ゴールデンウィークに愛知県の実家に帰省する折りに、甲州と信州を通り、城跡や遺跡などを巡って、途中どこかの温泉にでも泊まっていこうと思い立った。
そこで、木曜日定例の弓道の練習を午前中に2時間ほどしてから、車で旅立つことにした。
まず、国道17号線バイパスに出て、戸田橋を越え、環八を経由してから、国道20号線(甲州街道)に出て、下道で西へ向かった。途中、日野市内のすき家で昼食を取ったが、近くに土方歳三の資料館があると案内があったので、探してみたが休館日だった。仕方がないので、そのまま進み、八王子市街を通過して、大垂水峠を越え、「小原の郷」という休憩施設でトイレ休憩を取った。近くに、小原宿本陣跡があるとのことで、関連資料が展示してあったので、ちょっと見学した。
休憩後も、国道20号線を西進し、山梨県内へと入り、大月市域を通過して、笹子トンネルを抜けて、甲府盆地へ至った。
石和の温泉街を過ぎてから、国道を離れて、甲府市街へと進んでいった。甲府駅前通りを通って、県庁前に至り、甲府城跡を見学することにし、外周を回ったが、公共の駐車場が見つからなかったので、やむを得ず近くのコインパーキングに車を入れた。
甲府城は、安土桃山時代に徳川家康の命によって、築城されたものらしいが、その後整備拡張されて、江戸時代には、徳川綱重(家光の三男)、徳川綱豊(綱重嫡男)、柳沢吉保、柳沢吉里(吉保嫡男)と親藩や有力大名の居城となってきた。その後、1724年(享保9)以後は、甲斐一国が幕府領となって、甲府勤番の設置され、その後城代が置かれるようになって、明治維新を迎えたとのことだ。廃城となって、建物は壊されて、さらに、中央本線の開通により分断されてしまった。その後も石垣以外はほとんど手付かずの状態だったが、近年「舞鶴城公園整備事業」として復元整備が進んでいると聞いていた。その中で、1996年(平成8)鍛冶曲輪門が、1999年(平成11)に稲荷曲輪門と内松陰門が、2003年(平成15)に稲荷櫓が、2007年(平成19)には分断された北側の山手渡櫓門が、2013年(平成25)には鉄門がそれぞれ木造で復元されたとのことで、巡ってみるのが楽しみだ。
まず、内堀を遊亀橋で渡って鍛曲輪へと入っていったが、江戸時代には橋のなかった場所だ。ここから仰ぎ見る本丸の石垣はなかなかみごとなものだ。坂下門のあったところから上って行ったが、城郭の立派さがよくわかる。次に、鉄門をくぐったが、木造で復元されたばかりなのでまだきれいだ。本丸内は、芝生になっていたが、隅にそぐわない高さの謝恩塔が立っていた。そこから天守台へと昇って行ったが、結構階段がきつい。それでも、上からの眺めは、最高で、甲府市街を一望し、富士山まで見えて感動した。何枚か写真を撮った後で、降りてきて、次に稲荷曲輪へと向かうことにした。坂を下っていくと、稲荷曲輪の北東隅に稲荷櫓が木造で復元されていた。説明板によると「稲荷櫓の形状は構造は絵図・古文書・発掘調査成果をもとに検討し、江戸時代初期、寛文4年(1664)の建築当初の姿で建てた。」とあって、きれいな二重櫓だ。
次に、山手渡櫓門へ行きたいと思ったが、中央本線で分断された向こう側にある。遠回りになるが、下っていって、踏切を渡り、大きく回り込んで、到着した。ここは、高石垣と土塀に囲まれた内側の高麗門(山手門)と櫓門(山手渡櫓門)から構成されていた。なかなか見事な門で、線路で本丸と分断されてしまっているのが残念だ。
その後は、中央本線を越える道路陸橋脇の歩道で戻っていき、外から、内松陰門を撮影してから、さらに外周を進み、稲荷曲輪門をくぐって、内堀の脇を通って、コインパーキングの車のところへと至った。
それからは、今日の宿「スーパーホテル甲府昭和インター」へ行くために、甲府昭和インターの方へと向かった。宿は、すぐに見つかったので、チェックインを済ませ、部屋で少し休憩してから、夕食を取るために外出し、近くにあった「くら寿司」に入って、回転ずしで腹を満たした。
