時計の針の 巻き戻し

ふだんの生活の中で、ふとやり残した感じがすること有りませんか?時計の針は、自分で巻き戻すものです。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

ヒステリー反応と「逃げること」

2006-06-29 22:05:47 | 思想と宗教
 私は過去数十年間、創価学会会員としてはほぼ幽霊会員に近かった。大学教員になってからは講演依頼は来たが。

 個人的な問題としては自分の親との関係のまずさ、悩みをうち明けても馬鹿にして笑うだけの創価学会幹部、学会員からの虐めなど、限りがない。

 もちろん、学会の文化祭にもお呼びもかからなかった。器楽・合唱などにも興味があり昔は地方の組織でもそういう「楽団」があったが、そういう方面にも入れず、ただ幹部が来て、「すばらしい会合に参加しろ」というだけであった。

 これだけ嫌な事をしていて、そうなったのは軒の「過去の業の深さ」だと言われるのは、馬鹿にされているとしか思えなかった。

 前もって「過去の業」など分かるわけでなく、嫌な思いをした人に対して、実際に学会員や学会組織が関わっているのに、自分たちの責任などちっとも感じずに、見ることも証明することも不可能な言葉を持ち出して、結局は「おまえ自身の責任だ」と言ってるだけだからである。

「個人の問題」だと言ってる人は、恐らく私のような経験をあまりしてない人だろう。学会内において適応している人かもしれない。

 対人関係が得意でなく、親からも虐められ学会内でも不適応な人間が感じる、どうしようもない限界状況を平然と馬鹿にするような人物が、学会幹部となっている。


 しかしそのような私がなぜ数年前から学会に関わるようになったか・・・以前書いた婦人部本部長からの依頼で「病める学会員」の世話をするようになったからである。

 初めは当然、嫌だった。また本部長のいう話は大げさだと思った。ところが試しに一度、その中の「重症」な人のところに行ってみると、想像を絶する光景であった。それは以前書いたとおりであり、またそれ以外の人たちの症例も基本的なメカニズムは共通しているから省くが、今はっきりいえば、多くは「転換ヒステリー」(*「癲癇(てんかん)」ではありません)か、その亜型であった。

 精神医学は(本当は心理学も)アメリカの影響が強いから、精神的な病気は、アメリカのDSMという、「診断と分類のためのマニュアル」に基づいて病名がつけられている。そしてくるくる変わる。原因に基づくのでなく、外見的な症状などから分類しただけだからである。

解離性○○障害、というのはその多くはかつてヒステリーと呼ばれていたものである。パニック障害、とは実態は、不安神経症とあまり変わらない。


 ところで古典的とされるヒステリーであるが、これは精神医学領域では「無意識の抑圧された葛藤がうまく処理できず、体の症状として現れるもの」である。この領域は、フロイトのヒステリー研究が有名であるが、当時から主として女性に多く現れること、本能や願望の抑圧の結果であること、いわゆる「病気への逃避」という意味があること、催眠療法が(もし可能ならば)効果的であること、などが分かっていた。

私が診た学会員のなかには、鬱状態や統合失調症(精神分裂病)、不安神経症の人もいたが、多くはまさしくヒステリーであった。きわめて派手な症状を示す、古典的なタイプの人が多かった。

 それらの人の多くは、これも既に述べたが、国立病院や著名な大学病院の精神科・神経科・脳外科などを転々として診てもらったが、ヒステリーの人はほとんど「どこも悪くない」といって追い返されていた。原因が見つけられなかったのである。

 私がそこですべきことはとにかく病気の原因を探り、心理療法を駆使して治療することだった。そこでは創価学会の問題は、まずは後回しであった。程無くしてその組織としての問題や活動のあり方などが、精神的な病と不可分な関係にあることが判明したのであるが。

 私は統合失調症の人は精神科医に任せて、多くの人の治療に携わり、これまでのところ、合計数年間かけて、大体において治癒ないし軽快化(*「寛解」という言葉は統合失調症の場合に用いる)させることに成功したが、多くの症例が「病気への逃避」ないし回避(*前もって避けることです)の意味を有していることは明らかであった。学会幹部もそのことにうすうす気づいて、「今こそ学会活動に励みましょう」と言って活動させ、悪化すると「試されているのよ。もっと頑張るのよ」と言っていたようであるが、当然、悪くなる一方であった。

