時計の針の 巻き戻し

ふだんの生活の中で、ふとやり残した感じがすること有りませんか?時計の針は、自分で巻き戻すものです。

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学会は遠くなりにけり

2013-04-21 08:06:24 | 思想と宗教

学会活動を身近に、とかまずはお題目、とかという話は私にとっては全くしらじらしい感じがする。

いろいろな会合で学会幹部の姿をみると、「学会は社会の縮図」だと学会自身が言っていた言葉が皮肉にも正しく感じられる。

ある機械工場の社長。素晴らしい功徳、一家和楽の信心と報道されたが、従業員の学会員を次々とリストラして家族もろともどん底の地獄を味あわせた上でのこと。ほとんどの元従業員は行方不明である。

ある女性の大学准教授。”国立大学勤務”であることを鼻にかけ、学術部の人からちやほやされて学術部の幹部にもなっているが、ご自分の業績たるやほとんど何もない。学会員の学者は多いが、大部分の人は活動にも出てこない。

やはり「社会の縮図」か。それもどろどろした我欲の人たちが成功するという社会の。

 

 

 

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創価学会活動の今昔(末端の会員として)

2012-03-29 21:09:20 | 思想と宗教

創価学会というところは不思議なところで、2世3世以降は、全く知らない間に「学会員」になっていても、届を出さないと「非会員」になれない。

そういう意味では私は脱会届は出していないから、今でも「学会員」であることには違いない。

さて、私の周囲の人も次々と学会活動を辞めていったが、「昔は良かった」と言う人が今でもいる。その理由は人によってさまざまだが、組織の上の方の、本当の目的・戦略は何だかわからないにせよ、ご利益(現世利益)を求めて一生懸命に祈っている人が多かった、自分もその一人だ、という人も結構いる。

確かに学会に対して最初から批判的な人であっても、少なくとも一部の人は学会活動でテンションがあがり、「救われた」「大丈夫だ」という安心感を得て頑張り、結果的に世間的な面では成功している人がいることを認めている。もちろんそれは、「ご本尊のご利益」でも「センセイに〇〇を合わせた」結果ではない。学会幹部の中には本尊の代わりに何かの者に向かって祈ってもご利益がある、という人がいたから、それならば日顕師の本尊でも御利益はあったはずである。

とにかく今は座談会でも協議会でも、冷めている人が多い。現実が良く見えるようになったからだと思う。

しかしもしかして、他人に利用されない限り『自分ひとりで一心不乱に祈って心が落ち着き気分がハイになり、結果的にうまくいく』のならそれでも良いかも、とは思うが、実際はなかなかそうはいかない。ただ、現実を見据えつつ一生懸命活動していたかつての活動家の中には社会的に成功した人もいたのは確かである。

ある大学教授が教え子の学会活動家の件について「A君には学会が合う」と言っていた。もちろん、純粋な信仰活動に限ってだが。そのA先輩も定年退職すると同時に学会から離れたが。

「昔は良かった」と言っている人たちは、今ほど金儲け・個人崇拝・政治活動などが露骨でなかったため(*見えなかったため)純粋に祈っていた、という面があったからかもしれない。

『創価学会に利用されず、自分を支えるために信仰として活用する』、というのはほとんど無理に近いが、もし可能ならばその段階までは私も認める。

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「空気を読む」必要がある会合

2011-11-05 22:55:55 | 思想と宗教
創価学会の会合では、相変わらずというかますます、空気を読んで行動することが重要視される。

私は創価学会といえども日本社会で生まれた以上、日本独特の価値観を多くの日本人と『共有』している、という考えである。それは例えばオウム真理教事件が起きた時にある社会学者が述べたように(他にも同様な意見があったかもしれないが)「日本社会の一面をグロテスクなまでに拡大して見せた現象」というのにも通じる考えである。

