです。