確かに故郷の山には登った。朝に、夕べに仰ぎ見た故郷の山々は、そこに有って
当たり前、何の特別な想いも寄せることなく、春の雨が止めば、山裾から上を眺め、
キノコの烈を目ざとく見つけてつみ取る術を父から学んだ。そして、信州の春はおそく、
桃の節句と言えば4月、端午の節句と言えば6月であった。柏の季節になれば、母は私を名指しで、柏の葉を採取させる。そんな時節になれば、昆虫も動き出す。弱い幼虫ほど、緋縅の衣を纏う。だから姉達は怖がる。そこで結局この仕事は私の出番となってしまう。
こんな少女時代を過ごした私が、東京の農林省に奉職して間もない頃、所属した
青年部の誰かが、富士山行きを思い立ったとの噂を耳にするや、日本一の山に登る仲間なら、私も動向させて貰いたいと願い出、リダー格のOさんに承諾を得た。都合4人は金曜の夜の簡単な相談で顔を合わせた。公務員の土曜所謂、”ハンドン”の出発である。
遮二無二突進の登山だった。顧みれば半世紀以上も前の1952・8・1日のことである。
あの頃農林省には、男子寮と女子寮があった。午前の仕事もそこそこに、それぞれに昼食を掻き込んで、部屋のリックを背負って4人はバスで新宿に出て吉田口から、登山開始だった筈。今様ならば、5合目までバスで等と言う事になるのだが、当時はそんな事は考えるべくもない。ただひたすら、健脚にまかせ、前進あるのみ。
恐らく雪解けまたは雨水の流れがV字形登山道となったのだろう。その瓦礫を踏みしめながらの山登りだ。
道しるべと言えば、6合目・7合目・8合目の文字ばかり、辺りは暗い。山麓で
買い求めた「六根清浄」の杖にすがり、前後の人声を頼りりに、月明りにも助けられた。
可なり酸素も希薄になり疲れも感じられた。然し、自ら、参加して弱音も吐けない。
次の9合には、トイレ等とも思った。山小屋らしい所もある筈。途端何と、「8合5尺」
が、眼に入った。意気も絶え絶えの私は、期待外れの表示に、人事不省に落ち入り、廻りを驚かせたらしい。「ここで眠らせると死ぬから、俺が蹴っ飛ばして起こした」。などと後日のエピソードにもなった事を思い出して今でも、苦笑する私だ。
氷点下5度の冷気と風は容赦なく若者を試すかのようだった。しかしとうとう登り切り、
大勢の歓声でそれと感じた。私共は御来光などと祈念写真を撮るまもなく、下山の準備だ。然し今考えると、登山を楽しむゆとりもなく、印象に刻まれている山頂の姿は、ただ漠々。空き缶や紙屑、驚くべきワラジの切れ端ばかり。
私は「遠望されてこそ富岳である」と知ったのだ。
山頂にあったトイレの屎尿の行く辺は3000メートルの土壌の濾過以外ないのかと考えた。『一度登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿』の比喩さえ、納得したことになる。