闘病は、確かに闘いという字が入ってるけど、
楽しいことではないけれど、
勝ち負けじゃない。
「いや違う闘いなのだ」というのなら、
敵は病気?
具合が悪くなったら負けなの?
数値が良くなったら勝ち?
じゃあ、そのコが旅立ってしまったら負けなの?
それはまったく違うと思う。
闘病生活はたやすいことではないけれど、
闘い(FIGHT)じゃない。
闘いにしてしまったら、数値に一喜一憂して、本当に大事なものが見えなくなっちゃう。
本当に大事なものってなーんだ?
大切なコのゴロゴロいう時間。
じゃあ、諦めるのか?
それも違う。
がらぴんの病気宣告は、はい。と砂時計をひっくり返されたような感じだった。
こぼれ落ちる砂を止めることもできず、慌てふためき。
闘病生活はそのこぼれる砂の穴を狭めながら、そのコのゴロゴロの時間を大切に守ってあげる時間。
見送って2年経つから、そういえるのかも知れないけれど。
わたしの家族は小さな頃からもしも病気になったら、っていう話をよくした。
母は看護師です。
うちの母はガンになったら「モルヒネをガンガン打ってくれ」と、中学生くらいのわたしに言った。
今もまだ母はピンピンしてるから、まだ母にモルヒネは打っていない(笑)
それからしばらくして、祖父がガンの末期で入院してる時、モルヒネの量が中途半端で、時々シラフに戻ったりした。
その時の祖父の罪悪感に満ちた顔。。。
母は医者に「モルヒネの量が足らない!」と量を増やさせた。
中途半端にモルヒネを投与してたら、時々シラフに戻る。
なんでモルヒネを投与するのかっていうと、痛みに耐えられないからなんだけど。
痛みにかろうじて耐えられる程度のモルヒネだと、中途半端に意識も飛んじゃって、意識が戻った時、意識が戻ったのに忘れている部分があることに人は恐怖を憶える。
それがあの時の祖父の顔だったんだと思う。
連れ合いの祖母は同じく年老いていたけれど、毎日祖父の見舞いで世話をしていた。
祖父は感謝で一杯だっただろうに、意識のない時はなにをしてるかわからない。
それが、シラフに戻った時の祖父の顔に出ていた。
世話をしてる家族もつらい。
世話をされてる方が実はもっとつらい。
一緒に限りある時間をどうすごすのか。
両方が辛くない選択。
それが母の「もっとモルヒネを」っていう医者への注文だった。もちろん医者からはいい顔はされなかった。でも母は結構やり手の看護師だったから、医者をも説き伏せてた。
沢山の患者さんとその家族を見てきたから、それが母の両親への愛だった。
手の施しようがないから、せめて痛みと苦痛を取り除いてあげようっていう気持ちだったのだと思う。
猫の闘病で、モルヒネで痛みを緩和するっていう状態はあまりない。
猫の病気のほとんどが、高齢になってのこと。
一般的に「猫は痛みに強い」とか言われる。でも誰も猫になって体験したわけじゃないから、本当かどうかはわからない。
言葉のあやかもしれないけど、
高齢の猫の闘病は、確かに『闘い』という字が入ってるけど、勝ち負けじゃない。
勝負にしちゃうと、検査の数値が大事になっちゃう。
薬が増えることが悪いことになっちゃう。
薬が増えることは、確かに辛いこと。
だけど、病気なのに薬を飲めないことの方が辛いこと。
旅立ってしまったら、もう治療は必要なくなるけど、
見送ったから言えることだけど、治療が出来るということは本当に幸せなこと。
でも、そのことをまだ体感して欲しくない。
闘病を勝負にしてしまったら、
木を見て森を見てないことになっちゃう。
病気だけをみて猫を見なくなっちゃう。
そんな哀しいことはない。
人間の言葉は話さないけど、ちゃんと感情があるんだよ。
動物と暮らしているのだから、人がえらくて動物がえらくないとか、そういう問題じゃない。
感情もあって嘘をつかない動物に、伊達や酔狂も通用しない。
闘病は闘いじゃない。
共に病気に向き合い生きる時間。
大切に一緒に生きる時間。
お薬あげたり、輸液をしたり、通院したりで、猫ちゃんにとっても人にとっても嬉しい事ばかりじゃないけれど、少しでも体が楽になるために出来ることをしてあげて欲しい。
決して、数値にだけ目が行きませんように。
そのコの好きな事、嬉しい事に気持ちが注がれますように。
