一元描写

私の日常の出来事をエッセイ風に記録して行きたい。

ゲンノショウコの変態

2017-04-21 12:57:13 | Weblog
 田舎育ちの私には縁の深い草花で、薬草でもあった。所謂雑草で、愛らしい花の
群生には目をひかれる。
 家では、母がそれを根こそぎ引き抜いて水あらいの後に、干して物置などに保存してあったことをおぼえている。

 私が、山遊び中、地梨なっどを、摘んで食べたりしてお腹に当たり、下痢をした時等、、母が、それを、煎じて飲ませてくれた。そして回復し元気に跳ねまわった事を、今、懐かしく思いだしている。

 私が都会に嫁し手、60年に喃々として、孫も大学院・大学生として其々に
多忙で年に2・3回の会瀬を心待ちにし、日々の、カメラ散歩で、下肢の
筋力を維持する為にシルバー・カー勝島運河の草叢の中に懐かしいゲンノショウコ
を見出だし、会ってはかたり、別れては考え、「昔とったった、きねずか」を
オモチャに、成長の順を追って花の名称我変わると言う変態を追い求めた。

 今年(2017)も可憐なピンクの花は、やがて実を結んでピン!!と弾け
神輿の屋根の様な姿になるだろう。その時点から、貴方の名は(ミコシ草)
と、出世魚 の様に改名されるのですよ。




油井さん~頑張ってください。

2015-11-28 11:56:05 | Weblog
天体を論ずる知識などまるでない老婆だが、
然し、興味と憧れは人並みだ。と言うのは、私ごとだが、病にとりつかれ、
内臓の大手術をして、大事を執って、放射性治療を勧められ、リスクを
伴う事も、承諾の上、斬新な治療に踏みきった。
かくして、勇躍家庭に複機して、5・6年の歳月を意欲的に送ること
ができ、想定外の人生を楽しんだが、しかし、加齢とともに、
リンパ浮腫と下肢の深部の超音波結果に、血栓の可能性あり、とされ、
放射線治療の後遺症と説明される様になった。実感としては下腹部に
力がなく、重力に対抗する筋力の不足で、丹田筋はおろか抗重力筋が
全くなく、脆弱になり、日に日に、立位の困難という難病?に到り、
万歩計も2000以下と、ドクターストップの懸る始末の日々で
地球の重力から解放される宇宙に憧れを持つ次第となった。

『水・金‣地‣火・木・土・天(王星)・海(王星)・冥(王星』
などと、語呂よく、孫のアキ君相手に、散歩のリズムを刻んだ時代、
が懐かしい。
 かって(1994年の頃)。シャトル搭乗の毛利さん。次いで、
女性初の向井千秋さんの活躍の頃から始まった、ISS建設は
人類史に残る偉業で、約30年間莫大な経費と、事故による負の側面
を抱えながら、完成した。この国際宇宙ステーションには日本実験棟
(きぼう)も完成した。
私にはその頃、忘れ得ぬエピソードがある。
 それは、向井さんの宇宙からの呼びかけであった。所謂、三十一文字。
即ち、和歌であった。彼女の上の句に、下の句を募集するというのだ。
宇宙開発事業団の誘いに、乗らずにいられる筈もない私である。
陳腐な、イラストと、七七文字は、直感がいい。早速、ハガキでの応募だ。

  
   ちゅうがえり 何度も出来る 無重力  
         月の兎も レオタード着る
 後日思いがけず、佳作の褒美として向井士の宇宙制服姿の四ツ切り写真が
拙宅に届き、感無量だった。主人との合作故。冥土の土産と考えている。

 さて話題が前後して終まったが、日々のタスクに忙しかろう油井さん、
9月の半ばには、(きぼう)の中での不用品をコウノトリに詰め込み、 
今度は、大気圏にて破棄すると聞き及んでいますが、その作業は順調で
しょうか??。ご健闘を祈念します。 若者には夢を!!。(^v^)



