時計の針の 巻き戻し

ふだんの生活の中で、ふとやり残した感じがすること有りませんか?時計の針は、自分で巻き戻すものです。

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犯罪者の心理について

2006-12-30 14:27:48 | 心理学雑論

心理学はあらゆる人間の心理を合理的に説明するように努力してはいるが、現実問題として”研究が出来ない”という領域は多い。例えば犯罪心理学である。

これは一般の人には好評であって、センセーショナルな事件が起こると犯罪心理学の専門家、と称する人たちがテレビなどに出てきて解説したりする。

しかし犯罪心理学というのは現実には非常に研究しがたい。そのため私が知っている限りほとんどの大学では、心理学科に犯罪心理学の講義はあっても、教官がそれで卒業論文を書くのを許可していない。

これは一つには、研究活動が困難だからである。刑務所や拘置所などに行って、インタビューやアンケートを実施するのはほとんど無理だ。

しかし困難なのは、それ以上にそもそも犯罪という言葉の定義が曖昧だからである。犯罪心理学の教科書を書いている人がいるが、その教科書には「政治犯」や「戦争犯罪人」の心理に関する記述が無い。だが例えば日本の場合、立法するのは基本的に国会であり、その国会は政治家の集団で成り立っているから、政治犯の研究はあっても良さそうだし、また戦争というのもそれを行うのは人間であるからこれもあって不思議ではない。

事実、一部にはある。例えばナチス・ドイツ、ヒットラーの研究というのはいくつもある。ただこういった『研究』に共通しているのは、1.研究対象がいずれも戦争に敗れた側であり、2.いかに残虐かをかなり誇張しているふしがある、ということである。

たとえばトルーマンは、第二次大戦中、日本に原爆投下をした大虐殺の張本人であり、またアインシュタインは原爆研究を進言した意味で共犯者と考えられるが、彼らの(犯罪者としての)心理に関する研究は、私は見た事が無い。

今日、イラクのフセイン元大統領が死刑執行された。理由はハッキリ言えば、「戦争に敗れた」からである。フセイン氏は、死刑直前までアメリカ軍の捕虜収容所に収容されていた。

アメリカは第二次大戦において、日本の宣戦布告が遅れたことをもって”だまし討ち”のように非難しているが、イラクに関しては問答無用の一方的な攻撃であった。 こういう法廷も、わが国の東京裁判と形態は多少違ってもいずれも本質的には、「勝者とその仲間が敗者を裁く」というインチキ裁判だと感じる。

このように心理学において「犯罪」というものを扱うときには、価値判断や強者の論理が大いに入り込み、断定的なことが言いがたいのが現状である。

しかしそれにもかかわらず、犯罪心理学の需要はある。それは人々が、こういう事件よりはむしろ身近な猟奇的事件などに関心があり「犯人はなぜああいう事をしたのか」知りたい、というからであろう。

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忘年会

2006-12-24 19:37:22 | 自己紹介
昨日忘年会に行ってきた。一泊で。栃木の塩原、それもずっと奥のほうで、携帯電話が圏外と表示されるところであった。宿の近くには「熊出没注意」の看板があった。

去年は那須で、やはり奥まってはいたが観光地であった。若い人のリゾート地と言うイメージだ。

塩原は昔からの温泉街で、栃木ではどちらかというと年配の方が多く行くところというイメージがある。鬼怒川、川治、那須などがポピュラーかな?

さて今年の温泉は、火山ガス(硫化水素)がたくさん噴出しているところだった。そのため、旅館の中の金属器具はほとんどが真っ黒にさびていた。お風呂の中にはシャンプーもシャワーも無かった。固形石鹸が数個、無造作に置いてあった。

とにかく山の中の温泉で、あまりにも道が狭いので、またすごく遠いので、車を運転していてとても心細かった。


宿では、酒を飲みながら温泉に入ったりしていたが、ようやく夜7時ごろから宴会。5人集まってそのうち2人が未婚。全員40代以上である。

そのうち、58歳で独身の先輩について、結婚話がいろいろとでた。「本当に大丈夫だろうか」とみんな、心配していた。20代と40代の女性二人と付き合っているという。年齢差30歳以上、というのは可能なのか、その若い女性は本当に結婚する気があるのだろうか、などである。また真剣かどうかをどうして見極めたらいいかについても色々意見が出た。

