ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「織田信長」

2019年11月19日 | 旅の豆知識
 旅先で、特定の人物の足跡を訪ねて回ったことはありませんか?平安時代の貴族、鎌倉時代の武将、戦国時代の大名、江戸時代の武士、明治維新期の志士、大正・昭和時代の文学者だったり、いろいろと活躍した人物がいると思います。時には、特定の人物に的を絞って、歴史を追いかけながら、旅してみるのも面白いと思います。
 中でも、戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将は、結構興味を持って訪ねる人が多いように思いますし、NHKの大河ドラマなどで取り上げられると、関係地に観光客が押しかけたりします。特に、天下統一を目指した織田信長は、人気が高く、足跡を訪ねる人が多いようです。
 足跡は、最初の領国のあった尾張地方をはじめ、中部地方から近畿地方へかけて、各地にありますので、いろいろと訪ねてみるのも面白いのでは....。

〇織田信長とは?

 戦国時代の武将・戦国大名です。1534年(天文3年5月12日)に、尾張守護代織田大和守家の奉行の一人であった父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれましたが、幼名は、吉法師と言いました。1546年(天文15)元服して三郎信長と名乗り、翌年三河へ初陣、1551年(天文 20)に父信秀が没して、家督を継ぎますが、一族内部の抗争が続きます。
 ようやく、1559年(永禄2)に織田信賢を破って織田家をまとめ、翌年の桶狭間の戦いで今川義元を敗死させて、尾張一国を統一しました。1562年(永禄5)に、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃への進出を図り、1567年(永禄10)に、斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とします。
 翌年、足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につけ、その将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。その後、1570年(元亀元)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、翌年に延暦寺の焼き打ちを行います。
 続いて、1573年(天正元)には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させました。さらに、1575年(天正3)に長篠の戦いで、武田勝頼を破り、翌年には近江に安土城を築き、天下統一への拠点とします。
 その中で、関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を実施、キリシタン文化をも摂取して、華やかな安土桃山文化を興しました。その後、中国経略を志して毛利氏と対立しますが、1580年(天正8)に本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配、1582年(天正10)には甲斐武田氏を滅ぼすなど着々と統一事業を進めました。
 しかし、同年6月2日に、京都における本能寺の変で、明智光秀のために自刃させられ、48歳で生涯を閉じます。

〇織田信長の足跡を訪ねて(年代順)

(1)桶狭間の戦い(愛知県名古屋市緑区・豊明市)

 戦国時代の1560年(永禄3)に、駿河の今川義元軍と尾張の織田信長軍との間で尾張国桶狭間付近(現在の名古屋市緑区・豊明市)を中心に戦われた合戦です。約2万5千人もの大軍を率いて尾張に侵攻した今川軍に対して、約2千人の織田軍が本陣を強襲し、今川義元の首を取って、今川軍を敗走させました。織田信長が、それ以後領地を広げ天下統一を目指す転機となった重要な戦いでした。現在は、1938年(昭和13)に国の史跡に指定された「桶狭間古戦場伝説地」(豊明市)があり、史跡指定標柱や七石表(七基の石碑)、今川治部大輔義元墓などがあります。また、少し離れたところに「桶狭間古戦場公園」(名古屋市緑区)があり、今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉、漢詩碑などがあります。桶狭間以外にも徳川家康が兵糧を入れた大高城跡、前哨戦で織田方が全滅した鷲津・丸根砦跡、今川義元が前日に宿泊した今川方の沓掛城跡などが散在していて、見どころがいろいろとあります。

(2)姉川の戦い(滋賀県長浜市)

 戦国時代の1570年(元亀元)に、近江国姉川付近(現在の滋賀県長浜市)で、約2万1千人の浅井・朝倉連合軍と約3万4千人の織田信長・徳川家康連合軍との間で合戦が行われ、織田・徳川連合軍が勝利したところです。序盤では浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の奮闘により、形勢が逆転しました。この結果、千人以上の死者が出て、姉川は血に染まり、朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、その後の浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となったのです。姉川周辺には、野村の姉川戦死者之碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、浅井氏の家臣三田村氏館跡、織田軍の本陣があった龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、浅井長政の家臣遠藤直経の墓などがあって、巡ってみると古の激しい闘いを追想することができます。

(3)長嶋一向一揆(三重県桑名市)

 戦国時代の1570年(元亀元)頃から1574年(天正8)にかけて戦われた、石山合戦に伴なって、伊勢長島を中心として組織された一向一揆で、伊勢国桑名郡長島の願証寺を拠点として、激しく織田信長と対峙しました。1571年(元亀2)、1573年(天正元)、1574年(天正2)と三度に渡る合戦が起こり、織田信長方は苦戦し、氏家卜全、林通政、織田秀成(織田信長の弟)などの有力武将が討ち死にします。しかし、最後には、長島城に立て籠もった一揆勢を追い詰め、皆殺しにして終わりました。願証寺は、その後再興され、河川改修のため現在地に移転しましたが、1975年(昭和50)に、一向一揆の400年の追悼法要がここで行われ、境内に“長島一向一揆殉教の碑”も建立されました。また、長島城の跡は、長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われましたが、東側に石垣および堀が残り、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上の黒松があり、案内板も立てられています。