立冬に書く

2015-11-08 10:46:46 | Weblog
 ”ツルベ落としの 秋の夕暮れ”などとつぶやいて見たが、リハビリの教室
のスタッフが、乗ってこない。
「今時の若者は言葉を知らない」と言うより,私が歳を取り過ぎたのかもしれない。
田舎の井戸に見られる、二つの水桶をナワでくくりつけ、滑車で交互に投げ落し、
井戸水をくみ上げるシステムが、ツルベだ。そんな道具を見たこともない者に
説明するのに、飲み水を汲みあげるより骨がおれる。

 11月8日私の購読している新聞が休みだ。確かに此のところ、めっきり朝が
寒い.綿わたの入った冬掛け布団を私の身まわりの世話をしてくれる介助さん
が押入れの布団袋から取り出してくれたので、立冬を思い出した。新聞の休み
日、小さな暦とか習間天気などが、片隅に追いやられて,前日の記事に乗って
いる事を思い出してそれを見る。

日の入時刻が9日~16:39分、10日は16:38と、1分づつ早くなっている事が一目
瞭然だ。なるほど、習慣天気も、札幌には雪だるまが居座っている。
立冬の日を境に家庭では鍋料理の話題も出よう。そこで、TPPも気になる
再来年の消費税の値上げも控え、取分け、肉・魚だが、庶民的感情としては、
健康的で、懐具合にも優しい鍋物に越したことはない。しかし、安かろう・悪か
ろうもこまる。政府は、近々、TPP対策大綱を決めるだろう。
日本の農業の今後の課題と展望は多いに気になるところだ。立冬の花を添える。

私の緬痒

2015-03-04 09:18:45 | Weblog
 或るコラムで、干支の「羊には主体性がない動物だ。」と言う一文を一瞥した。
『おや!。そうだろうか。』私は、干支で言う、七回りを過ごした羊年の老人だ。
羊年の私には聞き捨てならず。反論の言葉を懸命に探し、キーボードを叩き始めた。

 「意志や行為の主格」を主体と言うならば、自分の考えで行動することだ。
私は、農家に生まれ育ち、小学生の頃から、家族労働の一翼を担っていた。
偶然の一致だが、羊年(緬羊メンヨウ)生まれで、草食動物の羊の飼育係りは、
打って付けの仕事として、私に、任せられ、羊毛の為の家畜の世話に愛情を
注いだ。当世の愛玩用のペットとは訳がちがう。家畜に主体性???。

 一日に与える草の量は人間と同じ3食で、私の体程もある竹細工の背負いかご
(ビクと呼んでいた)そのビクに、ギュウギユウ詰めにして、私の不在中は、
家族が、餌やりを代行してくれる決まりが出来ていた。

 私が次第に成長して、女学校のクラブ活動などで、帰宅がいくら遅れようと、
代行する人もない。私の足音を聞くや否や、今も耳元にある、「メーメー」と、
ビブラートのきいたあの、響く喜びの声は懐かしい。大きな草刈り鎌とビク
を、担いだ私の、後先を飛び周るメー子であった。やがて季節がめぐり、春の
終わりが来ると、羊毛の刈り取り人が来て、理髪され、白い痩せた滑稽な姿だ。
刈り取られた羊毛の目方に依って、金銭は支払われ、家計に組み込まれた筈だが、
私は全く、無頓着で、また明日のメー子の為に、旨そうな草をさつさつ!と刈る。

 私が農林省に奉職し、女子寮に生活していた当時は、様々な稽古事に時間を
ついやしたが、そのひとつに毛糸の編み物があった。手編器の「銀麗」など
は最新の編み器で、教材の毛糸は、メー子の一頭分が、送り込まれ、家族中の
衣類として、教材に不足もなく、帰省土産になり、師範のライセンスの取得に
メー子は、多大に貢献してくれた事になる。

 今年、私の年女を、知った実兄の、年賀状が何とも懐かしい自筆のメー子と
柔順な家畜のエピソードが記述されて来た。齢90歳になろうとする実兄である。
大昔の事とて、車などある筈もなく、メー子の繁殖のため、50・60kメートル
も離れた、隣村まで、兄の先になり、後になりで付きまとい、目的を果たし帰宅
したと言うではないか。これを持って、主体性云々を言えるだろうか。人間の為に、
衣類となり食肉を提供してくれる、尊い家畜との信頼関係が、首環さえ不要な我が家
のメー子に育ち「人の反面教師」等と評するは、人間のエゴも甚だしい。