話題といえば、会社や役所の派閥争いの凄まじさについて、すごく生々しく話も出た。「相手のグループのメンバーを何とかして(会社を)辞めさせなければこちらがやられる」という具合である。実際、やめさせられた経験を持つ友人も、逆に会社役員で、誰かを無理やりにやめさせた経験を持つ友人もいた。それぞれの話を聞き、人間世界の競争の凄まじさを今更ながら感じた。

それにしても酒は美味しかった。勿論、持ち込んだのだが、「発泡性日本酒」「発泡性焼酎」などを各自、持参してきた。醸造して二酸化炭素が抜けないうちにビンに閉じ込めたのだろう。

このような山奥なのに、いや山奥だからこそなのか、若いカップルがかなり多く泊まっていたのには驚いた。塩原の町の中でも、若いカップルがとても多い。昔のイメージとだいぶ変わっていた。それにしても私は、若いカップルを見ると、今でも自分の胸がうずく。私がかつてできなかったことであるが、本当に楽しそうに手をつないで歩いている姿を見ると、何とも複雑な気持ちになる。でもとにかくとても楽しそうだ。

夕べから今朝にかけてかなり雪が降った。無事に家に帰れるか、そればかりが気になって仕方がなかった。私はノーマルタイヤで行ったからだ。

帰りは地元の野菜を買い込んで車に積んで、雪の中、家路に向かった。来年は自分も58歳の彼も、幸せでありますように。
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ブログを読んでー議論と感情ー

2006-12-21 00:52:43 | 思想と宗教
議論するとき人間は、全く冷静でいられるとは限りません。時には強い感情のほとばしりがあるでしょう。またその感情に自分がいつの間にか支配されてしまい、「あることが正しいかどうかを冷静に判断する」という事がなおざりにされてしまうこともあります。

議論というのは「論じ合うこと」ですが、これが時々「論争」(違った意見をもつ人たちが、それぞれ自分の説の正しさを主張して論じあうこと)になり得ます。それもやむをえないこともありますが、感情に任せて突っ走る余り、自分の考えを相対化し相手の考えと比較した上で冷静に論じる、という議論本来の姿を忘れるのは困ったことだと思います。

特にひどいのは、感情に任せて相手の人格に関連する事を攻撃したり揶揄する事です。第三者として見ていると、とても醜く感じます。

心理学界ではそういう事はないかというと、実はあります。特に学会発表のときです。大抵の方は紳士的ですが、ごくまれには感情が高ぶって議題と関係の無い話、個人的な話(*例えば、お前の大学は云々、とか、お前は上司との関係がうまくいってないんだろう、などとまったく無関係な個人攻撃)などをする人がいるから困ったものです。で、そういう時私たちはその人を避けます。「病気」(精神的な)である可能性さえあるからです。

ここ数週間、ブログ・サイトに関しては、有名なブログが閉鎖されたり、休止になったり、特定の記事が閉められたりと、かなりの動きがあります。それらの書き込みの中に、身勝手な議論、と言うより論争を仕掛けたり、感情的になったり逆に相手をいらつかせたりしているのがあると感じます。

ブログなどにおいても、努めて感情的にならないよう自制すること、感情的な意見は相手にしない事などが重要だと思います。それでも万が一、コメント欄がそういう意見で溢れてきたら、議論の場から去るか、レスを控えるかするべきだと思います

とにかく一旦冷静にならないと、議論本来の目的は達成されません。感情的になって興奮しながら相手を貶めるだけでして、問題解決は遠のくはずです。
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確実さを求める心理

2006-12-16 22:55:51 | 政治と社会
我々の身の回りを見ると、曖昧なことがすごく多い。朝起きて、会社に行く人が通勤途中何らかのトラブルで会社に遅刻する事を正確に予見するのはほとんど困難である。また自分がいつまで健康であるか、自分の勤める会社が永遠に繁栄し続けるのか、確かなことは非常に少ないと言えるのではないか。

