1月29日付産経新聞の1面コラム「産経抄」が、東日本大震災で殉職した町職員に絡めて真岡事件を取り上げていたことを、ブログ「黙然日記」で知る。
真岡事件については、私も以前の記事「真岡事件――何故彼女らは死ななければならなかったか」で取り上げたことがある。
この産経抄の文中の真岡事件の解説は、どうもどこかで読んだ気がするなと思っていたが、上の私の記事を読み返してわかった。これは昔産経に連載された「教科書が教えない歴史」の記述に基づいているのだろう。
しかし、彼女らは、他の民間人が全員引き揚げた後、孤立無援で交換台を守ろうとしたのではない。ほかにも残留していた人々は多数いた。真岡郵便局の局舎内にも男性を含む職員が残留していた。
彼女らが自決に踏み切ったのは、殺される、あるいは陵辱されるといった身の危険が間近に迫ったからではない。戦時における異常心理の産物だったと思われる。そのことは以前の記事にも書いた。
「年配の読者」から「終戦直後の真岡事件と重なって思えた」という手紙があったというが、その読者は、事件の実相をあまりご存じないのではないだろうか。樺太に残留していた日本人は全て虐殺されたとでも思っておられるのではないだろうか。
「むろんこちらは自決であり、津波のときと状況は違う。だが命を賭して任務を遂行しようとしたことが共通して見えたというのだ」と産経抄子は言うが、これは果たしてそのような共通点でひとくくりにしていい話だろうか。
防災放送によって、たとえその放送の主は亡くなったとしても、多数の人間を救うことはできるだろう。
だが、真岡の9人は、いったい何のために死んだと言えるのか。
彼女らの「命を賭して任務を遂行しようと」いう意志それ自体を否定するつもりはない。だが、彼女らがあそこで死を選択するのが必然だったとは思えない。
黙然日記さんがおっしゃるように、産経抄子はこの事件を「道徳」「の教材」として、何を教えたいと言うのだろうか。
以下はさらに余談。
上記の私の過去記事では、産経新聞の古森義久の2007年のブログの記事を引用している。
その時には真岡事件についての「教科書が教えない歴史」の初出時と文庫本との記述を比較することに頭がいっぱいで、古森の記事それ自体はきちんと読んでいなかった。
今読み返してみると、古森はこんな珍妙なことを言っている。
朝鮮人慰安婦がソ連軍による蛮行と同様の「戦争という異常な環境の下での女性の悲劇」と同列視できるのかどうかも大いに疑問だが、それはさておき、真岡事件は「ソ連がらみの日本女性の悲劇の代表的ケース」ではない。絶対にない。
真岡事件は、ソ連軍の侵攻を目前に、女性職員が勝手に集団自決を遂げたという異例のケースなのである。
こんなものを「代表的ケース」と言うなら、それこそ陵辱されたり虐殺されたりした日本人女性の霊が化けて出やしないか。
(そもそも、映画を「考察の一指針」などと述べている時点で、既にお話にならないように思うが。)
大震災で亡くなった宮城県南三陸町の女性職員、遠藤未希さんの話が埼玉県の道徳の教材になるそうだ。津波襲来のさい、防災放送で町民に最後まで避難を呼びかけ、自ら犠牲となった。その使命感や社会に貢献する心を児童や生徒に伝えたいのだという。
▼南三陸町で防災対策庁舎に残り、津波で亡くなったのは39人に上る。放送のおかげで助かったという町民も多く、遠藤さんたちの働きはこれまでも何度か報道された。そのとき、年配の読者から「終戦直後の真岡事件と重なって思えた」という手紙をいただいた。
▼昭和20年8月20日、日本領だった樺太(サハリン)の真岡郵便局で9人の女性電話交換手が集団自決した事件である。当時の電話は、郵便局で交換手が線をつなぐ方式だった。それだけに緊急連絡が増える戦争や災害のときなど、交換手が極めて大きな役割を担っていた。
▼真岡町は樺太南部に位置していたが、日ソ中立条約を破って日本に宣戦したソ連軍が間近に迫ってきた。しかし9人は他の民間日本人が本土に引き揚げても、最後まで交換台を守り続けた。ソ連艦の艦砲射撃で町中が火に包まれる中、自ら命を絶ったのだった。
▼むろんこちらは自決であり、津波のときと状況は違う。だが命を賭して任務を遂行しようとしたことが共通して見えたというのだ。もっとも真岡事件の方は、北海道稚内市の公園に「九人の乙女の碑」があるだけで、ほとんど忘れられようとしている。
