ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

群馬の温泉とダムの旅(2)

2007年05月13日 | 旅行
朝早く起き出して、6時半頃から、カメラ片手に散歩に出かけた。朝の空気が清々しい中をぶらぶらと温泉街を歩き、河原の方まで行って、写真を撮った。
 戻って来てから、朝風呂に入って、汗を流したんだけど、とてもすっきりしたので、その後の朝食も美味しく食べられた。朝でも、結構豪華な食事で、下手な旅館の夕食くらいのボリュームがあった。しかも、お粥が美味で、おかわりしたくらいだった。
 食後は、部屋に戻って、ゆっくり荷物をまとめ、8時半頃には、宿を立って、もう少し北に向かってみることにした。
 国道17号線に沿って走り、新潟県境に近い、旧三国街道永井宿までいってみた。ここは、昔の宿場の面影が残されていて、以前の旅籠の建物も残っている。かつては、新潟から運ばれてきた米を取り引きする場所となり、賑わったとか...。そのよすがを「永井宿郷土館」の展示で、知ることが出来た。郷土館の前には、若山牧水の歌碑「山かげは 日暮れ早きに 学校の まだ終わらぬか 本読む声す」があるが、これは1922年(大正11)10月22日、いわゆる『みなかみ紀行』の旅の途中で歌ったものなのだ。しかし、他の場所で歌ったものと取り違えて、歌集に掲載されたとも言われている。
 見学後、旧本陣跡へも行ってみたが、今は建物もなく案内板と石碑が立っていた。そこには、1931年(昭和6)、与謝野晶子が法師温泉に来遊中に訪れた時詠んだという歌「訪ねたる 永井本陣 戸を開き 明かりを呼べば 通う秋風」が刻まれていた。
 その後、旧三国街道を通って、猿ヶ京まで戻り、「椿山房(三国路与謝野晶子紀行文学館)」を見学した。まず、与謝野晶子の事績を紹介したビデオを見、館内を巡ったが、豊富な資料と共に、晶子の情熱的な姿が彷彿としてきて、良い勉強になった。
 それからは、川原湯温泉を目指して、峠を越えていった。八ツ場(やんば)ダムによって、水没の危機にある川原湯温泉に入ってみたかったのだ。この温泉はダム建設の予定があったために、増改築が控えられ、昔ながらの温泉街が残されている。その中にある「山木館」の露天風呂に700円也で入浴させてもらった。階段を下りていった渓谷沿いにあり、大きな水車と共に風情がある。聞くと、このままダム建設が進めば、2~3年後には、立ち退かなければならなくなるそうだ。源泉掛け流しで、お湯も良く、すばらしい温泉だけに、とても残念でならない。
 入浴後は、昼を過ぎていたので、JR川原湯温泉駅近くまで戻って、郷土料理店に入り、天ざるうどんを食べた。麺がシコシコして腰があり、天ぷらも上手く揚げてあって、美味しく頂いた。
 食後は、少し走って、八ツ場ダムのPRのためにつくられた「やんば館」へ立ち寄ってみた。そこで、ダム建設の概要を知ることが出来たが、風情と温泉文化の残る川原湯温泉やみごとな渓谷美が続く、吾妻峡の一部が湖底に沈んでしまうのは耐え難いものを感じた。八ツ場ダムは水害対策と首都圏の生活用水確保が目的とされているが、首都圏の水事情も大きく変化しているようだ。第一に、不況以後の企業活動の停滞、工場の海外移転、工場の節水対策の強化など工業用水の需要が伸び悩んでいること。第二に、首都圏の人口増加が鈍化してきていて、家庭における節水対策の強化によって家庭用水の需要も伸び悩んでいることなどだ。従って、従前の水利用計画も下方修正が必要になっているように思われる。このまま、ダム工事を進めると、その工事費や経費が水道料に跳ね返って、水道料金の値上げにもなりかねず、首都圏住民にも困った問題だと考えている。従って、私は埼玉県民だが、そういう意味からも八ツ場ダムはつくってほしくないと思うのだ。八ツ場ダム建設を中止して、なんとか、川原湯温泉を現状のままで残せないものかと考えた。
 その後、中之条町歴史民俗資料館を見学し、渋川インターから関越自動車道に乗ったんだけど、たいした渋滞もなく、所沢インターまでは来た。しかし、その先が混んでいるようだったので、下道におり、夕方には戻ってきた。
 今回は、天気にも恵まれ、3ヶ所のすばらしい温泉に入り、美味しいものもいろいろと食べて、とてもいい旅だったものの、ずいぶんいろいろな所を巡ったんで、ちと疲れた。また、山奥ばかりを巡ったんで、いつも買い求める絵葉書を探したのだが、売っていなかったのが残念だった。


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