真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

vol2 『Nun Head』~背徳の尼僧ヨアンナ 「Pop Magazine 2008」

2010-12-19 | ファッション写真








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Vol3 『Nun Head』~背徳の尼僧ヨアンナ 「POP Magazine 2008」

2010-12-18 | ファッション写真










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ピーター・ウィアーの最高峰『ピクニック・アット・ハンギングロック』

2010-12-15 | 映画作家






オーストラリア出身のピーター・ウィアーは80年代に日本でも注目された。当時、ウィアーを「シドニー派」、『マッドマックス』のジョージ・ミラーを「メルボルン派」としていたが、前者が44年、後者が45年生まれで、個性は対照的だが、ともにオーストラリアとアメリカをまたにかけたキャリアは長い。
 ウィアーの『誓い』は若きメル・ギブソンを起用した第一次大戦におけるガリポリ戦線を描いた痛ましい青春映画で、『西部戦線異常なし』を思わせる作品だった。『危険な年』ではギブソンとシガニー・ウィーヴァーを起用し、スカルノ政権下の現実を報道するジャーナリストと大使館勤務の女性の恋愛を描いた。この作品ではリンダ・ハントを謎めいた男性カメラマン役として使い、彼女にアカデミー賞をもたらした。これらの成功でアメリカに進出。ハリソン・フォード主演で『刑事ジョン・ブック/目撃者』『モスキート・コースト』を発表。いずれも異文化と出会う西欧人の姿を描いている。文化と文化の衝突もしくは価値観の衝突というテーマは、やがてアザーサイドへと突き抜ける。ジェフ・ブリッジス主演の『フィアレス』は飛行機事故から生還した男が「生き死に」の実感を失ってしまう物語だった。以後もジム・キャリー主演の『トゥルーマン・ショー』などジャンルの壁を越えた異色作を連打し、独自のキャリアを築いたのである。

 しかし、そんなウィアーの真にオリジナルな傑作はオーストラリア時代の作品。白人が直面するアボリジニの神秘をミステリアスに描いた『ラスト・ウェーブ』、そして『ピクニックatハンギングロック』かもしれない。後者は、寄宿学校に暮らす少女たちが神隠しにあうという物語である(ソフィア・コッポラのフェイバリットでもあり、彼女の『ヴァージン・スーサイズ』への影響は計り知れない)。
 『ピクニックatハンギング・ロック』にはアール・ヌーヴォーのスティル・フロレアルと、岩山を象徴とするオーストラリアの原始的・太古的な超感覚の世界が共存している。ここで少女たちは夢を生きて、目を伏せ、目覚めを拒絶している。「物事はみな、始まり、そして終わる。定められた時と場所で」――この言葉が映画のすべてを言い表している。少女のひとりはピクニック場所でくつろぐ仲間たちを見下ろして呟く――「まるでアリよ。目的のない人間がなんて多いの。あの人たちもたぶん自分でもわからない役割を果たしているのね」。そしてその直後、岩山のなかへ消えていく。この超現実的な出来事が残された人々に波紋を及ぼしていくのである。
 冒頭、エドガー・アラン・ポーの「私たちが見るものも、私たちの姿もただの夢、すべては夢の中の夢」という詩が引用される。新世紀の始まりと過去の終焉の狭間で、永遠なる少女たちと対照的に滅びゆくのが校長である。扮するレイチェル・ロバーツも80年に自殺してしまった。
 70年代のアメリカの映画はより原初的なものや土俗的なものへの傾向が目立ったが、同時期のオーストラリアのニューウェーヴたちも西洋文明とアボリジニの世界を対照していた。ウィアーは「オーストラリア人たち、我々は、夢を見ることを失ってしまって久しい。アボリジニーはたちは今でも、夢に触れることができる」と語っているが、同じ頃にイギリス人のニコラス・ローグが『美しき冒険旅行』が超現実的な感覚で描いたオーストラリアの原野もそうした文明批評だった。これと似たモチーフが頻出する『荒野の千鳥足』は保安官が牛耳るむさ苦しき男ばかりの荒野の町から逃れられない男の悪夢の如き物語で、『砂の女』の「豪州荒野版」といった趣もあり、『ピクニックatハンギングロック』の少女たちとは対照的な男の汗の粘っこさ。他の追随を許さない異色作として一見の価値がある。
(渡部幻)









