朝、6時に帰省していた愛知県の実家を出発して、自家用車で西に向かい、東名阪自動車道から西名阪自動車道に入り、天理のインターチェンジで下りた。その後は、奈良盆地を南下して、飛鳥方面へ向かい、最初に藤原宮跡を訪れた。
橿原市と明日香村にまたがる地域にあった飛鳥時代の都城を藤原京といい、日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城であり、710年(和銅3)に平城京に遷都されるまでの日本の首都とされたのだ。今でも藤原京の中心にあった藤原宮の大極殿の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている。藤原宮跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定されており、現在では、その6割ほどが保存されて、藤原宮及び藤原京の発掘調査が今でも続けられているとのことだ。この地域から、木簡約1,200点が出土していて、古代史を解明する上で重要な資料となっていると聞いている。しかし、正月2日のこととて、周辺はとても静かで、訪れる人もほとんどいない。のんびりと、宮殿跡の柱の跡や石標などを巡って、写真を撮りながら往時を偲んでみたが、大和三山も見えて、とても雰囲気があった。
その後は、さらに南下し、明日香村に入って、石舞台古墳を訪れてみた。ここは、飛鳥時代に造られた、元々は方墳で、盛り土があったと思われるが、現在では、それが失われ、巨石で築かれた横穴式石室(石室の長さ 7.7m、幅 3.4m、高さ 4.8m)が露出した状態となっていて、舞台状の外観を呈しているのでこの名がある。埋葬者は、蘇我馬子と伝えられ、1935年(昭和10)に国の史跡になり、1952年(昭和27)には、特別史跡に指定されたのだ。現在は、国営飛鳥歴史公園の一部として整備されていて、有料で見学でき、その石室の中にも入ることができる。内部から天井を見上げて、シャッターを切ってみたが、その大きさに驚かされ、大きな権力者の墓であることがわかる。歴史の教科書にも出てくる有名な遺跡だが、一見の価値はあるかと思う。
続いて、飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)へと行ってみたが、ここは、1959年(昭和34)からの発掘調査により、多くの掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構などが検出されたところだ。現在は地表上に当時の遺構が復元整備され、公園のようになっている。田園地帯にあって、のどかな風情があり、かつて栄えた宮跡を追想するには、よい環境かもしれない。しばらくたたずみながら、そのムードに浸って写真を撮っていた。
それからは、少し車を走らせて、菖蒲池古墳も見学してみた。ここは、橿原市の南東部、明日香村との境界に近い尾根筋南斜面に位置する古墳で、飛鳥時代の7世紀中頃に築造されたと考えられている。藤原京中軸線の南延長上に、天武・持統天皇陵と同じようにに位置することから皇族が被葬者と思われ、2基の家形石棺が特異なことなどから、1927年(昭和2)に国の史跡に指定された。また、2010年(平成22)に行った発掘調査によって一辺約30m、二段築盛の方墳であることが明らかになったのだ。 墳丘は、封土の流出や後世の改変によって、横穴式石室の天井が露出しているが、玄室内には南北に2基の凝灰岩製家形石棺を安置されていた。現在は、石室前面の覆屋と扉を設置するなどの整備が行われ、玄室内は柵越しだが、石棺を見学することができた。実は、堀辰雄著の随筆『大和路・信濃路』にこの古墳のことが詳しく出ていて、以前から一度行ってみたかったのだ。
さらに車を走らせて、高松塚古墳へも行ってみた。ここは、国営飛鳥歴史公園の中にある円墳(直径約20m、高さ約5m)で、飛鳥時代の7世紀末~8世紀初頭に造られたと考えられている。1972年(昭和47)に発掘され、石槨内部の天井および四周に星宿、日月、四神、侍奉の男女官人像の彩色壁画が発見され、また海獣葡萄鏡、乾漆棺、人骨などが出土して、一躍脚光を浴びたのだ。衣服の制や喪葬儀礼、また朝鮮や中国との文化交流を考える上で大変貴重なものなので、1972年(昭和47)に国の史跡に、1973年(昭和48)には特別史跡に指定され、壁画は、1974年(昭和49)に国宝となっている。壁画の劣化が進んだので、文化庁は2007年(平成19)に石室を解体し壁画の修理を進め、現在は保存科学的管理のもとに密閉保存されてしまった。しかし、古墳の近くに「高松塚壁画館」が建てられて、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模造模写、墳丘の築造状態、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾り金具、木棺金具、海獣葡萄鏡などのレプリカが展示されているのだが、年末年始は休館だった。壁画の模写を見られなかったのは、残念だったが、古墳を何回もカメラに収めてから、ここを後にした。