さてそこで重要な問題がある。「病気への逃避」ないし「病気になる状況に入ることからの回避」は、どんな場合でも本人の我が侭なのであろうか、ということである。

確かに転換ヒステリーは、学校に行きたくない子供が実際に朝になったらお腹が痛くなるのと基本的には同様と言える。そういう場合であっても、ただ単に「甘えている」「我が侭だ」と言えない場合がある。実際に学校などで、苛められている場合などがあるからである。


 学会活動に関しても、本来静かに祈っていたい、という人も、学会の指導・教義からは、弘教をせねばならないとされる。実際は、選挙活動、折伏、聖教新聞などの購読拡大などの、文字通りのセールス活動と、財務と言う名の寄付行為などが主である。


しかし、もし万が一、創価学会の方針が正しいと仮定しても、神経症的傾向の強い人や内向的な人は、このような集団では容易にノイローゼに陥ったり、ヒステリー反応を示したりする。いずれも、「自分はもう限界だ、だめだ」と言うサインである。


この場合、「逃げるのは良くない」とは決して言えない。むしろ、逃げなくてはいけない。逃げることは決して恥ではない。ましてや、もし学会に疑問を抱いている場合は、余計に症状が出やすくなる。

学会組織は個人を守ってくれない。自分を守るためには、堂々と逃げよう。心療内科などに行って、精神安定剤、抗鬱剤、睡眠導入剤などに、一時的には頼ることも重要だと思う。

ただし、薬は問題を根本的に解決してはくれない。これらの薬は性格を根本から変えるものではなく、環境を変えるものでもない。薬物の、場合によってはさらにカウンセリングの助けを借りながら、徐々に自己主張できるようになれればいいと思う。

 学会の役職に関しては、こういう状態なら、とにかくまずは役職をおろして貰うことだと思う。私も本部長に頼まれて心理学の立場から援助していたが、「今すぐ脱会させなさい」と学会幹部たちの前では言わなかった。言ったらもう頼まれず、結果的に病める学会員はますますひどくなっていくだろうと思ったからである。

自我が非常に弱っているから、そのままではかつての私のように、学会外でも上手くいかない可能性も大きい。そのことまで見据えた上で、どういう風に本人や幹部に言うべきか、思索しながらこういう活動を続けている。

私としては、少しずつ離れていくことがこういう人たちにとっては大切なのではなかろうか、と思っている。その間に、自我を強めるトレーニングをしながら、である。

少しずつ、しかし断固として断る、ということ自体も、立派なトレーニングである。
コメント (28)   トラックバック (1)

講演メモから。

2006-06-24 08:46:24 | 心理学雑論

 下の文は5年前、あるところで講演した内容の原稿メモの一部です。相手は、「人を援助する」立場に関わるべく、勉強している人たちで、主に児童養護関係の施設に勤めることを希望している人が多かったです。途中の部分的抜き出しですので、わかりにくかったらご容赦下さい。講演題目は『人を援助するとは』といったものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 過去が間違いなく現在の自分に大きな影響を与えているということと、過去には決して戻れないということとはどちらも事実です。人間関係がうまくいかない、というような問題の場合、その本人に対して周りの人が低い評価しか与えてこなかったということが考えられます(例えば、友人や異性に嫌われる、大人からも良い評価を得ていない、など)。


 こういう場合、「本人の努力の問題」「人間性の問題」などと言って済ましてしまうことがときどき見受けられます。

 

しかし例えば「自分の殻に閉じこもっている」「怒りっぽい」「疑い深い」「決断力がない」「とても気が弱い」などは確かに多くの人が非難する性格特性ですが、本人が自由にそういう性格を選んだということはないはずです。同時にこれらのほとんどは、周囲の人の配慮次第で変わり得るものといえます。

 