特に人間、自分の事に関しては非常に気を使う。当たり前ではあるが、気を使っても、物事は全てうまくいくとは限らない。当然、不安になる。

だから人は少しでも確実なことを求めようとする。人間に関して言えば、自己紹介に血液型を書かせている紹介文は多く見かけるが、これは戦争や大地震が生じた際の輸血を考慮したものではないであろう。大部分が「血液型性格診断」に用いられている。

科学でも例えば心理学と言うのは実際は、ほとんど確率的にしか正しくない。だから具体的に目の前にいる人間に対する援助というのは本当はすごく難しい。

それなら手っ取り早く、「神や仏を信じる」のはどうか。そういう場合でも1人では心細いから集団・組織・強力なリーダーなどに依存してそこに乗っかって行動する事になる。組織やそのリーダーは、「この宗教を信じていれば、絶対だ」という。私たちが欲しいのはここだと思う。つまり、現実にはありえない、少なくともある事が難しい、「絶対」というものに人は依存したいのだろう。

「絶対」というのは「確実」ということである。いずれにしても人間はそのために強きもの、確実なものを求め、またその教えが確実であり、絶対である、と思いたいのであろう。

ここに多くの新興宗教やその類のものに、藁をもつかむ気持ちで多くの人がすがる本質的な原因があるのかもしれない。そういう場合には、集団の指示・命令・「指導」が、多少あるいは非常に偏っていて無理があったとしても、人は確実性・絶対性のためにはやむなし、として従っているのであろう。

だがそもそも絶対的なもの、確実なもの、不変なものが存在しえるだろうか・・・?
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犯罪と創価学会

2006-12-06 23:13:56 | 思想と宗教
ネットからの情報だが、過去において重大な犯罪ー殺人などーを行った人間のなかに、創価学会員が含まれていることがあるようである。

この問題は、様々に考える事が出来る。「創価学会組織と学会信仰あるいは学会活動が原因であり、創価学会に入っていたからこそこのような犯罪者が生まれるのだ」、と言う人がいる。他方、「学会は大きいのだから、このような人物も中にいることがある」、という主張もある。

いわゆる凶悪犯罪に限らず、犯罪を犯すものは、世間一般と同じく学会員の中にも相当な割合で存在するであろう。

この場合問題は、学会組織・学会活動が、もともと犯罪を犯す傾向のある者に対して、その傾向を強める作用があるかどうか、ということである。

創価学会は、会員に「願いが叶う」というご利益を約束すると共に、かつては折伏教典にて他宗を罵倒し、今は聖教新聞や衛星中継によって、”裏切り者”などを徹底的に罵倒している。

創価学会の主張のうち、まず現世利益を強調する点についての反応であるが学会員によっては「ほとんどの事が許される」「何かあっても大丈夫だ」という確信に変わり得る。これがほんのわずかずれるだけで、少しぐらい(と本人が考える)の犯罪は許されると感じてしまう傾向に至ることは十分に考えられるであろう。

次に、上記の後のほうの他者に対する罵倒は、攻撃欲求を強め、また刺激汎化(*似たような対象に同じような反応をするようになる事です)の原理によって、他人を攻撃したり馬鹿にしたりするのが平気な人間になってしまう可能性がある。

さて私は、仮に犯罪者が(*軽微な犯罪であっても)創価学会員の中から出た場合、創価学会がこれらの犯罪者を『弁護する』のなら、私はその事に対して高く評価するつもりである。創価学会は『不幸な人を救う』はずではなかったか。被害者は不幸であるが、加害者も社会的制裁や刑罰を受けたりする不幸な存在である。

そして何よりも創価学会にとっては、犯罪を犯す傾向を持った人間を変える事ができなかった、という点において、ある種の敗北ないし失敗があったと考えられるであろう。

創価学会は実際は、建築偽装事件を見ても、犯罪になりそうなことをした人間はまず切り落とし、学会本体を守るために都合の悪いことは徹底的に隠そうとする。

創価学会が社会にそれなりに認められるためには、このような隠し事や切捨てを一切止め、学会員から犯罪者が出た場合、堂々とそれを認め、『学会信仰による救済』を図ることだと思う。『救済』が可能かどうかを周りがどう見ているかは別問題である。


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