渡部幻

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独り部屋のセルフポートレイト。そこに写った無表情と雄弁と妄想と妄想

2010-12-14 | ファッション写真





男が妄想する、独り部屋で自らの心と肉体と戯れる女の子の姿とはどんなものだろうか。例えば、独り、厚化粧をして鏡の前で挑発的なポーズをとる、淫乱な女の表情と肢体だろうか?男性向けエロ雑誌に掲載されるのは、ほとんどがその手のものであり、それはそういうセックスの飢餓に耐え切れずにいる男が、遠くどこかにいる女にも求める願望や幻想を反映したひとつの様式である。少なくとも、一部の男性の脳内(妄想装置)にとっては、それは魅力的で刺激的な幻想のひとつなのだ。当然、ほとんどの男たちはそれらの幻想が、女性の真実とは無関係に生み出された「幻想」であることを理解している。男性向けエロ雑誌はそのように作られているし、そこで演じているモデルたちも、そのことを心得て演じている(演じることそのものに本気で興奮し、それが演じられたものであることを知りながら、なお興奮するということもあるかもしれない。でもそれは、普通の映画やテレビで観る芝居にも見られる心理である)。

だが、この写真に表現されている「ひとり孤独を慰める女の子」の姿は、そのような男性的な幻想から隔たった淫靡さを湛えている。実際この写真はエロ雑誌ではなく「intarview」というカルチャー誌に掲載されたものだ。

彼女は無表情に自分の裸体を見つめている。この無表情は「自らにカメラを向けている自分の哀れな心」を「冷徹に見つめる残酷な無表情」である。しかし、彼女の肉体は肌をさらし、うずく孤独に身を捩じらせている。いわば「肉体の表情」である。なお奥底から沸き起こる「官能のうずまき」に飲み込まれんと耐え忍ぶ、身を捩じらす苦悶の表出を無表情が観察している訳だが、言ってみればこの無表情は、彼女の「官能の表情」であり、つまり「心の表情」である。「心の無表情」が「肉体の表情」に抑制をかけ、なおかつ滲み出してくる性的本能のうずき……そういう心理描写が、このざらついたファッション写真が持つ強力な官能の秘密、といえなくもない。
この写真には女の哀しみがにじみだした。「孤独」こそ、この女の子が独りレンズの冷徹な視線を前にして、自らの官能の発露をさらさせた「狂おしさ」の元凶である。
男の動物的・本能的なそれとは違い、この女の子の官能の正体は、自らへの「怒り」や「孤独」を、「どこか冷めて見つめる」「冷徹な心」から発せられた「孤独の叫び」としての淫靡であり官能なのである。

しかし、このような男の妄想にこの女の子は唾を吐くであろう。そして彼女は自らの欲望にも男の欲望にも唾を吐くのだ。だからこそ、彼女は満たされることがないのである。謎めく「性にまつわる妄想」や「幻想」は、官能であるからこそ、永遠にやむことのない、どんな人の心をも蝕む浮世の地獄であり、つまり、つかのまの天国である。

今回の写真は「インタビュー」誌からだが、妄想装置としてのファッション誌、特に海外の雑誌には、このように人間の深層心理や性に斬り込んで優れている写真が掲載されることがある。たとえば、ファッションとは飾ることであるが、自らを飾りつけるためには、身もとろけるような官能とともに、飾る人間の心の虚無を見つめることのできる、無表情で冷徹な視線が不可欠なのだろう。それは女性がときおり見せる、自らを含む人間の孤独に対して、思い切り冷血になれる恍惚の視線なのである。

モデルはmariacarla boscono 写真家はmikael jansson タイトル「express yourself」





渡部幻

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ズラリ立ち並ぶ黒髪ヌードと、ひとつでた腕と左斜め上への視線

2010-12-10 | 写真

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