立春のトゲトゲ柊

2015-02-15 15:12:13 | Weblog
   ”不苦者有智”:『ふくはうち』
   ”遠仁者疎道”:『をにはそと』
 立春の宵にこんな子供達の声を耳にする。大豆を焙烙(ホーロク)で、煎り豆を
作ってくれた母の姿が思い出される。私は何故か、恥ずかしくて、大声を上げる事
をこばみ、香ばしい、煎り豆を年の数だけ、頬張ることだけはした。

 私の子育てのころには、都会でも一年を無病息災で過ごす為にと、この習慣が
あったが、自分が、そうであった様に、子供にも無理強いはしなかった。
そして、柊が常緑で芸術的ななまでに青く、トゲトゲの中には小さ白い花を咲か
せ、やがて果物のような実をつける。其の実を天敵に啄ばまれまいとする為の
進化であろうと、私は、子孫繁栄の為の智恵であろうと勝手に納得する。
その健気なトゲトゲに、守られる様に咲く小さな花をカメラに収めようとして,
痛い思いをした事もある。

 節分の鬼矢来の、飾り物として柊のトゲトゲや、ガサゴソと音を立てる豆殻が
束ねられて、店頭に売られているのを見るにつけ「鬼退治は桃太郎とその仲間
に任せておけばよいと」、今も、名前も姿も美しい、ヒーラギびいきの私だ。

 ヒラギと南天の交配など、素人の私には考えも及ばない所だが、或る植物通
の方の為された結果、「柊南天」として、ハイカラなビルの庭のコウナーなどに、
植樹されていて目をひき、存在感を感ずる。原種のトゲトゲからすると、可なり
優雅で、しかも、名のみの春浅い、花の乏しい季節に様々な色合いで、人々を
楽しませてくれる。

 思うに、常緑樹の灌木だが、枝により、葉の発色が、異なり、不思議だ。
恐らくこれは、到達した根の部分の土壌の肥料によるのではなかろうか?。
窒素・リン酸・カリ・の何れかかもしれない。??。
折りがあれば、植物の専門家に問うて見たいと思っている。



千の風になりたい私

2015-02-05 16:37:59 | Weblog
 最近様々なジャンルの所謂ベテランさんが、想い半ばにして、
あの世に逝ってしまう。人の運命と考える以外にない。

 今年(25年)の年賀の中に、経験のない、異色の返信に遭遇した。
「立派な年始のご挨拶状を頂いても、返信の気力を失ったから、明年
は、自分をオミットして欲しい」と言うコメント付きの2枚である。
私の先輩であるから、歳老いた友人だが、切々としていた。そうか、
重荷になる様ではと、私は素直にアドレス帳から、削除した。

 想えば、私とても、この類の心構えをせねばと思う此の頃だ。
しかし、黙って黄泉路に、旅立つよりは、各グループの代表者だけ
には、『お先に逝きます。』と、交誼へえの感謝の念をと思い、私の
アドレスブックにチェックを入れ、まさかの時の為、長男のパソコン
に転送する事にした。

 実は私をしてこんな思いに至らしめたのは、或コラムでお馴染の
ライターが、平成20年から、自分の勉強の成果を、寄稿し続けた。
彼曰く「読者の皆様には、愚見であったかも知れないが、しかし、
この手燭の一灯が、社会の一隅を照らす事になれば、幸甚だ」。
と結んであった。其の謙虚さに愛慕の念を禁じ得なかった私だ.

