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「ダレスの恫喝」についての古谷経衡氏の嘘

2018-09-19 00:33:20 | 領土問題
 またか!
 私は慨嘆した。

 BLOGOSに引用されたYahoo!ニュースの記事「日露平和条約締結は日本の決断次第~そろそろ2島返還で決着の時だ~」で、古谷経衡氏がこんなことを言っている(太字は原文のまま)。

 
ではサンフランシスコ講和条約で放棄した「千島列島」とはどの島々を指すのかといえば、当然、国後島・択捉島を含む占守島までの全千島である。事実、1951年9月7日、吉田茂首相はサンフランシスコ講和条約で「放棄した千島列島には、北千島と南千島(国後島・択捉島)が含まれる」と明言し、同年1951年10月19日、西村外務省条約局長は衆議院での国会答弁でも同様の政府見解を繰り返した。

〔中略〕

 そしてこの路線のまま1955年から1956年まで、ロシアとの国交回復・平和条約交渉が開始される。以下、『日ソ国交回復秘録~北方領土交渉の真実~(松本俊一著、朝日新聞出版)”モスクワにかける 虹 日ソ国交回復秘録”から改題』は日ソ交渉に直接あたった松本氏による第一級の回想録として有名であるから適宜引用する。

 そしてこの本の中で、紆余曲折はあったものの、当時、日本側の重光葵全権大使は、 

「かくて重光君は七月末(一九五六年)、モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが、一週間ばかり経つと『事ここに至っては已むを得ないから、クナシリ、エトロフ島はあきらめて、平和条約を締結する』」といって来た。

出典:前掲書。強調筆者〔深沢註:筆者とは古谷氏〕)


 と、無念の思いは強いが、国後・択捉の両島を諦めて平和条約を併結する方針だったのである。ところが重光外相(鳩山一郎内閣)の態度はこの後急変し、国後・択捉・歯舞群島・色丹の「四島一括の帰属の確認」と強硬路線に転換した。なぜだろうか。公な文章にはなっていないものの、ここに冷戦下にあって日ソ和解を嫌うアメリカの横やり、つまり有名な「ダレス恫喝」が強く影響したのだ。

ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった

出典:前掲書


 これが「ダレス恫喝」である。

・態度を急変させた日本

 この日本政府の態度の硬化により、2島返還による平和条約締結で決着しかけていた交渉は、1956年2月に入って、日本が4島返還(帰属確認)を主張することで、一旦日本側が放棄した国後・択捉の領有を当然譲らないソ連の主張と真っ向から対立することになる。結局、『日ソ共同宣言』がなされ日ソの国交は回復したが、平和条約の締結ができないまま、この異常な状態が70年以上続いたまま現在に至る。


 政府の4島返還論に批判的な論者がよく持ち出す、わが国は歯舞・色丹の2島返還でソ連とまとまりかけていたのに、米国の「ダレスの恫喝」で4島返還論に転じざるを得なくなり、領土問題は膠着したとの主張の典型である。

 私はこれまでに何度も述べているが、これは嘘である。

 重光は元々対ソ強硬論者であった。外相としてこれまでの交渉(その多くは松本俊一が携わった)でソ連に歯舞・色丹の線で妥結の用意があることはわかっていた。しかし、このモスクワ交渉で、歯舞・色丹以外の領土についてはしばらく棚上げとしようとするなど、より多くのものを獲得しようとがんばった。だがソ連は、あくまでも歯舞・色丹の引き渡しをもって平和条約の締結、つまり領土の画定とする姿勢を崩さなかった。
 すると重光は豹変し、やむを得ずソ連案をそのまま呑む以外にはなく、しかも自分は全てを任されているから日本政府への請訓の必要もないと松本に言い出した。
 松本は、これまでの交渉で、歯舞・色丹で妥結の可能性があったのにもかかわらず、重光から国後、択捉をあくまで貫徹せよとの訓令を受けて苦労した経緯や、政府の規定方針、自民党の党議、国民感情等を考慮してこれに反対し、重光もしぶしぶ請訓することに応じた。
 請訓を受けた鳩山政権の閣僚、自民党の3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相はソ連案を拒否するよう重光に返電した。交渉はまたも決裂した。

 「ダレスの恫喝」とは、この第1次モスクワ交渉の帰路、重光がロンドンに立ち寄ったときのことである。
 重光はロンドンの米国大使館にダレス国務長官を訪問し、日ソ交渉の経過を説明した。このときに「国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」云々といった話があったという。
 しかし、これは鳩山首相が重光の2島返還での妥結の請訓を拒否した後の話である。それ以前に、松本俊一を全権とする日ソ交渉で、重光外相は既に国後、択捉を貫徹せよとの訓令を出していたのである。
 だから、2島返還でまとまりかけていたのに、「ダレスの恫喝」でわが国が4島返還論に転じたとの主張は成り立たない。

 こんなことは、古谷氏が挙げている、松本俊一の『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』をちゃんと読めば全て書いてあることである。
 古谷氏は、もっともらしく「日ソ交渉に直接あたった松本氏による第一級の回想録として有名であるから適宜引用する」と述べているが、本当に本書を読んだのだろうか。読んだとしても拾い読みではないのだろうか。

 古谷氏が挙げている本書からの引用2箇所のうち、「ダレスは全くひどいことをいう」以下の箇所は確かに本書にあるが、「かくて重光君は」以下の箇所は、私が今確認した限りでは本書には見当たらない。
 本書の第1次モスクワ交渉の箇所で、松本は「重光全権」と記している。松本から見て外交官としても衆議院議員としても先輩の重光を「重光君」とは言わないのではないか。
 また、「モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが、〔中略〕といって来た」とあるのもおかしい。松本は第1次モスクワ交渉で重光に同行しているからだ。
 これは、鳩山一郎の回顧録あたりからの引用ではないのか。

 また、古谷氏は
「この日本政府の態度の硬化により、2島返還による平和条約締結で決着しかけていた交渉は、1956年2月に入って、日本が4島返還(帰属確認)を主張することで、一旦日本側が放棄した国後・択捉の領有を当然譲らないソ連の主張と真っ向から対立することになる」(太字は引用者=深沢による。以下同)
と述べているが、重光が2島返還で妥結しようとした第1次モスクワ交渉は、古谷氏がどこからか
「かくて重光君は七月末(一九五六年)、モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが」
と引用しているとおり、7月末以降のことである(「ダレスの恫喝」は8月)。これでは因果関係が前後している。
 古谷氏は、自分が何を書いているのか理解していないのではないか。

 北方領土問題が停滞して久しい。
 この際、2島返還でもいいから、日露平和条約締結で関係改善をという主張が出てきても不思議ではないと思う。
 4島かそれ以上を要求しないなど日本国民としてあってはならないかのような雰囲気が蔓延するよりは、はるかに健全なことだろう。

 だが、嘘で国民を騙すのはやめてもらいたい。
 著名人であればなおさらのことである。



関連過去記事

領土問題をめぐる議論のウソ(1) 「ダレスの恫喝」でわが国は4島返還論に転じたというウソ(2016)

領土問題をめぐる議論のウソ(3) 2島返還で妥結寸前だったというウソ(2016)

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について(2012)

北方領土問題を考える(2009)

「2島」は4島の半分ではない(2009)



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