▼遠藤さんに戻れば、父親は教材となることに「娘が生きた証しになる」と話しているそうだ。これ以上の供養はないだろう。真岡の9人についても道徳や歴史の教材となれば、せめてもの救いになると思うが。
真岡事件については、私も以前の記事「真岡事件――何故彼女らは死ななければならなかったか」で取り上げたことがある。
この産経抄の文中の真岡事件の解説は、どうもどこかで読んだ気がするなと思っていたが、上の私の記事を読み返してわかった。これは昔産経に連載された「教科書が教えない歴史」の記述に基づいているのだろう。
しかし、彼女らは、他の民間人が全員引き揚げた後、孤立無援で交換台を守ろうとしたのではない。ほかにも残留していた人々は多数いた。真岡郵便局の局舎内にも男性を含む職員が残留していた。
彼女らが自決に踏み切ったのは、殺される、あるいは陵辱されるといった身の危険が間近に迫ったからではない。戦時における異常心理の産物だったと思われる。そのことは以前の記事にも書いた。
「年配の読者」から「終戦直後の真岡事件と重なって思えた」という手紙があったというが、その読者は、事件の実相をあまりご存じないのではないだろうか。樺太に残留していた日本人は全て虐殺されたとでも思っておられるのではないだろうか。
「むろんこちらは自決であり、津波のときと状況は違う。だが命を賭して任務を遂行しようとしたことが共通して見えたというのだ」と産経抄子は言うが、これは果たしてそのような共通点でひとくくりにしていい話だろうか。
防災放送によって、たとえその放送の主は亡くなったとしても、多数の人間を救うことはできるだろう。
だが、真岡の9人は、いったい何のために死んだと言えるのか。
彼女らの「命を賭して任務を遂行しようと」いう意志それ自体を否定するつもりはない。だが、彼女らがあそこで死を選択するのが必然だったとは思えない。
黙然日記さんがおっしゃるように、産経抄子はこの事件を「道徳」「の教材」として、何を教えたいと言うのだろうか。
以下はさらに余談。
上記の私の過去記事では、産経新聞の古森義久の2007年のブログの記事を引用している。
その時には真岡事件についての「教科書が教えない歴史」の初出時と文庫本との記述を比較することに頭がいっぱいで、古森の記事それ自体はきちんと読んでいなかった。
今読み返してみると、古森はこんな珍妙なことを言っている。
前回のエントリーで現在の中国領土内での日本人看護婦の性的奴隷化や集団自決について書いたのは、いま日米間で論議を呼ぶ慰安婦問題も戦争という異常な環境の下での女性の悲劇だったという共通項を考えたいと思ったからです。
このエントリーにはブログ上でのコメントに留まらない反響がありました。ソ連軍が日本人に対して働いた蛮行の数々、とくにその犠牲になった日本人女性の悲劇をこの際、もっと報告すべきだという要望が複数ありました。その趣旨は慰安婦問題を多角的に、総括的に考えるため、とみなしてもよいでしょう。
そうしたソ連がらみの日本女性の悲劇の代表的ケースが「真岡事件」です。
1945年8月20日、樺太で戦争がすでに終わったのに、なお攻撃してきたソ連軍部隊のために、日本人の電話交換手たちが死に追い込まれたという事件です。
この悲劇は1974年には「樺太1945年夏 氷雪の門」というタイトルの映画にされました。しかし当時の政治情勢、より具体的には「ソ連を刺激してはならない」という理由で、その公開上映が抑えられてしまいました。
「真岡事件」とはなんだったのか。
「氷雪の門」とはどんな映画なのか。
以下のいくつかの引用からお知らせして、慰安婦問題考察の一指針にしたいと思います。
朝鮮人慰安婦がソ連軍による蛮行と同様の「戦争という異常な環境の下での女性の悲劇」と同列視できるのかどうかも大いに疑問だが、それはさておき、真岡事件は「ソ連がらみの日本女性の悲劇の代表的ケース」ではない。絶対にない。
真岡事件は、ソ連軍の侵攻を目前に、女性職員が勝手に集団自決を遂げたという異例のケースなのである。
こんなものを「代表的ケース」と言うなら、それこそ陵辱されたり虐殺されたりした日本人女性の霊が化けて出やしないか。
(そもそも、映画を「考察の一指針」などと述べている時点で、既にお話にならないように思うが。)






