時計の針の 巻き戻し

ふだんの生活の中で、ふとやり残した感じがすること有りませんか?時計の針は、自分で巻き戻すものです。

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「仏知恵」で、願いは叶うか?

2006-02-26 23:22:31 | 功徳比較論特別講義

お金の件については理解してくださったようですが、それ以外の事ではどうでしょうか?

叶わざる事無し、と昔から聞かされましたが、人間関係に絡む問題については、叶ったのかどうかさえ分かりがたい、と言えましょう。例えば友だち関係が上手くいきますように、と願ったとします。祈りをすると確かに心が落ち着いたり、思いがけない事に気づいたりすることがあるでしょう。それによって、相手に対する態度も変わって行くことは考えられます。

ときどき、「全ては自分次第だ」というようなお説教めいた話が、学会内外で聞かれます。でも、本当にそう上手くいくでしょうか?たまに成功することはあっても、いつも上手くいくとは限りません。人間関係は、相手があるわけですから。

それが、自分の気持ちが変われば全て上手くいく、となったら、友だちとの関係も恋人との関係も全てが円滑になるでしょう。ただし、ある程度はその可能性はあります。それはいわゆる明るく他人思いで、神経質でない性格の人が、比較的人に好かれやすい傾向があるからです。事実、性格的に明るい学会幹部の中に、こういう傾向の人が多いのは事実です。

しかしそれは誰でもなれるものでなく、性格というものがそう簡単に変わるものではない事は良く知られています。またたとえ、上記のような性格の人であっても、「嫌だ!」という人はいます。それに、人間関係は誠に複雑で、状況によっては普段の友人が競争相手になったりします。

また人とのつき合い方の技術というのがどうやら幼児期までに、仲間関係でその基礎が出来上がってしまうらしいことがわかっています。ところが、その具体的なことは実はほとんど分かっていないのが現実です。例えばどういう状況の時に、どういう集団の中では、どのように振る舞えば仲間に入れるのか、また仲間はずれになってしまうのか、など、詳しいことは発達心理学者たちが一生懸命観察したりして研究してますが、前にも書きましたように、特に日本人はノンバーバルなコミュニケーションを良しとする民族ですから、非常にわかりにくいんです。

これが恋愛になると、さらに難しく、確かにその能力は一種の対人関係能力ですが、その能力に秀でた人がいるのは事実ですが、私などは残念ながら・・・というところです。

勿論心理学者も手をこまねいているわけではなく、人間関係のトレーニング講座はあちこちにありますし、恋愛講座もあるようです。特に男性に悩み深い人が多いらしく、以前聞いた例では、「男性扱いのエキスパート?」と言えるほどの女子大生を募集し、うぶな男性に模擬デートを行わせ、色々指摘するそうです。私はまじめに考えて、これはとてもいい方法だと思います。ただ、値段がベラボーに高いようですが。

あれ?信心の話はどうした?って言われそうですからこの辺で戻りますと(笑)、結局祈りだけで何とかしようとするよりは、対人関係能力を高めた方が妥当、ということです。一生懸命祈って、「どうか、上司と上手くいきますように」、「どうか彼女と恋人同士になれますように」と願っても、恐らく人間関係に関しては、知識よりも更に「仏知恵」は出にくいでしょう。祈って変わるのは恐らく、自分が真剣に考えているという態度と、本人の性格などにもよりますが、気持ちが落ち着くこと、ぐらいなものでしょう。

学会での指導で、「題目によって宇宙のなにがしを動かし・・・」という言葉も良く聞きますが、これを文字通りに考えたら、超常現象は果たして起こせるや否や、という問題になってしまいます。もっとも私の実験でも、テレパシーや透視に関しては、「否定は出来ない」程度の結果は出ることはありますが、大宇宙の生命を動かし・・・と言う言葉を、極めて真面目にその文字通りに理解したら、これは念力の話になり、特殊な学問領域、又は一種の神秘主義の話になるでしょう。

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「仏知恵が沸く」ということ

2006-02-24 21:55:25 | 功徳比較論特別講義

学会で本尊に向かって祈るとやがて「仏知恵」が沸き、問題が解決する、とよく言われました。これは本当でしょうか。

まず、会合などで全員で色々指導をされながら唱題するのと、一人で問題解決をひたすら願いつつ唱題するのとは、いろいろな面で異なるでしょう。前者は、その雰囲気にとけ込めれば、集団意識、仲間意識、目標に向かう気持ちが高まり、気分が高揚します。この状態が更に進むと一種の集団催眠に似た状態になります。

そうなると集団の中でみんなと一緒に行動しているという一体感から来る安心感、優越感も味わえます。集団として目標を達成させるには非常に効果的な方法です。ただしその代わり、個人に特有な問題の解決には向きません。