 そして、更にテノールの秋川氏の熱唱「千の風」が彷彿とする。
決して、お墓の否定ではなく、むしろ、ミーテイングスポットだ。
先祖代々の墓参りの掃苔の風習も懐かしい。
祖父母の好物を見よう見真似で(おはぎ)作り、命日には墓前に持ち
込み、ハイキング気取りで、楽しく供えて、一諸に食事をしたものだ。

 ところが、時代の変遷は急転して、都立霊園等の、てぜま等が相待って
散骨・合葬・樹林墓地・等の話題にも抵抗を感じない此の頃だ。
少子化、非婚化で、墓守りの後継者不足が其の背景にあるのだろう。
「墓マイラー」の漫画家、水木しげる夫妻ならずとも、
既に故人となった夫と、私も、墓用意は終活の第一歩と考えるに到り、
天命を全うした親は家族葬で無理なく大空に送り出して欲しいと。
息子達とも、話し合う事が出来ている。

富士登山 その2

2014-11-27 14:38:39 | Weblog
 流石に高山であった。酸素不足の高山病も発生し、仲間の皆さんには、心配を
掛ける羽目にも陥ったが、日帰り計画の気持ちの張りもあって、早々の下山には
支障がなかった事は幸いであった。

 何しろ、60年も昔の行動を思い出すのは容易ではない。然し、「砂走り」と
云う楽しみは、かねがね聞き及んでいたので、帰りは静岡県方面の御殿場に向か
った。山懐に立てば、身の廻りは一面の砂質の瓦礫ばかりだったと記憶している。
大変な鋭角で、一歩踏み出すごとに,膝あたりまで砂に潜り、その度にズズーット、
足が3メートル位は進む。どうにも止まらない!っと言った感じで、一定のリズムで
走り下りたことになる。40っ分ぐらいおりた頃、雪渓が残っていたので、カメラを
自動にして、何とか、頂上をバックに集合の記念撮影ができ、一路、ガラガラ石の
下り道を御殿場から、相模湾方面に進み、東海道線乗車、気がつけば東京であった。

 今思えばハイキングともなれば、前夜はお弁当作りで寮内は賑やかであったのに、
日帰りの強行軍の兵糧はどしたのか、何れ買ったに違いないのだが、皆目思い出せ
ないのも不思議だ。
そして無事4人は農林省の守衛に挨拶をして、男・女の遼に帰宅した。
私は、ただ達成感に浸り、疲れ切った体を寮の終い湯に浸し、泥睡したに違いない。

 さて約60年の歳月が、うたかたの如くに流れ、2013年6月には、関係の多大の努力が
実を結んで、ユネスコにて、世界文科遺産と決定したのである。全く今昔の感が深い。
たしかに、独立峰としての淡麗さは日本の象徴に値し、日本列島の誇りであるが、然し
私は、登山のあの経験から心配が多々ある。銘泉と言われる伏流水と登山者のトイレの
因果関係と、此の目に焼き付いた、瓦礫とゴミ,砂走りの中に紛れ込んだ藁屑の汚れ
が、現今の登山者の意識の高まりで、私の心配を払拭する程に成長したのだろうか?

 山開きを目前に、登山道の整備も進み、銀座の歩行者天国の様な心得違いのヤカラ
が殺到し、大事故を招かぬ様願いたい。勿論環境保全の為の獏大な費用の捻出の為、
有料登山は当然だ。人事を駆使した、バイオトイレの出現にも安堵する。世界の遺産だ。
三保の松原越しの、遠望する美しき富士よ、永遠なれと祈らずにはいられない。

富士登山 その1

2014-11-27 14:29:01 | Weblog


 確かに故郷の山には登った。朝に、夕べに仰ぎ見た故郷の山々は、そこに有って
当たり前、何の特別な想いも寄せることなく、春の雨が止めば、山裾から上を眺め、
キノコの烈を目ざとく見つけてつみ取る術を父から学んだ。そして、信州の春はおそく、
桃の節句と言えば4月、端午の節句と言えば6月であった。柏の季節になれば、母は私を名指しで、柏の葉を採取させる。そんな時節になれば、昆虫も動き出す。弱い幼虫ほど、緋縅の衣を纏う。だから姉達は怖がる。そこで結局この仕事は私の出番となってしまう。

