ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「戊辰戦争」

2017年07月27日 | 旅の豆知識
 近年、日本が近世から近代へと向かう、幕末明治維新期の歴史に目を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、幕末明治維新期の跡を追いかけてみるのも、また面白いものです。
 江戸幕府による封建支配は、寛政の改革や天保の改革などの度重なる改革や安政の大獄のような弾圧によっても矛盾を広げるばかりで、農村での百姓一揆、都市での打ちこわしを激化させ、幕府の支配体制を揺るがしました。外圧や西南諸藩による討幕運動もあって、ついに、1867年(慶応3)に大政奉還が行われ、江戸幕府による支配を終わらせることになります。
 江戸幕府に代わって出来た明治新政府も薩摩藩や長州藩などの西南諸藩連合の色合いを強く持ち、諸改革も不徹底で、政治体制の変革を願った庶民の思いとは、かけ離れたものとなってしまいます。また、戊辰戦争による人的、経済的被害も大きなものでした。
 今日は、この近世から近代への変わり目となった「戊辰戦争」の史跡を訪ねてみたいと思います。「戊辰戦争」は、1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および「奥羽越列藩同盟」が戦った内戦で、新政府軍が勝利しましたが、主に近畿・中部から東日本にかけて激戦が展開され、各地にその史跡が残されているのです。
 その足跡を訪ねてみると、日本の近世から近代へと向かう激動期の状況が伝わってきて、結構思いを新たにすることがあるものなのです。

〇「奥羽越列藩同盟」とは?
 幕末明治維新期の戊辰戦争中に東北地方(25藩)と越後(6藩)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された軍事同盟です。最初は、奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟でしたが、赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権の確立を目的とした軍事同盟に変化しました。これに、江戸などから落ち延びてきた旧幕府勢力が加わって、薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と対峙することになりました。

〇「戊辰戦争」とは?
 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆「戊辰戦争」の関係地
 
(1)五稜郭<北海道函館市>
 五稜郭は、北方防備のための洋式城郭として造られ、1866年(慶応2)に完成しましたが、1868年(慶応4)から翌年にかけて、戊辰戦争最後の闘いである箱館戦争が行われたことで有名です。これで、旧幕府勢力による抵抗は終焉しました。現在、五稜郭跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、「五稜郭公園」として保存されていて、巡ることができます。また、公園内に、2010年(平成22)に「箱館奉行所」が木造で復元されて、一般公開されています。

(2)会津若松<福島県会津若松市>
 1868年(慶応4)の戊辰戦争最大の激戦地で、城下町は灰燼に帰し、多くの人材が喪われました。少年藩士が集団自決した、白虎隊の悲劇はこのとき、飯盛山で起こりました。市内には、多くの墓石が残り、その戦闘の激しさを今に伝えていますが、まず、会津若松城の天守閣へと向かいました。戊辰戦争の時は、この城を巡って壮絶な戦いが行われたのです。今でも堀は深く、石垣は高く、再建されたものとはいえ天守閣もそびえています。最上階からは市内が一望の下に見渡され、飯盛山もうかがうことができました。次は、旧滝沢本陣跡に向かいました。ここは、戊辰戦争の時白虎隊が出陣して行った所で今でも当時の弾痕が生々しく残されています。ここからは、徒歩で妙國寺を訪ねました。白虎隊士が埋葬されたところで、なんでも、戦後埋葬が許されず、野晒しになっていたところ密かに夜な夜な運んで埋葬したとのことです。さらに歩いて、西軍墓地へも行きました。ここは、訪れる人もほとんどなく、ひっそりとしていました。西軍十余藩174柱が眠ると記されていて、多くの墓標が立っています。東西両軍とも犠牲が多かったことが知られました。

(3)二本松<福島県二本松市>
 ここには、二本松城跡があり、1868年(慶応4)の戊辰戦争二本松の戦いの激戦地となりました。二本松少年隊の悲劇があったところで、二本松藩主・丹羽氏の菩提寺でもある大隣寺に戦死者16名の墓所があります。また、二本松城跡(霞ヶ城公園)には群像彫刻や二本松少年隊顕彰碑が立っています。二本松市役所近くにある「二本松市歴史資料館」では、戊辰戦争に関する展示がされています。

(4)白河<福島県白河市>
 ここには、白河小峰城跡がありますが、1868年(慶応4)の戊辰戦争白河口の戦いの激戦地で、東軍と西軍の主力間での攻防戦があり、落城しています。その時、三重櫓は焼失し、建物はすべて壊され、石垣と堀を残すのみとなっていましたが、1991年(平成3)120余年ぶりに、三重櫓が史実に基づいて木造復元されました。現在では、みごとな石垣の上に白と黒の勇姿を見ることが出来、内部も見学できます。戊辰戦争白河口の戦いでは、約100日間にわたる戦いがあって、千名を超える死傷者がありましたが、戦後白河の人々は、敵味方問わず戦没兵士を葬り、碑を建てました。市内には両軍合わせて30ほどの碑が残り、今も香華を手向けているそうです。

(5)長岡<新潟県長岡市>
 ここには、長岡城跡があり、1868年(慶応4)の戊辰北越戦争の舞台となった所ですが、戊辰戦争後城跡は徹底破壊され、駅前の厚生会館脇に石碑が建っているだけです。しかし、旧城下には、長岡藩の本陣となった光福寺や“米百俵の碑”、“明治戊辰戦跡顕彰碑”、“河井継之助開戦決意の地記念碑”などの記念碑、八丁沖古戦場パーク、榎峠古戦場、朝日山古戦場、関係者の墓石等が散在していて当時を偲ぶことがことが出来ます。継之助の墓も市内の栄涼寺にあります。また2006年(平成18)、河井継之助の生家跡に、「越後長岡河合継之助記念館」が建てられ、幕末関係の貴重な資料を見ることができるようになりました。

(6)鳥羽・伏見<京都府京都市南区・伏見区>
 戊辰戦争の端緒となった、鳥羽・伏見の戦いのあったところです。1868年(明治元)1月に、新政府軍五千人と旧幕府軍一万五千人が激突しましたが、新政府軍の勝利となりました。それで、前将軍徳川慶喜は海路、江戸へ逃れたため、討幕派の主導権が確定し、その後、慶喜追討の東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始することとなったのです。この戦いに関する史跡としては、長円寺(正門前に「戊辰役東軍戦死者之碑」、境内に「新撰組ゆかりの閻魔王」「戊辰役東軍戦死者埋骨地」がある)、伏見奉行所跡(旧幕府軍が駐屯したが、石碑のみ残る)、御香宮神社(新政府軍の陣所)、東本願寺伏見別院(会津藩の陣所だったが、石碑のみ残る)、文相寺(「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑がある)、妙教寺(境内に「史跡淀古城戊辰役砲弾貫通跡」の碑と「戊辰役東軍戦死者之碑」、本堂に「東軍戦死者の位牌」を残す)、戊辰役東軍西軍激戦之地碑(府道124号線脇にある)、鳥羽伏見戦跡の碑(旧小枝橋)などがあります。

☆戊辰戦争の推移

<1868年(慶応4/明治元)>
 ・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる
 ・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる
 ・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
 ・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
 ・4月11日 江戸城が無血開城される
 ・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
 ・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる
 ・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日でやぶる
 ・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
 ・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
 ・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
 ・9月8日 明治に改元される
 ・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
 ・9月10日 仙台藩が降伏する
 ・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
 ・10月25日 榎本武揚軍が箱館を占領する

<1869年(明治2)>
 ・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
 ・5月11日 箱館総攻撃が始まる
 ・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる


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