ジャズまつり、カウント・ベイシーよりジャズ喫茶ベイシー(2007.10.6)

2007-10-06 17:14:03 | Weblog

*また買ってしまった“読まない雑誌”です。

4,5日ぶりに、TSUTAYA(南桜井店)に出かけましたた。ほぼ毎日の散歩コースなのですが、4,5日ぶりだったのです。

CD売り場に、カウント・ベイシーのCDがあるかな?と見にいったのです。
JAZZの棚は、80cmほど。そのうちの半分が日本人ジャズ、残りが外国人ジャズです。カウント・ベイシーはもちろん、ビッグ・バンド・ジャズはおいていません。

“やはりな”と思いながら、雑誌の棚をさすらいます。もう10日ぐらい前から雑誌“男の隠れ家”の特集“ジャズをめぐる旅”があるのを知っていました。買うまい、買うまいと言い聞かせていたのですが、買ってしまったのです。この種の特集の雑誌は、もう何冊も買っているのです。パラパラとめくって、おしまいになるのですが、また買ってしまった。
各地のジャズ喫茶、ジャズクラブの紹介記事が定番です。毎日、働いていた東京ですら、ほとんど出かけることもなく、全国各地にまで訪ねる気持ちはないのに、です。

しかし、ただ一軒、岩手県一関の“ジャズ喫茶・ベイシー”には、出かけてみたいと、ずっと思っていたのです。
写真の“ジャズ喫茶ベイシーの選択”は、店主・菅原昭二さんの本です。1993年4月(講談社)発行です。菅原昭二さんは、<1942年生まれ、早稲田大学在学中から、ハイソサエティ・オーケストラで、バンドマスターでドラマー。1970年に故郷・一関にジャズ喫茶・ベイシーを開店。日本一“音”の良いジャズ喫茶として、ジャズファンの伝説の地となる>なのです。

*読みましたよ、10年前に。

本“ジャズ喫茶ベイシーの選択”は雑誌“ステレオサウンド”に連載されたもので、菅原さんのオーディオ・システムへの思い、遍歴がたくさん書かれています。
そうして、ある日、本物のカウント・ベイシーがバンドのメンバーと一緒に、日本の演奏ツアーの途中に立ち寄るのです。1980年春のことなのです。新聞記事にもなったように思います。スクラップしたかどうかは、覚えていませんが。

カウント・ベイシーは、1984年4月26日に他界。
この本の最終章では、菅原さんは、1988年にベイシーの墓参りに行き、線香を手向けたと書いています。
“WILLIAM COUNT BASIE 1904-1984”と刻まれているそうです。

アマチュア・ジャズ・バンド(ビッグ・バンド)が必ず通るのが、カウント・ベイシー・スタイルで、手本といわれています。
ベイシー・サウンドの魅力はもちろんでしょうが、カウント・ベイシーの演奏どおりの楽譜(スコア)が入手しやすいことも、その理由かもしれません。アレンジャーの、サミー・ネスティコは、アマチュア・バンドには、もうすっかりおなじみです。

さてさて、10月21日(日)春日部市庄和地区での、“SWING SWING SWING”正風館ジャズまつり で、私らスウィング・ベアーズは、ベイシーの曲を2曲演奏します。
“ヘイ・バーナー(Hay Burner)”と“クイーン ビー(Queen Bee)”です。

ベイシーの曲には、必ず、たくさんでなく、ちょっとだけある、ベイシーのピアノが生命なのです。
今回、スウィング・ベアーズは、ピアノに知人の紹介でA.Mさんをゲストに迎えます。A.Mさんは、私の娘と同世代です。同じように南桜井小学校、葛飾中学校に通い、そしてコンサート会場の正風館のごく近くで大きくなった方です。
私には、ある種の感動を起こすピアノさんなのです。

  【おまけ】
* 菅原さんの本“ベイシーの選択”から無断引用です。
<カウント・ベイシーは“お利口な人だった。デューク・エリントンのように、全部を自分でやらず、仲間のみんなに随分と仕事を分担させた。作曲もアレンジも気に入った仲間にどんどんやらせたが、約50年という長い期間を通して、全部が“カウント・ベイシーの音楽”になっているのはいったいどうしたわけだろう。彼は、チョイス(選択)の名人だったのだ>

* もう、“岩手の旅のついでに”でなく、一関のジャズ喫茶“ベイシー”を目的に行かないわけにはいけません。でも小さくなって、黙ってコーヒーを一杯飲むだけで、“ついに行ったぞ”と満足感を持って帰ることになるでしょう。
菅原さん自慢の“音”を十分に聞くこともなく、でしょうね。