 しかし誤解していただきたくないのは、それが決して単純でも簡単でもないということです。

 有名な実験があります。アメリカの社会心理学者が行った実験でして、ある女子学生に自信を持たせるのに成功した例があります。自分の容姿に自信がなく、実際、友人が少なく恋人もいなかったこの女子学生に、心理学者が周囲の男子学生たちに頼んで「魅力的な女性に対するときと同じような接し方」を続けてもらいました。約1年後、この女性は非常に自信に満ちあふれた態度・表情に変わりました。

 


 ここで重要なポイントがいくつかあります。
①本人に自分で性格を変えるよう働きかけるのでなく、周囲が良い評価を(たとえ実験ではあっても)与え続けたこと。


②複数の人間(若い男子学生)が、1年という長い期間にわたり、肯定的な評価を続けたこと。


③一時的に本人が自分を否定的に見ても、一貫して良い評価を続けたこと。

 

 臨床心理学やカウンセリングでも、比較的単純な不安や恐怖に対しては優れた対処法(行動療法など)が開発されていますが、「気分の落ち込み」「低い自己評価」などには対処が困難です。しかし、他の人からの働きかけが大変良い効果を生むことがあるのは事実です。

 

 同時にその場合、1回や2回、いやはっきり言ってこの実験の結果の場合は、多くの若い男性たちが毎日毎日1年間、という長い期間肯定的に接し続けてようやく変わっていったのです。数十回、数百回のほめ言葉を与えたようなものではありません。それくらいではとうてい変わらないことが多いということは、考えておくべきことと思います。

気分の落ち込みや低い自己評価自体が(病的な場合は別として)長い間、他人から尊重されてこなかった結果であることがむしろ普通だからです。

 

 自己評価が低く、自分を価値あるものだとする考え、つまり自尊心が持てないのは生まれつきではありません。同時に自分で決めるものでもありません。

これは結果です。 幼少時期から、特に乳児期に母親に大切にされなかった事の影響が大変大きいのが分かっています。

 

私たちの社会は、ともすれば例えば上記の社会心理学者の行った実験のような、人を援助する際に困難な事実から目を背け、「自己責任」と考えてしまったり、カウンセリングや心理療法を甘く考えがちです。

 人を援助しようとする場合、本人の意識に働きかけるというのは私たち日本人が取りがちな、安易な発想です。なかなか成果が出ない、つまり相手がなかなか変わらないと結局は、本人のせいにしてしまう人がいかに多いことでしょうか。

 乳幼児期から母親やその後は他人からを含めて、否定的な影響を与えられ続けた人を援助しその否定的な影響を取り除き本人に自尊心を獲得させるには、本来は周囲のほとんどすべての人がその本人を好意的に見続けることが必要です。普通はおそらく何年も、です。

 心理学は基礎と応用とを含む科学です。いわば医学と同じように、例えば脊髄損傷をした場合、神経がつながり半身不随にならない可能性がどれくらいあるか、あるいは癌にかかった場合、治療するにはどうするべきか、また治癒する可能性がどれくらいあるか、専門家は本当に冷静に考えます。

 

 皆さんは人を援助する立場にあり、やがてその現場に行くわけです。とても尊いことです。その尊い気持ちを生かすためにも、心理学やさまざまな科学の、厳密な実験や調査の結果をよく調べ考え、取り入れていただければ幸いです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コメント (11)

2種類の適応

2006-06-20 19:34:14 | 心理学雑論

 適応には個人適応(*本人が精神的に満足し安定している)と社会適応(*周りの人との関係がうまくいってる。集団適応ともいいます)の区別があります。

 前の記事は、社会適応に関するものですが、適応する、というのはとにかく良いものだ、というのが一般的な意見です。確かに、ある集団でその集団に適応(*社会適応)していないと、遅かれ早かれ人間関係がまずくなったりして、個人不適応に陥ります。

 

ただし、ある集団で適応していることが、別の集団から見て「良いか悪いか」は、価値判断の問題が絡みます。

 

