蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

教育基本法より刑法改正が先だ!ーいつまで野放し、少年殺人!ー

2006-04-24 12:54:02 | 時事所感
4月23日(日) 曇り、暖。

 朝、7時45分。腰に鉈を下げ、安全靴を履き集合場所に指定されている山神様の祭ってある山林に向かった。

 集落の外れの登り勾配の舗装道路から細く分岐した山道を入り暫くいくと、新緑の始まった雑木林の数本の大きな赤松の木陰に何人かの人影が見えた。
 ここら辺の人たちは皆律儀である。集合時間より前には来ても遅れてくる人などまずいない。

 十二、三人の顔がそろったところで”触れ”(今日の作業行事のお知らせ)を出した責任者のMさんから簡単な挨拶があった。曰く、「山の神様は、ここに集落のできた昔から、薪をひろったり、落ち葉をかいたり、山菜や茸をとったりとお山の恵に感謝し、お山を清めるために年一回昔から遣っている行事である…」と。

 見れば、正面の四尺四方ほどの井桁に組まれた石柵の中に、漬物石ほどの自然石がご神体として鎮座ましましてる。その前で二拍一礼した。そしてお神酒を戴いて作業開始である。
 全員で、神域らしき2、3十坪ほどに生えている雑木を伐採し、倒木をチェンソーでこま切りして片付け、堆積した落ち葉をかき集め、広場の中ほどにある炉石にくべて燃やす。芳しい煙が流れ赤い炎がぱちぱちとはぜる。
 そう広くもない神域は小一時間もするとたちまち小ざっぱりとした広場に変わった。

 炉辺に、ブルーシートが広げられた。真ん中に重箱が置かれ、漬物、煮物、草もちが並ぶ、湯飲みにたっぷりお神酒が満たされる。
 ご苦労様の小宴である。早春の新緑の林の中でのささやかな共同作業は、人々の心を童心に返すのか、出てくる話は山菜取りから茸とり、山遊びのあれこれと…。

 そして、一人の若いお父さんが連れてきた小学一年生の可愛い女の子に皆の注目が集まり、話題は登下校から昨今の学校の門の開閉の厳しさ、さらには今回の岐阜での少年殺人犯罪に話が及んだ。

 そこで、一致した結論は、罪が余りにも軽すぎるということであった。何故、もっと厳しくできないのかということである。中には、犯人が被害者に遣ったとおりの方法で公開処刑にすべしという意見まで飛び出した。これが一般庶民の常識的な罪刑感覚ではないのか。
 
 山家の隠居はひたすら思う。応報刑思想は野蛮であり、教育刑こそが近代思想であり、人権尊重に適うものであるなどと誰が浅薄にも決めたのかと。

 今回の、岐阜での高一少年は、計画的に殺意をもって、相手の少女を誘い出し殺したと聞く。15歳にもなった県立高校の生徒にとって、殺人が悪いことぐらい、お天道様が東から出て西に沈むと同様自明の理と承知しているだろう。と同時に彼の頭の片隅にあるのは、「どうせ俺はまだ15歳、せいぜいが少年院送りの2、3年も我慢すればすむだろう」ぐらいのこともしっかりインプットされていたことも確かだろう。

 今、教育基本法改正云々で愛国心の高揚・義務付けが議論されている。

 しかし、待ってもらいたい。簡単に人を殺すような風潮が蔓延するなかで、何が「あなたの生まれた国を愛しましょう」だろうか?
 今、緊急にやるべきことは、刑法を改正し、少なくとも殺人罪については、成年、未成年の区別なく「人を殺意を持って殺したら、須らく原則死刑」とすべきではないか。

 そうしない限り、百年、二百待っても少年殺人犯罪が、ますます増えることはあっても減ることはないのではないだろうか?

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

 ―追記―
 こんな静かで爽やかな林の中の里人の談笑の話題に、少年殺人犯罪が飛び出すとは、何と不幸な貧しい世の中になったものだろうか。恐らくじっと黙って我々の話を聞いている山の神様も、はて、どうしたものかと、昔に変わる今の世に思いをはせていらっしゃるのでは…。