 こんな少女時代を過ごした私が、東京の農林省に奉職して間もない頃、所属した
青年部の誰かが、富士山行きを思い立ったとの噂を耳にするや、日本一の山に登る仲間なら、私も動向させて貰いたいと願い出、リダー格のOさんに承諾を得た。都合4人は金曜の夜の簡単な相談で顔を合わせた。公務員の土曜所謂、”ハンドン”の出発である。

 遮二無二突進の登山だった。顧みれば半世紀以上も前の1952・8・1日のことである。
あの頃農林省には、男子寮と女子寮があった。午前の仕事もそこそこに、それぞれに昼食を掻き込んで、部屋のリックを背負って4人はバスで新宿に出て吉田口から、登山開始だった筈。今様ならば、5合目までバスで等と言う事になるのだが、当時はそんな事は考えるべくもない。ただひたすら、健脚にまかせ、前進あるのみ。
恐らく雪解けまたは雨水の流れがV字形登山道となったのだろう。その瓦礫を踏みしめながらの山登りだ。

 道しるべと言えば、6合目・7合目・8合目の文字ばかり、辺りは暗い。山麓で
買い求めた「六根清浄」の杖にすがり、前後の人声を頼りりに、月明りにも助けられた。
可なり酸素も希薄になり疲れも感じられた。然し、自ら、参加して弱音も吐けない。
 
  次の9合には、トイレ等とも思った。山小屋らしい所もある筈。途端何と、「8合5尺」
が、眼に入った。意気も絶え絶えの私は、期待外れの表示に、人事不省に落ち入り、廻りを驚かせたらしい。「ここで眠らせると死ぬから、俺が蹴っ飛ばして起こした」。などと後日のエピソードにもなった事を思い出して今でも、苦笑する私だ。

 氷点下5度の冷気と風は容赦なく若者を試すかのようだった。しかしとうとう登り切り、
大勢の歓声でそれと感じた。私共は御来光などと祈念写真を撮るまもなく、下山の準備だ。然し今考えると、登山を楽しむゆとりもなく、印象に刻まれている山頂の姿は、ただ漠々。空き缶や紙屑、驚くべきワラジの切れ端ばかり。

私は「遠望されてこそ富岳である」と知ったのだ。
山頂にあったトイレの屎尿の行く辺は3000メートルの土壌の濾過以外ないのかと考えた。『一度登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿』の比喩さえ、納得したことになる。

二ノ宮金次郎先生

2014-11-26 17:15:09 | Weblog
 遠い昔、私が信州の清野小学校(国民学校と呼んだ頃)に在学中の校門には
築山の様な茂みがあり、その中に、焚き木を背負って本を読むポーズの石像が
佇んでいた事を記憶している。二ノ宮金次郎さんだ。それから約30年の時を経て
私が嫁いだ、漁師町に、品川区で最も歴史の古い鮫浜小学校があった。

 最寄りの、公立小であるから、子育て時代には、校庭開放や選挙などで、
子供と出入りしたものだが、その校門の、大銀杏と、二ノ宮金次郎さんの
石像が鎮座しているのには、浅からぬ因縁を感じていた。勿論長男・次男の
六年間の通学中、私はPTAの学年委員だ、役員会、PTA会長も務め上げた
中で、プールの新設、校舎の移動、校庭の拡張とアンツウカー設備等、
様々な、問題を話し合っては解決して、子供達の学習環境を整備した訳だが、
常にネックになっていたのが、都会の子供や、若い所謂P達に想像も出来ない
薪を背負ったあの人の姿である。戦時中の小学校にはどこの学校にも祀られ、
「漢難辛苦」の姿を教えようとしたのだが、平和の現今に至っては、今時
は如何なものかと、校長先生以下PTAの話題になった。所が、この石像
を、その昔、提供してくださった、或る篤志家が、実在しているとの事が
判明し、撤去問題は立ち消えになってしまい、校庭の片隅に忘れられた
存在の儘である。
 しかし私のデジカメの被写体として、敢えて脚光を当てたいと思った。