そのため個人の問題解決のためにはどうしても本尊と自分とが一対一で向き合う必要があります。そうして祈りを続けているうちに、これまた独特の類(自己)催眠状態になります。この状態ではいわゆる潜在意識(*心理学者は普通、無意識と言う言葉を使います)が現れやすくなり、抑圧されていた考え方や感じ方、そして自分の様々な経験や知識が活性化され、問題解決への糸口に向かった考えが生じることがあることは否定できません。ただし、この状態は、公平に言えば他の宗教でも同じような手順で祈れば、同様になります。

ここからが問題です。はたしてそこから生じた知恵は「無限の可能性」を示すものでしょうか。

類催眠状態では確かに、押さえられていた記憶が活性化されたり、ある知識と別の知識とが統合され、再体制化されて新しいアイディアが浮かぶことがあるのは広く知られています。

同時に次のことも事実です。人間は、自分の記憶の中に貯蔵している考えや、またそれらを新たに結びつけて新奇な考えを想像する働きがありますが、全く記憶に入ってないことからは、何も生じさせることは出来ない、ということです。

例えば、株の売買について全く知らない、聞いたことすらないと言う人がいたとします。その人が、お金が必要になったとき、一生懸命祈ったとして、果たして株に関することが思い浮かぶでしょうか。学会だけでなく、どんな宗教でも無理なはずです。

そういう類のことを良く知らないで、例えば金策のためにひたすら題目をあげるということは、気持ちがそちらを向き、情緒が安定することによってなにがしかの効果はあるでしょうが、具体的な方策を知らなければ、出来ることは限られて来るはずです。

結局、どんなに題目をあげても、より良い「仏知恵」を願うならば、経験や本などで、より妥当な知識をより多く重ねることが最も重要だと言えるでしょう。

ただひたすら祈っていても、何の解決にもならなかった、という例はいくらでもありますが、それはこういう基本を軽んずるからだと言えましょう。

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「育ち治し」の出来る社会

2006-02-12 23:30:45 | 心理学雑論

発達段階説や発達課題説というものがある。いろいろな人が提唱しているが、思考に関するピアジェの理論はかなりしっかりとしていると感じる。他方、学生たちが好むのはむしろ、エリクソンなどである。ただし、私にはエリクソンの概念、例えば「自我同一性」等は、「人間革命」と同じぐらい、曖昧に感じる。

発達段階説や発達課題説は、割と受け容れられやすい。それは我々の社会では、何歳になったらああすべきだ、こうすべきだ、という暗黙の前提があるからである。

ある時学生から、「発達課題を達成できなかったら、それをやり直すということは出来るのでしょうか」という質問を受けた。達成できないと、その次の段階には進めない、と判断できる理論がほとんどだからだろうか、かなり深刻な表情で聞いてきた。

「実はそれこそが問題なんです」と私は返事した。その学生とはそれ以上のことはあまり話さなかったが、実は多くの発達段階説の背後には、「不可逆的」という前提がある。

確かに乳児期に形成されるとされる「基本的信頼感」は、後になってから作り上げるのは困難と言われている。私が「言われている」というのは、ある程度年齢が過ぎてからも形成させようと懸命に努力したりしている人をあまり見かけないからである。恐らくそれは、本当は社会の側が様々な制約を課しているからでは無かろうか。そしてその制約を当然のこととして受け止めているからであろう。

私は多くのカウンセラーや心理療法家にお世話になってきた。その人たちの言うことの中には本当にためになることもたくさんあった。人生の問題について、カウンセラーとの重大な約束を破ってしまったこともあり、その問題では今でも非常に後悔している。

他方、多くの方はよく言えば極めて現実的であった。「今現在からの出発」を唱える人が大部分であった。しかしながら多くの過酷な経験を積んできた人には、「過去に戻ってやり直す」ということが不可欠のように思われる。

ピアノのレッスンなどでは、鍵盤の叩き方を既に間違えて覚えてしまっている場合、間違いを指摘した上で正しい方法を繰り返し練習させる。実は心理学でも行動療法などには、似たような発想がある(かなり違う部分もあるが)。

いずれにしても人間の情緒には、極めて変えにくい部分がある。遺伝的でなくても、幼少時期の経験、とりわけ情動的経験によって形成された部分は変えにくい。

私は今でも、学生であってもある種のタイプの女性は非常に苦手である。なぜか一日会うだけで激しい不安と怒りが生じて容易には治まらない。感情的興奮が生じやすく治まりにくいということには遺伝規定的要因が大きいと言われるが、そのような感情を身につけたのは過去の経験である。また私は、ほとんど放っておかれたせいか、世間での『当たりまえ』感覚、つまり友人や知人とのつきあいなどで、例えば『こういうとき~するのは当然だ』という感覚を、ほとんど感じられず、非常に不安になる事がある。

こういうことを言ったりすると、軒は勉強ばかりしてきたからだ、等と安直な事を言われたりするが、勉強をしていてもそうならない人の方が多い。恐らくは、放任→他者とのコミュニケーション能力未発達→相手が『この人は感覚が違う、どこか変だ』と感じる→人間関係での圧迫感、というような経路が考えられる。加えて、母に似た人間に対して、母に対するのと同様な反応が生じるのだろう(*いわゆる、刺激汎化です)。

