トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

丸山眞男の「ファシズムの担い手」論について

2007-05-07 00:27:37 | 日本近現代史
 前から気になっていたことについて、時間ができたので書いてみる。

 丸山眞男といえば、戦後民主主義をリードした政治学者。故人となった現在でもリベラル派の教祖的存在であり、毀誉褒貶が著しい。
 そんな丸山の著作の中に、日本のファシズムの担い手について、以下のような有名な記述がある。

《ファシズムというものはどこにおいても運動としては小ブルジョア層を地盤としております。ドイツやイタリーにおいては典型的な中間層の運動でありまして、(中略)日本におけるファシズム運動も大ざっぱにいえば、中間層が社会的な担い手になっているということがいえます。しかしその場合に更に立ち入った分析が必要ではないかと思います。わが国の中間階級或いは小市民階級という場合に、次の二つの類型を区別しなければならないのであります。第一は、たとえば、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層、第二の類型としては都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層――学生は非常に複雑でありまして第一と第二と両方に分かれますが、まず皆さん方は第二類型に入るでしょう。こういったこの二つの類型をわれわれはファシズム運動を見る場合に区別しなければならない。
 わが国の場合ファシズムの社会的地盤となっているのはまさに前者であります。第二のグループを本来のインテリゲンチャというならば、第一のグループは疑似インテリゲンチャ、乃至は亜インテリゲンチャとでも呼ばれるべきもので、いわゆる国民の声を作るのはこの亜インテリ階級です。第二のグループは、われわれがみんなそれに属するのですが、インテリは日本においてはむろん明確に反ファッショ的態度を最後まで貫徹し、積極的に表明した者は比較的少く、多くはファシズムに適応し追随しはしましたが、他方においては決して積極的なファシズム運動の主張者乃至推進者ではなかった。むしろ気分的には全体としてファシズム運動に対して嫌悪の感情をもち、消極的抵抗さえ行っていたのではないかと思います。これは日本のファシズムにみられる非常に顕著な特質であります。》
(「日本ファシズムの思想と運動」『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964、p.63~64)

 この論文は、1947年に東大で行われた講演を元にしたもの。したがって、文中の「まず皆さん方は第二類型に入るでしょう」の「皆さん方」とは東大生、「われわれがみんなそれに属する」の「われわれ」とは東大生と東大教員を指す。

 丸山を論評する際にしばしば取り上げられる箇所である。
 たしかに、「まず皆さん方は第二類型に入るでしょう」という箇所には聴衆にたいするおもねりを、「われわれがみんなそれに属する」「消極的抵抗さえ行っていたのではないか」という箇所には免罪符的なものを感じる。自分たちこそが真のインテリ、意見を異にするものは疑似インテリという決めつけもどうかと思うし、さらに、第一、第二の区分についても、恣意的にすぎるのではないかとの疑いをもつ。
 
 谷沢永一の『悪魔の思想』(クレスト社、1996)という進歩的文化人12人を批判した本は、上記の記述をもって、丸山についての章に「国民を冷酷に二分する差別意識の権化」との見出しを付けている。
 竹内洋は、本書の本文及び補註においても、丸山の示す説についてはデータの裏付けが十分になされていないとして、
《だからこの論文は、ファシズムに加担せず、消極的であっても抵抗するのが「(本来の)インテリ」であることを宣言し、聴衆や読者をして「本来のインテリゲンチャ」たらんとする決意を促すエッセイとしてみたほうがよいのである。》
と述べている(『丸山眞男の時代』中公新書、2005、p.116-117)

 ところで、以前、E.フロム『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1951)を読んでいると、次のような記述があることに気がついた。

《ナチズムの成功の心理的基盤を考えるとき、まず最初に次のことを区別しなければならない。すなわち、一部のひとびとはなんら強力な抵抗をなすこともなく、しかしまたナチのイデオロギーや政治的実践の賛美者になることもなく、ナチ政権に屈服した。他の一部のひとびとは新しいイデオロギーに深く惹きつけられ、その主張者たちに狂信的に結びついた。第一のグループは主として労働者階級や自由主義的及びカトリック的なブルジョアジーからなっていた。これらのグループは、ナチズムにたいし、その当初から一九三三年に至るまで、絶えず敵意をいだいてきたが、(中略)抵抗を示さなかった。(中略)ナチ政権に対するこのような簡単な服従は、心理的には主として内的な疲労とあきらめの状態によるように思われる。
 (中略)対照的に、ナチのイデオロギーは小さな商店主、職人、ホワイト・カラー労働者などからなる下層中産階級によって、熱烈に歓迎された。この階級の古い世代のひとびとは、より消極的な大衆的基盤であったが、かれらの息子や娘たちがより積極的な闘士であった。(中略)ナチのイデオロギーがなぜそんなに下層中産階級に共感をよびおこしたかという問題の答は、下層中産階級の社会的性格のうちに求められなければならない。(中略)下層中産階級にはその歴史を通じて特徴的な幾つかの特性があった。すなわち、強者への愛、弱者にたいする嫌悪、小心、敵意、金についても感情についてもけちくさいこと、そして本質的には禁欲主義というようなことである。》

 何だか丸山と似たようなことが書いてある(職種による区分の仕方は異なるが)。
 フロムが本書を出版したのは1941年。丸山が前掲論文を執筆した際に本書を知っていたかどうかはわからない。
 ただ、フロム(1900-1980)はユダヤ系ドイツ人で、ナチに追われて1934年に米国へ移住している。フロムも『自由からの逃走』の中では、下層中産階級がナチズムを支持したという説の根拠を示していないが、おそらくは同時代人としてのフロムの体験も反映されていることだろう。

 山口定『ファシズム』(岩波現代文庫、2006、親本は有斐閣、1979)によると、

《イタリアでムッソリーニ政権ができたのとほとんど同じ時点から、一つの有力な解釈が主張されてきた。それは、ファシズムの「社会的基盤」となったのは、小市民層、もしくは広い意味での中間層(より正確にいえば、中間的諸階層)であったとする解釈である。
(中略)そしてこの立場は、研究者の間では、一般に「中間層ファシズム論」もしくは「ファシズムに関する中間層テーゼ」と呼ばれている。》

という。
 とすれば、丸山が同様の認識に立っていてもおかしくない。
 そして、本来のインテリと疑似インテリという用語の問題や、丸山のおもねりといったことは別として、純粋に日本のファシズムの積極的支持層と消極的支持層(消極的抵抗層)ということを考えた場合に、

積極的支持層・・・小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、一部の(程度の低い?)学生層
消極的支持層・・・都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び(東大など程度の高い?)学生層

という区分が妥当なのかどうか。
 フロムの記述を考えても、あながち誤りとも言えないのではないか。
 おそらくは当時の丸山の実感に基づいているのだろうし、この点で丸山を批判するならば、上記の区分が妥当でないことを自ら示す必要があるのではないだろうか。
 谷沢の前掲書はもう処分して手元にないが、その点への言及はなく、単に疑似インテリといった用語を批判し、また職業により人を差別するものでケシカランと論難するにとどまっていたように思う。それでは批判として不十分だと、今にして思う。

(2007.5.8付記)
上記の丸山からの引用文において、促音としての「つ」は入力上の便宜のため「っ」に直した。また傍点は省略した。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。