 二ノ宮金治郎は相模の国(今の小田原市)辺りの、豊かな農家に生まれ、
江戸中期の天明の飢饉と言われた、凶作‣令雨に見舞われて全くの貧困
な時代に、多くの農村や、藩を救う為に、独自の思想や実践主義で人々の
幸福を追及、「金倹実行」し、土木・数理・文学までに、才能を発揮し、
今様の信用組合組織である、「五常講」を制度化した偉人だった事を知り、
単に、貧しさ故の、働きながら本を読むポーズではなかった事を知った。

 四百年此の方、地方の創生は全く普偏的な問題であったことに私は思いを
致し、現代社会の自由民主党の一枚看板政策である、地方創生を唱え続けた、
遠い、偉人の象徴である事を今の子供達に説く必要がある様に思うのだ。
地方が良くならねば、国は健全にならない事に変わりはなしである。

 私は、その昔長野県立の女学校の通学も、4里程の道のりを徒歩で通い、
道すがら、奥の細道などの芭蕉翁の紀行文の暗唱は得意とする所となった。
「私の名は、二の宮金子」と申します等と、冗談めいたものだった。然し、
彼は篤農家の御曹司でありながら、地方の発展を夢見て、敢えて『働き
ながらも、学んだ』と言う事が正に非凡であり、後世に語られ、立派な
石像に刻まれた所以であったのだ。

 鮫浜小もご多聞にもれず、少子化で、その必要もないまま,誰も声を
上げないが、何れ、校庭の整理が問題になれば、除去されるのだろうか。

 更にその前にある円筒形の物体は、品川区で歴史の最も古い、”鮫浜
小創立百年祭の記念タイムカプセル”である。そして、当時 PTAの規約
によって、五十年後の開封も約束されている事を添えたい。
 


一期一会

2014-10-14 15:12:09 | Weblog
 私は、彼岸花について日頃、考えさせられる事が多い。
特殊な花を除けば、相みたがいで、花よ・蝶よと私共の住む環境を、穏やかにする。
花の蜜にに集まる蝶は大小様々だ。カタバミなどにひっそりと埋もれて蜜を吸う
シジミ蝶、路傍の豆科の花びらに飛び交う紋黄蝶、またはキャベツ畑等を人々の
顰蹙をかいながら、舞い飛ぶ紋白蝶、そして大型のアゲハ類には、黄アゲハ・
黒アゲハ・青筋アゲハ等とアザミなどに愛称もよく、カメラファンが、遊ばれる、
あの派手な被写体は、柑橘類等の木々に排卵をする容姿が、実に美しい。

 ところが、巾着田の燃えるが如き、彼岸花の最盛期、デジカメ撮影に参加した私は
高木の間を埋め尽くした絨毯もどきの曼寿沙華に、蝶々の姿がない事に気ずかされた。
私は、この花を見る度に田舎で見た文金高島田の嫁入り姿の白い「角隔し」から
現れた、紅白の髪飾りを思いだす。「花有る時は葉がなく葉の有る時に花がない」
と言う、不思議をこの齢にして初めて発見した。

 昼と夜の長さが同じ,いわゆる春分・秋分を感じ取るセンサーを彼らはどの様に
進化させたのだろうか?。文金高島田の飾りの、ピンと跳ねた勢いをなくし地面
から現れた30㎝ほどの茎は、既に茶色と化し、枯れるのを私は追いもとめた。
地下にある球根は地下水を吸い上げる細い根を持ち、しかも有毒であると言う。

 私は、ちょっと失敬して3っつ程の球根を持ち帰り、家の片隅に生けた。
果たして、来春の彼岸に赤い花を咲かせるだろうか?。否、その前に冬季に
ニラ?、ラン科の何か?緑色の長い葉を出し,訝しげに抜かれ、捨てられて
しまうのでは、と、私は心配している。古い昔、方丈記で見た大飢饉等の時
には、この有毒な、球根等も充分に晒して澱粉を食糧にしたともあった。

 毒持つ花に、甘い蜜もない。花の季節に蝶や蜂が蜜を求めて成長し、交尾し
次世代の好む植物の葉の裏に排卵する。誠、本能の姿がそこにある。
長月の晴た日に、私のシルバーカーとカメラの、幸せ散歩の道すがらであった。
突如として、私の目の前に彼岸花と黄揚羽のコラボが。正に神の恵みか!。
これこそ、一期一会の出会いであった。