食後は、ホテルに戻り、温泉に入ってからは、テレビを見ながら過ごし、床に就いた。→続く
そこで、木曜日定例の弓道の練習を午前中に2時間ほどしてから、車で旅立つことにした。
まず、国道17号線バイパスに出て、戸田橋を越え、環八を経由してから、国道20号線(甲州街道)に出て、下道で西へ向かった。途中、日野市内のすき家で昼食を取ったが、近くに土方歳三の資料館があると案内があったので、探してみたが休館日だった。仕方がないので、そのまま進み、八王子市街を通過して、大垂水峠を越え、「小原の郷」という休憩施設でトイレ休憩を取った。近くに、小原宿本陣跡があるとのことで、関連資料が展示してあったので、ちょっと見学した。
休憩後も、国道20号線を西進し、山梨県内へと入り、大月市域を通過して、笹子トンネルを抜けて、甲府盆地へ至った。
石和の温泉街を過ぎてから、国道を離れて、甲府市街へと進んでいった。甲府駅前通りを通って、県庁前に至り、甲府城跡を見学することにし、外周を回ったが、公共の駐車場が見つからなかったので、やむを得ず近くのコインパーキングに車を入れた。
甲府城は、安土桃山時代に徳川家康の命によって、築城されたものらしいが、その後整備拡張されて、江戸時代には、徳川綱重(家光の三男)、徳川綱豊(綱重嫡男)、柳沢吉保、柳沢吉里(吉保嫡男)と親藩や有力大名の居城となってきた。その後、1724年(享保9)以後は、甲斐一国が幕府領となって、甲府勤番の設置され、その後城代が置かれるようになって、明治維新を迎えたとのことだ。廃城となって、建物は壊されて、さらに、中央本線の開通により分断されてしまった。その後も石垣以外はほとんど手付かずの状態だったが、近年「舞鶴城公園整備事業」として復元整備が進んでいると聞いていた。その中で、1996年(平成8)鍛冶曲輪門が、1999年(平成11)に稲荷曲輪門と内松陰門が、2003年(平成15)に稲荷櫓が、2007年(平成19)には分断された北側の山手渡櫓門が、2013年(平成25)には鉄門がそれぞれ木造で復元されたとのことで、巡ってみるのが楽しみだ。
まず、内堀を遊亀橋で渡って鍛曲輪へと入っていったが、江戸時代には橋のなかった場所だ。ここから仰ぎ見る本丸の石垣はなかなかみごとなものだ。坂下門のあったところから上って行ったが、城郭の立派さがよくわかる。次に、鉄門をくぐったが、木造で復元されたばかりなのでまだきれいだ。本丸内は、芝生になっていたが、隅にそぐわない高さの謝恩塔が立っていた。そこから天守台へと昇って行ったが、結構階段がきつい。それでも、上からの眺めは、最高で、甲府市街を一望し、富士山まで見えて感動した。何枚か写真を撮った後で、降りてきて、次に稲荷曲輪へと向かうことにした。坂を下っていくと、稲荷曲輪の北東隅に稲荷櫓が木造で復元されていた。説明板によると「稲荷櫓の形状は構造は絵図・古文書・発掘調査成果をもとに検討し、江戸時代初期、寛文4年(1664)の建築当初の姿で建てた。」とあって、きれいな二重櫓だ。
次に、山手渡櫓門へ行きたいと思ったが、中央本線で分断された向こう側にある。遠回りになるが、下っていって、踏切を渡り、大きく回り込んで、到着した。ここは、高石垣と土塀に囲まれた内側の高麗門(山手門)と櫓門(山手渡櫓門)から構成されていた。なかなか見事な門で、線路で本丸と分断されてしまっているのが残念だ。
その後は、中央本線を越える道路陸橋脇の歩道で戻っていき、外から、内松陰門を撮影してから、さらに外周を進み、稲荷曲輪門をくぐって、内堀の脇を通って、コインパーキングの車のところへと至った。
それからは、今日の宿「スーパーホテル甲府昭和インター」へ行くために、甲府昭和インターの方へと向かった。宿は、すぐに見つかったので、チェックインを済ませ、部屋で少し休憩してから、夕食を取るために外出し、近くにあった「くら寿司」に入って、回転ずしで腹を満たした。
食後は、ホテルに戻り、温泉に入ってからは、テレビを見ながら過ごし、床に就いた。→続く