私が大学生時代、女子学生の中に私のことを、『普通の人じゃない!』と、会って話しただけで、後で他の人に言った人がいたが、何かを感じたのであろう。

問題はそれからどうするかである。考えられるのは幼少時期に出来なかった経験を今からでも行う、ということだが、日本の社会はそういうことを好まないようだ。

だが人間関係は、特に日本のような、その場の雰囲気やしぐさで気持ちを読むこと(*ノンバーバル・コミュニケーションです)が尊ばれる傾向の強い社会では(*私は若い人の間でもすごくこの傾向が強いと思う)、ピアノや水泳の練習のようなわけにはいかない。どうしても過去に戻ってやり直す必要がある。極端に言えば幼稚園児に戻って、幼稚園児と一緒に実際に活動する、それを短い間に小学生、中学生・・・と一緒になってやり直す、ということが、本当は必要なのではないか、と思う。しかしそれでも、『親の愛』を知らない場合はどうするか、という根本的な問題が残る。

かつてある精神分析家が、ある人に対する分析が進んだとき、患者が分析家に対して尋常でないほどの憎しみを抱いているのに気づき、愛そのものの無い分析が、時としてクライエント乃至ペイシャントを切り刻むだけに終わる、ということに気づいた、と書いていた。

宗教は果たして親の愛の代わりになるであろうか?私が、気が付いたら属していた宗教に関しては、否、と判断する。 

その代わり、私は「育ち治し」の出来る社会が理想と感じる。親の愛の代わりにはならなくても、たとえ社会的制約は大きくても、情動的体験の学習はどうしても必要と感じる。

以前在職していた大学で、講義に出てこなくなった学生が公園で中学生たちと遊んでいるところを見つけられた。問題行動、と捉える人が多かったが、遊びは中学生レベルであり、また本人も友人関係が上手くないから、私は「十分に見守って問題行動に走らないように気を付けさせる」ことさえ出来れば、むしろ本人にとって大切なことかも知れないと感じた。私は大学生に限らず、30代、40代、いや50代、60代であっても、人間関係で悩む人に対しては、ずっと年下の人間と共に遊ぶ(*不謹慎な意図のあるのは当然、駄目だが)のを許可するのみならず、積極的に勧めてみてはどうか、と考えている。そのためには、法的整備さえも必要だと感じる。

 

 

 

 

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馬鹿な話か、陰謀か

2006-02-11 11:37:49 | 政治と社会

こういう事件が生じた。

 17年前の交際で懲戒免職 中学教諭を佐賀県教委 (共同通信) - goo ニュース

17年前には、女生徒との交際は、本当は黙認されていた。ややもすると主として生徒の側が「非行」扱いされ、非難されていた。それはそれで私は問題だと思っていたが、実際はそうだった。

そのころ仕事上、教育委員会に関わり、また数年間、研究のために学校に赴き、打ち合わせにも職員会議にも参加させてもらっていたから、教育委員会管理主事、同指導主事、また学校の校長・教頭や教員の本音は、職員室内部や「反省会」という名前の飲み会やその二次会などで嫌というほど聞いてきた。

それが、法律が変わり、世の中の「風潮」が変わると、まるで昨日のことなど忘れた健忘症患者のように、がらっと変わる。今回のこういう「事件」のような場合は一言で言えば、インチキであるか、陰謀を正当化しようとする企みの場合がある。ただし、あくまで、そういう場合がある、ということで、決してこの事件を陰謀と断定しているわけではない。

しかし、かつて女性を、また児童を保護すべきだとして作られた一連の法律は、当初から極めて危険だと感じた。その趣旨には当然賛成である。だが遠からずして、そういう法律や社会風潮を悪用して、他人を陥れようとする策略が流行するだろう、ということは感じていた。まさしく世の中において、的中した感じである。

当時、そういうことを言ったら周囲から、私の方が激しく非難された。それ以前は、「援助交際ぐらい出来なければ・・・」と言って堂々と論陣を張っていた学者さえいたのに。現場の校長でも、ある公立学校、としか言えないが、女子生徒が携帯で男から着信を受けて早退するのを見逃している現場に会った事さえある。それなのに、という感じである。

こういう心性は、例えば第二次大戦中、「日本は戦争に負けるのではないか。講和した方が・・・」と本音を言った人間に非難が浴びせられたり、建築をする際に多くの建築会社・建築士が多かれ少なかれ、でたらめをしているのがいわば公然の事実であっても、姉歯氏だけを集中的に叩き、「それ以外の者も調べなければ不平等じゃないか」という意見は無視されたり、「平等にやってます」ということを見せるために、抽出検査、等と人を馬鹿にした方法を使う心性と、何か共通した部分があるのかも、と感じている。

 

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