 ある宗教団体内部では非常に良く「社会適応」していて教団の方針通り動いているとした場合のことを考えてみましょう。

(*例えば、選挙が近づけば、○○党の応援のために、非常にうまく活動するとか、信者に「罰論」を吹き込み恐怖心を煽るのがうまい、とかです。)

 そういう人は、その集団の中では「社会適応」していても、もっと大きな集団、例えば日本の国全体の利益という観点からは、もしそうした行動が結局は不利益をもたらすならば、そのより大きな集団に対しては「社会不適応」と言えます。

 

 もともと社会適応しやすい人というのはどの集団、どの職場にもいます。概してこういう人は、「周囲の動きを見て、長いものに巻かれる」のが上手いですから、もし社会全体から見て、本人の所属している集団の存在自体が迷惑をかけることが多くても、その集団を抜ければ、がらっと変わりやすくなります

 創価学会の場合も(*わざわざ、「も」と言ったのは、日本社会、日本人にはこういうパターンが多いからです)、辞めればがらっと変わりやすい人は、集団適応している幹部に多く、また大概こういう人たちは個人適応も優れています。(*これは良く言った場合でして、こういうタイプが嫌いな人からは、風見鶏、カメレオン人間のように見えます)。

 逆に可哀想と感じるのは、いわゆるまじめ人間でして、創価学会でも、また私の見たところ多くの組織でも、下の方の幹部にいろいろ悩み深き人が多い、と見ています。

 たとえ意識に上らなくても、必死になって自分を殺して行動している部分がありまして、「個人不適応」になりやすいのは創価学会でも、地区・ブロック幹部、特に婦人部に多い、というのが創価学会の会合に参加して、観察してきた私の結論です。

 

 心の病に陥る学会員が、壮年部よりもどちらかというと婦人部に多い、という原因ですが、これは女性特有の気質と、朝から晩までの活動、一日中続く人間関係に本当は向いていないが、それでもまじめに活動しなければと考えがちな性格の人の多くが、地区婦人部長、白ゆり長クラスの立場に置かれやすい、という学会組織自体の性質によると思われます。

 

 

 

 

 

 

コメント (5)

適応性ということ

2006-06-15 22:30:01 | 心理学雑論

以前、創価学会幹部の性格の話で「適応性が高い性格の人が多い」旨の話を書きましたが、「適応性が高い」というのは、創価学会に批判的な立場ならその立場で適応し、また創価学会員になったら今度は創価学会が求める行動や価値観、態度などが身に付きやすい、ということです。

 

ですからその人がもし創価学会を辞めて批判的な立場になったら、今度は同じようにその立場で適応するでしょう。

 

何か、別の宗教団体に入ったら、そこでも「その信徒らしく」なることでしょう。本人がある程度受け入れられれば、の話ですが。

 

一般社会で適応的なことは、本人にとって、一般的に言えば、精神的健康に良いと言えますでしょうが、いずれにしても本当は価値判断とは別です。

 

ですから、もしある団体で適応して、その団体が望むように行動していても、その団体が、仮に社会に迷惑をかけていれば、「適応的なるが故に、結果的には」その人の行動には問題がある、と言えるでしょう。

コメント (6)

組織を抜けても信じ続ける人たち

2006-06-11 16:03:16 | 思想と宗教

 身近なつきあいというレベルでは、創価学会員はしばしば大変丁寧である。
多くの場合、それは仲間に入れようとする行為の一端であり、折伏の成果をあげたり選挙協力依頼に結びつけるためであるが、中には確かに本当に相手のことを思っていて、入会させようとする人もいる。

そういう人たちにとっては、悩んでいる人を救うためには創価学会に入会させ、様々な活動をさせることが本人のためだ、という確信がある。
悩んでいる方は、あれほど言うのだから功徳があるかも、という藁をもつかむ気持ちで入会する。もしかしたら、ご本尊様に祈っていけば解決できるのでは、という淡い期待を持つ人もいる。


 

しかし、学会員から祝福されるのはここまでである。入会して座談会や様々な会合に出ると、聖教新聞や大白蓮華は購読させられるのはもちろん、様々な本を買わされる。

そのうち民音に誘われたり、「先生の本を読みましょう」などと言われて、本を少しずつ買わされる。もちろん最初からはそこまで一挙には行かない。同時中継などに連れて行き、「先生」があちこちから勲章や名誉学位などを戴く、いかに優れた人かを教え込む。