今でも会合があると頻繁に「先生からのメッセージ」というのが届く。残念ながらその「先生」はどうやら重病で本当は動けず話せずの状態らしい。

だが学会の会合では、日本社会の多くの場所と同じく、「本当の気持ち」を言うのはタブーである。とっさに「空気」を読んでニコニコしながら拍手する、というのが無難な学会内処世術である。決して「王様は裸だ」と言ってはいけないのである。

それは創価学会だからなのではないか、という見解もあるが、日本社会自体が元来、集団主義(良くも悪くも)が強く、いわゆる共産主義国家や全体主義国家の持つ特質を部分的に所持していると言える。

こういう基盤があるからこそ、創価学会は受け入れられたと私は考えている。

さてある会合で最近、前に書いた「軽度発達障害」が疑われている壮年部員がつい、自分の本当の気持ちを言ってしまった。

「先生からのメッセージって言うけど、全国の会合にそんなにいっぺんに出せないだろうが。それに最近、全く出てこない。具合が悪いんじゃないか」

あまりにも正論であった。だが学会では、というより日本では正論を言うことは時には大変なタブーであり、いわゆる空気の読めない、昔流行った言葉ではKYだと言われてしまうことが多い。

その彼は「そういう気持ちだから病気が治らないんだ!」と言われ、みっちり「指導」された。

旧ソビエト連邦では、政府に批判的な人間を「治療」と称して精神病院に入れて、薬物投与などを行ったが、そこまでいかないまでも創価学会にもそういう側面はある。

実際は幹部も本当は気づいている。「先生が亡くなられた後が大変だ。どうなるだろうか」といった類の心配話は良く聞く。

「先生からのメッセージ」にニコニコ拍手しなければならない、というのは逆に言えば学会が切羽詰まった状態にある証拠ではないか。多くの人が危機に気づいているからこそ、「あからさまな真実」はタブーなのである。それは太平洋戦争末期に、日本が危ないと日本のことを考えて言った人たちが「そういう考えだからいけないんだ」と、逆に責任を押し付けられて酷い目に遭った、ということと似た状況だと感じる。
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知っていても言ってはならない世界

2009-11-14 23:00:29 | 思想と宗教
学会の学術部という所も、知っていても言ってはならないことで、その集団の中にいられるところである。「王様は裸だ」とも「王様の耳はロバの耳だ」とも言ってはいけない。

ましてや、「名誉博士というのは・・・だ」「名誉教授と言うのは・・・・だ」などとは、知ってはいても絶対に言えない。

しかし、本当のことを知っていても言えないのは辛い。学術部員であり続けるためには我慢強さが必要なのだろう。
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時代に合わせるということ

2009-10-09 13:40:49 | 思想と宗教
ある創価学会幹部が会合で,「癌にかかったら助かるか,あるいは助からなくても亡くなるときには成仏の相になる」という意味のことを言った。

最近の学会系のブログやサイトを覗くと,「断定的な言い方は避ける」という主張もあるから,なるほど,その線に沿った発言だと思った。

ただこれは,宗教としては変だ。だれだって,「癌にかかったら助かった方がいいか,それとも成仏の相で死んだ方がいいか」と聞いたら,助かった方がいいに決まってると思う。

断定的な言い方を避けているのは事実として,創価学会の活動家といえども,癌にかかったら助からない確率が高いことを知っているからではないか。

宗教心のような精神的な強い思い,明るい希望に満ちた考えなどが,免疫力を高めたりして,たとえわずかではあっても病気に効果的に作用することは知られている。

今の創価学会は,その「わずか」の効果さえ,無くなっているらしい。本当は昔からなかったのかもしれないが。

それにしても学会員の間に昔ほどの純粋な信心をする人が減ってきて,冷めた目で組織を見ながら動いている人が増えたのは事実だと思う。

実際に「すべての人が助かるわけではない」ということが広く知られて,「時代に合わせた指導」になったら,もはや,すがるべき対象としての宗教ではありえないと思う。
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