次に橿原市街へ向かい、今井町を巡ってみることにした。ここは、戦国時代の寺内町が原型となり、今も江戸時代以前の建物が多数存在している。環壕が周囲を取り囲み、その中に入ると何百年も続いて来た古い商家の町並みが残されているのだ。昔からの自治集落の伝統が今に伝えられていてとても貴重だ。近世以前の町並みがこれだけまとまって残っている場所は日本では他に無いといわれ、1993年(平成5)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。その一画を歩いてみると、今西家住宅、豊田家住宅、上田家住宅、音村家住宅などの国指定重要文化財の建物が数多くあり、とてもみごとなものだ。静かに見学しながら写真を撮っていった。
すでに昼を過ぎていたので、橿原市内のレストランで昼食を済ませ、帰途に着くことにしたが、天理インターチェンジへ向かう途中に、もう一か所、唐古・鍵遺跡に立ち寄っていくことにした。ここは、田原本町唐古・鍵にある弥生時代の環濠集落跡の遺跡なのだ。以前から、土器や石器の出土地として知られていたが、1936年(昭和11)から翌年にかけて、京都帝国大学と奈良県による発掘調査が行われ、弥生式土器と共に多量の木製農耕具類が出土したのだ。これによって、弥生時代に農耕が行われていたことが初めて実証され、近畿弥生土器の編年体系が確立されて、注目を浴びた。戦後も数次にわたる発掘調査の結果、日本有数の大規模な環濠集落跡であることが明らかになったのだ。弥生時代研究において、重要な位置を占める遺跡なので、1999年(平成11)に国の史跡になる。現在、土器片に描かれた楼閣が復元され、遺跡公園として整備されつつある。出土品は田原本青垣生涯学習センター内の「唐古・鍵考古学ミュージアム」に展示されているのだが、年末年始は休館なので、復元楼閣や石標などをカメラに収めただけで、帰ることにした。
それからは、天理インターチェンジで西名阪自動車道に乗り、来た道を戻ろうとしたが、途中で大渋滞に巻き込まれ、下道を迂回したので、帰宅がとても遅くなってしまった。
橿原市と明日香村にまたがる地域にあった飛鳥時代の都城を藤原京といい、日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城であり、710年(和銅3)に平城京に遷都されるまでの日本の首都とされたのだ。今でも藤原京の中心にあった藤原宮の大極殿の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている。藤原宮跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定されており、現在では、その6割ほどが保存されて、藤原宮及び藤原京の発掘調査が今でも続けられているとのことだ。この地域から、木簡約1,200点が出土していて、古代史を解明する上で重要な資料となっていると聞いている。しかし、正月2日のこととて、周辺はとても静かで、訪れる人もほとんどいない。のんびりと、宮殿跡の柱の跡や石標などを巡って、写真を撮りながら往時を偲んでみたが、大和三山も見えて、とても雰囲気があった。
その後は、さらに南下し、明日香村に入って、石舞台古墳を訪れてみた。ここは、飛鳥時代に造られた、元々は方墳で、盛り土があったと思われるが、現在では、それが失われ、巨石で築かれた横穴式石室(石室の長さ 7.7m、幅 3.4m、高さ 4.8m)が露出した状態となっていて、舞台状の外観を呈しているのでこの名がある。埋葬者は、蘇我馬子と伝えられ、1935年(昭和10)に国の史跡になり、1952年(昭和27)には、特別史跡に指定されたのだ。現在は、国営飛鳥歴史公園の一部として整備されていて、有料で見学でき、その石室の中にも入ることができる。内部から天井を見上げて、シャッターを切ってみたが、その大きさに驚かされ、大きな権力者の墓であることがわかる。歴史の教科書にも出てくる有名な遺跡だが、一見の価値はあるかと思う。