この段階、あるいは聖教新聞を購読し始めた時点で、口汚い罵詈雑言を知り、不愉快に思う人が多い。だが中には自然にそれになれていき、本人もそう思うようになっていくことがある。やがて家族がいれば、聖教新聞を家族分だけ取るように言われたりする。

こうしてだんだんと、信者は引き込まれていき、会合ですばらしい「体験談」を聞かされ、この宗教がいかに御利益があるかを印象づけられる。同時に、退転した人がいかに苦しみ、地獄に堕ちていったかについてもしっかり教え込まれる。いわば、功徳という甘い幻想と、「地獄に堕ちるぞ」という罰論の恐怖とをペアにして、理性というよりは感情にたたき込まれる。

 

もし入会するとき、「あの人は本当に私のことを思っていたのだから」と感じていて、それが事実だとしても、学会に入れば心が満たされ願いが叶うという根拠にはならない。


 

知的操作は主として大脳の表層部で行われ、それぞれ○○野、などといわれて、ある程度情報処理を分担して行っているが、感情(情動)はより深い部分が関与している。脳の海馬がこれらに深く関係している事は、最近の研究でも明らかになりつつある。功徳の話も罰論も、感情的な要素は、脳の深部にまで影響を与える。特に、暗示にかかりやすい人は、罰論の方を怖がるようになる。


脱会しても罰論におびえる人はかなり見かけるが、これは形式的に会を抜け、知的・表面的には信じるのをやめても、脳の奥深いところでは事実上、「深く信じ続けて」いるからである。

その反対の例として、私は罰論は最初から馬鹿馬鹿しいと思って信じなかったので、平気でいろいろな宗教団体やお寺のところにも行って来た。

 

また私は功徳論にもかなり疑問を持っている。
お題目を唱えることによって、いわゆる偽薬(プラセボ)効果程度のことならあり得ると思うが。ただし偽薬効果は、最近の医学領域での研究では、当初考えられたほど大きくはない、という結果も出ている。


 

さて、入会者がやがて会合にも頻繁に出てくるようになると、「活動家」と捉えられ、学会はただ自分で信仰していれば良いのではない、と言われ、選挙活動にかり出される。最初の頃は「知り合いがいませんか」程度だがだんだん自分で選挙の票取りに行かされる。そして折伏、新聞啓蒙(営業)などがこれに加わる。これらは信徒として大切な活動だと言われる。

 

ここまでくると、心の中に様々な葛藤が生じてくる。人様々ではあるが、「選挙活動はなぜ仏道修行なのか」「新聞はなぜ必要もないのによけいに取らなければならないのか」などである。あるいはこれらの行為が苦手な人、じっくり考えてから行動する人や内向的な人は、大いに苦悶する。ここで無理してもやらせると、心身に異常を来し、様々な症状を呈していく。

 

また、子どもをおいて活動するよう言われるから、子どもの発達に悪影響が出やすくなる。特に学会活動に夢中になって、事実上、育児放棄状態で育てられた場合、影響は深刻である。

 

これらの個人的な問題は、当然組織が生み出した問題である。「個人差があるじゃないか」という人は、悪影響を生み出す確率が非常に高い事を考えなかったり、「自分は平気で活動している」という、自己中心的な考え方をしていると思う。

 

たとえ脱会しても、書類と意識の上では「非会員」ではあるが、罰論などを信じ込んでいる人はそのため、無意識的にはあくまで「深く信じている学会員」のままである。

学会信仰は、このようにたとえ組織を抜けても罰に対する恐怖反応が容易には消去せず、結局、罰を密かに信じているという点では事実上信者同然の状態が続く恐れがあり、実際そういう人は多い。

 

ここから抜け出るのは、結局は、本当の意味で信仰を完全にやめる(罰論の論理を心から否定する)ことが重要であろう。そのためには周囲の援助も当然必要と考えられる。

 

コメント (8)