(4)長篠の戦い(愛知県新城市長篠)

 安土桃山時代の1575年(天正3)に、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍38,000人と武田勝頼軍15,000人との間で勃発した戦いで、織田・徳川連合軍が勝利し、敗北した武田軍は甚大な被害を受けました。決戦地は、設楽原で、武田の騎馬隊に対して、織田・徳川連合軍は、馬防柵を作り、鉄砲3,000丁による3段構えを作って、勝利したと言われています。鉄砲中心の戦術への移行と戦国乱世から天下統一へ向かう重要な戦いでした。現地には、長篠城跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定されていて保存され、その一角に「新城市立長篠城址史蹟保存館」があって、いろいろと資料を見ることができます。また、決戦地となった設楽原には、「新城市設楽原歴史資料館」があって、合戦の様子を学ぶことができますし、周辺には、復元された馬防柵や有力武将の墓、激戦地跡や陣地跡などもあって、散策することも可能です。

(5)安土城跡(滋賀県近江八幡市)

 滋賀県近江八幡市にあり、織田信長の居城跡で天下統一のシンボルとして建てられました。七重の黄金に輝く天守閣がそびえていましたが、本能寺の変で焼失しました。今でも、巨大な石垣が往時を忍ばせ、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定されています。また、2006年(平成18)には、日本100名城に選定されました。その城跡を散策すると、その規模の大きさに目を見張らされます。当時は、大きな城下町も形成されていて、その跡にはセミナリオやコレジオといったキリスト教に関連するものもありました。琵琶湖と通じる舟運に関わる史跡をめぐることもできます。近くに、「滋賀県立安土城考古博物館」があって安土城跡発掘の成果が展示されています。またその並びに「安土城天主信長の館」があって、安土城の復元天守(5・6階部分のみ)を見ることができます。

(6)本能寺の変(京都府京都市)

 安土桃山時代の1582年(天正10年6月2日)に、京都の本能寺において、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃した事件です。これは、羽柴(豊臣)秀吉の毛利攻め救援に出陣するため、京都・本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃されたものでした。光秀は、中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので丹波亀山城において軍容を整え、6月1日夜出発しましたが、京都へ進路を変え、翌日黎明に本能寺の織田信長と妙覚寺の長男信忠を襲います。それによって、信長は本能寺で火を放って自刃、信忠は二条御新造に退いて戦ったものの、やはり館に火を放って自刃しました。その後、備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉は、信長の訃報を知ると急遽和議を結んで、予想以上に早く機内に戻り(中国大返し)、6月13日の山崎の戦いで明智光秀との合戦に及びます。その結果光秀が敗れ、近江坂本城への逃走の途中、小栗栖(おぐるす)において、光秀は落ち武者狩りの農民に殺害されました。

☆織田信長関係略年表(日付は旧暦です)

・1534年(天文3)5月12日 織田大和守家の奉行の父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれる
・1546年(天文15) 古渡城にて元服し、三郎信長と名乗る
・1547年(天文16) 三河へ初陣する
・1548年(天文17) 美濃の斎藤道三の娘と結婚する
・1551年(天文20) 父・織田信秀が没して、家督を継ぐ
・1555年(弘治元) 清洲城の織田信友を討って、居城とする
・1557年(弘治3) 弟織田信行らの反乱を抑える
・1559年(永禄2) 岩倉城の織田信賢を破って織田家をまとめる
・1560年(永禄3)5月19日 桶狭間の戦で今川義元を敗死させて尾張一国を統一する
・1562年(永禄5) 三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結ぶ
・1563年(永禄6) 美濃攻略のために本拠を小牧山城に移す
・1567年(永禄10) 斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とする
・1568年(永禄11) 足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につける
・1569年(永禄12) 北伊勢の北畠氏を屈伏させる
・1570年(元亀元)6月28日 姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破る
・1570年(元亀元)9月12日 本願寺との間で石山合戦が始まる
・1571年(元亀2)9月12日 比叡山延暦寺を焼討ちする
・1572年(元亀3)12月22日 三方ヶ原の戦いで、織田・徳川連合軍が武田軍に敗れる
・1573年(天正元) 朝倉氏・浅井氏を滅亡させる
・1573年(天正元) 室町幕府15代将軍足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させる
・1574年(天正2)9月29日 長島の一向一揆を壊滅させる
・1575年(天正3)5月21日 長篠の戦いで、武田勝頼を破る
・1576年(天正4) 近江に安土城を築き、天下統一への拠点とする
・1580年(天正8)4月 本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配する
・1581年(天正9)2月28日 京都御馬揃えを行う 
・1582年(天正10)3月11日 甲斐武田氏を滅ぼす
・1582年(天正10)6月2日 京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する


最新の画像もっと見る

コメントを投稿