白虎隊の剣舞

2013-10-21 10:06:51 | Weblog

 NHK大河ドラマの「八重の桜」も佳境に入って、明治の時代考証
も仲々面白くなってきた。

さて、徳川の大政奉還後、あれほど忠誠を誓っていた会津藩が「朝敵」と
化してしまったのも私など、凡人には不可解だが、ともかくも新政府軍の
包囲網は狭まって、東北の戊辰戦争から、諸藩の同盟はくずれるばかり。

 明治の初め、会津藩主の容保は、新政府軍との戦いに備えて、
軍制の、洋式化を断行した。軍の年齢別編成は其の一つであった。

 正規軍を16~17歳の(白虎隊)・18~35歳(青龍隊)・
50歳以上を(玄武隊)に3分して、効率的な調練を開始した。だが、
会津戦争は鶴ケ城の籠城戦にまで至り、「ならぬものはならぬ」と
云う会津の教えの元、会津人は希望をもって戦ったのである。然し
戦雲は益々暗く立ち込め、新政府軍の勢いは圧倒的で、白虎隊の20人
は飯盛山に辿り尽き、黒煙に包まれた我が城を見て、落城と思い込み、
主君と城に殉じて自刃を決めたと云う。当時の此の行為を”美談”と
して、私の出身小学校では其の剣舞が運動会の名物として、継承され、
上級の男児の、刺し子の上衣と、コクラの袴姿が可愛く校庭に舞った。

 私は専ら其の唱歌の歌い手としてマイクの前に立った事が懐かしい。

  ♪『霰の如く乱れ来る、
     敵の弾丸引き受けて
      命を塵と戦いし
       十六・四士の勇少年
         飯盛山によじ登り
           看れば早くも城落ちて、
               炎は天を焦がしたり』♪

  因みに、長野県清野小学校は、越将・上杉謙信の本陣であった、例の
 妻女山の麓に位置し「川中島合戦」の古戦場が一望できる塞地でもあった。


アホウ鳥のその後について

2011-07-16 16:15:21 | Weblog
 心待ちにしていたが、その後、間もなく、信天翁についての移住プロジェクトの
嬉しい報告がなされた。それによると、小笠原のトリ島は活火山である事から、
トリ島の若鳥を聟(ムコ)島に移住させて置かねばと言う事で、泊り込みチームが
幼鳥と寝食を共にしての、愛が、功を奏したのである。

 アホウドリの習性の研究は言うに及ばず、草叢にヒナガタの模造雌鳥を点在
させるなど、あの手この手で、雄鳥の誘き寄せを試みるのであった。

 結果、1949年、絶滅宣言以来、2008年に至ってようやく雌雄の
ラブコールが認められ、カップル誕生と相なったのである。

 睦まじいつがいの行動半径は実に5000Kと遠い。日本列島に沿い、北上し
北太平洋のアリュウシャンにまで及び、季節を得て、渡り鳥として小笠原に寄港、
更に、生まれ故郷の聟島で、子孫を育むまでに到ったのだ。 これこそ、
海鳥の中で、最も長い行動圏を持つ長距離ランナーの優れた進化を遂げ、
其の名も”信天翁”であったのだ。

 今後。努々(ユメユメ)阿呆鳥等と書くべからず。信天翁様々であるぞ!。

                     