続いて、飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)へと行ってみたが、ここは、1959年(昭和34)からの発掘調査により、多くの掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構などが検出されたところだ。現在は地表上に当時の遺構が復元整備され、公園のようになっている。田園地帯にあって、のどかな風情があり、かつて栄えた宮跡を追想するには、よい環境かもしれない。しばらくたたずみながら、そのムードに浸って写真を撮っていた。
それからは、少し車を走らせて、菖蒲池古墳も見学してみた。ここは、橿原市の南東部、明日香村との境界に近い尾根筋南斜面に位置する古墳で、飛鳥時代の7世紀中頃に築造されたと考えられている。藤原京中軸線の南延長上に、天武・持統天皇陵と同じようにに位置することから皇族が被葬者と思われ、2基の家形石棺が特異なことなどから、1927年(昭和2)に国の史跡に指定された。また、2010年(平成22)に行った発掘調査によって一辺約30m、二段築盛の方墳であることが明らかになったのだ。 墳丘は、封土の流出や後世の改変によって、横穴式石室の天井が露出しているが、玄室内には南北に2基の凝灰岩製家形石棺を安置されていた。現在は、石室前面の覆屋と扉を設置するなどの整備が行われ、玄室内は柵越しだが、石棺を見学することができた。実は、堀辰雄著の随筆『大和路・信濃路』にこの古墳のことが詳しく出ていて、以前から一度行ってみたかったのだ。
さらに車を走らせて、高松塚古墳へも行ってみた。ここは、国営飛鳥歴史公園の中にある円墳(直径約20m、高さ約5m)で、飛鳥時代の7世紀末~8世紀初頭に造られたと考えられている。1972年(昭和47)に発掘され、石槨内部の天井および四周に星宿、日月、四神、侍奉の男女官人像の彩色壁画が発見され、また海獣葡萄鏡、乾漆棺、人骨などが出土して、一躍脚光を浴びたのだ。衣服の制や喪葬儀礼、また朝鮮や中国との文化交流を考える上で大変貴重なものなので、1972年(昭和47)に国の史跡に、1973年(昭和48)には特別史跡に指定され、壁画は、1974年(昭和49)に国宝となっている。壁画の劣化が進んだので、文化庁は2007年(平成19)に石室を解体し壁画の修理を進め、現在は保存科学的管理のもとに密閉保存されてしまった。しかし、古墳の近くに「高松塚壁画館」が建てられて、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模造模写、墳丘の築造状態、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾り金具、木棺金具、海獣葡萄鏡などのレプリカが展示されているのだが、年末年始は休館だった。壁画の模写を見られなかったのは、残念だったが、古墳を何回もカメラに収めてから、ここを後にした。
次に橿原市街へ向かい、今井町を巡ってみることにした。ここは、戦国時代の寺内町が原型となり、今も江戸時代以前の建物が多数存在している。環壕が周囲を取り囲み、その中に入ると何百年も続いて来た古い商家の町並みが残されているのだ。昔からの自治集落の伝統が今に伝えられていてとても貴重だ。近世以前の町並みがこれだけまとまって残っている場所は日本では他に無いといわれ、1993年(平成5)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。その一画を歩いてみると、今西家住宅、豊田家住宅、上田家住宅、音村家住宅などの国指定重要文化財の建物が数多くあり、とてもみごとなものだ。静かに見学しながら写真を撮っていった。
すでに昼を過ぎていたので、橿原市内のレストランで昼食を済ませ、帰途に着くことにしたが、天理インターチェンジへ向かう途中に、もう一か所、唐古・鍵遺跡に立ち寄っていくことにした。ここは、田原本町唐古・鍵にある弥生時代の環濠集落跡の遺跡なのだ。以前から、土器や石器の出土地として知られていたが、1936年(昭和11)から翌年にかけて、京都帝国大学と奈良県による発掘調査が行われ、弥生式土器と共に多量の木製農耕具類が出土したのだ。これによって、弥生時代に農耕が行われていたことが初めて実証され、近畿弥生土器の編年体系が確立されて、注目を浴びた。戦後も数次にわたる発掘調査の結果、日本有数の大規模な環濠集落跡であることが明らかになったのだ。弥生時代研究において、重要な位置を占める遺跡なので、1999年(平成11)に国の史跡になる。現在、土器片に描かれた楼閣が復元され、遺跡公園として整備されつつある。出土品は田原本青垣生涯学習センター内の「唐古・鍵考古学ミュージアム」に展示されているのだが、年末年始は休館なので、復元楼閣や石標などをカメラに収めただけで、帰ることにした。
それからは、天理インターチェンジで西名阪自動車道に乗り、来た道を戻ろうとしたが、途中で大渋滞に巻き込まれ、下道を迂回したので、帰宅がとても遅くなってしまった。