信天翁の名誉にかけて

2011-02-27 17:54:23 | Weblog
 最近ホットな話題として、中国から、雌雄一対の「番茶も出ばな」なる
5歳のパンダが、上野動物園に到着している。例の尖閣にまつわる日中の
ギクシャクに対する親善大使を意としたことならば、嬉しいのだが、実
は、地球上に生息する動物の絶滅を危惧されるパンダを、見守る関係者の
崇高な努力の一環であると言う。
さて、2・3年前だったろうか。伊豆諸島の活火山に棲む、あほうどり
を火山以外の聟島に移送する試みが紹介された。眉目秀麗な雌の偽鳥を、
目的の草叢に設置したところ、果たせるかな、雄の一羽がそれとも知らず
本気で、恋をしてしまい、偽造のメスの周りを激しく巡り求愛のダンスを
していたと言う哀れさが私の脳裏を離れない。そんな印象から、私は以来
「阿呆鳥」の先入観を持って仕舞ったのだが、最近別件の要があって、
漢和大辞典を紐解き、図らずも、”信天翁”なる字句に会い、これぞ
海鳥科の「あほうどり」の学名である事を知って、我が阿呆を恥る事頻り。

 その後絶滅の危惧に瀕する此の”信天翁”は熱心な関係者によって足輪
にNOを付けられ、鳥島から巣立った。所が、其の一羽が聟島(ムコジマ)
に生息している事が最近確認され、大成功!と、コラムに乗ったのを人事
とも思えず、嬉しく一瞥した。
 アッテンボローの著になる「鳥たちの私生活」に依れば、彼らは最も
広い行動圏を持つ鳥で、何カ月も海上を飛び続ける。海上で餌を取り、
眠りながら飛ぶと言う、スゴワザを持つまでに進化したのだ。ところが、
子育てともなれば、陸上の生活を余儀なくされ、最も苦手とする歩きと、
飛び立ちのモタモタが始まる。天敵の危険も高まる。そこで、
関係者の飽くなき保護が続く。移送の成功を願って止まない。

 

天網恢々疏にして漏らさず

2010-08-08 10:20:45 | Weblog
『不同意堕胎罪』と聞き捨てならない活字が或るコラムに並んだのである。
しかも、事もあろうに、最高の学問を身につけた現役の医師が、天の意思に
背き、卑劣な行為に悪用し、その後の保身のために、薬剤の不正入手など、
偽装工作も明るみに出たという。捜査幹にとっては、ハードルの高い案件
ではあろうが、まさに「天網は疏にして漏らさず」であった。

 交際女性即ち現場の看護師の物証が、決め手になり、東京地検によって
K被告は春以来短期で関与が暴かれ、どろどろとした、追いつめられた
焦りの姿だけが残って、結審した。

 水分と栄養を補給するなどと、偽って子宮の収縮剤を点滴されながら、
猶も交際のK被告が、頼もしくも優しく感じたに違がいない’女の哀れさ’
を思わずにはいられない。方や胎児の父親でありながら、「彼女とは結婚
出来ない。産ませたら其の子は不幸になる」と命の芽を引きちぎった彼。

 所属の大学病院は懲戒解雇され、充分に社会的制裁を受けているとは
言え、懲役5年の求刑の結審が妥当であるだろうか?。否である。

       添付;知らずして摘まれた無垢な心の花  カラー

脱藩浪士

2010-07-20 17:20:33 | Weblog
 梅雨明けの関東、今日も朝からジリジリの太陽が注ぎ込む。
一昔前には、「海の日」は孫達と一諸に浜辺で白波と戯れるのが常だったが、
今は昔。私には、その元気は更にない。 

日曜毎にNHKによって放映される”竜馬伝”は私の癒しであり、大病術後
リハビリ中の、私の元気のオワシスである。 
見事な、群像劇を紡ぐ脚本家、福田 靖さんのドラマは、全ての登場人物に
光をあてて、幕末の志士を輝かせるのに充分だ。

 しかし、竜馬さんは、敢え無い最期を遂げる事を知っている視聴者である。
従って、ストーリーが佳境に入ってくれば、くる程に、今か今かと待つ私でも
ある。寺田屋の一大事をどう鑑賞する?。それが悲しい。

 一介の脱藩浪士が、日本国の自主独立を目指して、怒涛の如くに駆ける。
しかし、其の新生の将来像を見る事なく、まさに非業の死を事もあろうに、
暗殺と云う卑劣な、なされ様によってもたらされた。

 最愛の姉(乙女ネーヤン)への『日本を今一度洗濯致し申し候』
の彼の真摯な手紙が、絶筆となろうとは!。   合掌。