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以前2007年4月13日に書いた
『食事と体重、そして甲状腺機能亢進症について』の記事に
体の中では各々の器官が、その能力を最大限発揮しようとがんばってしまう。
まるで機関士がいない機関車のような状態が起こってしまっていて、誰もブレーキをふまない。
ということを書いた。
そのことをリライトしたのではと思えるものを巨大SNSのコミュニティに7月に書かれたものを見た。
「お薬の投薬によってこれらの働きすぎにブレーキをかけます。」とか
「老体は壊れた機械のごとくフル回転させられている状態です。」
壊れた機械って...。老体って...。
なんて汚い日本語。なんて敬意のない表現。品格を疑う。
それは違う、間違ってる。
病気で、確かに各器官が暴走してしまうことはあるけど、壊れた機械じゃないよ。
病気と診断されても、甲状腺機能が亢進していても、そのコは壊れていない。
一番病気と向き合って堪えているのは飼い主じゃない。病気の猫ちゃんなんだよ。
自分の家族として愛してると言っていながら、壊れた機械って...。
それじゃあ、犬に服着せて人に見せるためだけに連れ歩いてるだけの人間となんにも変わりない。
同じ病気のコの飼い主さんから「下痢しました。どうしたらいいですか」という短い内容のメールに返信した内容が、その人がリライトしただけの形でその人のブログにいかにもその人の考えのような形で載っていたり、参考にと送ったURLが即座にその人のブログにただ「こんなに調べました」てな感じにURLだけが注釈なしに載っていたりすると、どうしたものかと頭を抱える。
参考にしてくれたり、そこから感じてもらうのはとてもありがたいことだけど、微妙に間違っていたり、論理的にその人の考えが付加されていなかったりするのを目にすると、いたたまれない気持ちになる。
何時間もかけて言葉を選んでメールを書いたことがなんだったんだろうと虚しくなる。
さらに書かれた内容を見た人から尾ひれがついていくことを懸念しちゃう。
「東京の知り合いは検査費が高いとブーブー言ってる」っていうのを目にしたり。
検査費は10円20円の話じゃないし、治療は続くものだから高いよりは安い方が助かる。
だけど、病院選びは検査費が高いだ安いだとかそういう事で選ぶものではないよね。
そういった全てのことがどういう意図かは知らないし、わかりたくもないけれど、
その全ては、
がんばり屋さんのがらぴんが
命をかけてわたしに教えてくれたこと。
それを無断で、
それも汚い言葉で、
しかもちょっとずつ間違えて、
ネットで公開している事に強い憤りを感じてる。
命一杯生き抜いたがらぴんが命がけで教えてくれたことを、ちょっとずつ間違えた方向だったり、汚い日本語表現にリライトしてブログやミクシィに書かれることに憤りを感じてる。
がんばり抜いたがらぴんへの敬意のかけらも感じない。
(あたしに敬意はいらない。ただの人だから。)
その行動の意味がわからない。
人類学者クローバー(A. L. Kroeber)は次のように述べている。
あるひとつの社会の中に産み込まれる(be borm into)ことによって、
どんな個人も同時にやはりあるひとつの文化の中に産み込まれることになる。
そして彼はこの文化に参与するのである。
個人ひとりひとりがその文化によって形成(mold)される度合いは途方もなく大きい。
つまり生まれ育った環境によって、その人の文化は形成されるっていうことなわけだけど。
一緒に暮らす猫(時として、一緒に暮らしてた猫ではない場合もあると思うけど)が病気になった。
という共通な事以外、培われている文化が大きく違うのだから、
汚い日本語を誰かは汚いと思わないのかもしれない。
けれど、このブログに書いていることは、がらぴんの生きた証し。
がらぴんが命がけでわたしに教えてくれたこと。
それをわたしだけの記憶でなく、同じ病気と診断されたコとその家族の為に少しでも役にたって欲しいと思って綴ったけれど、無断で転載されるのは、それも汚い日本語で、微妙に違った内容で模倣されるのはたまらない。
そんなことをしてる時間があるなら、そのコがどこをマッサージすると喜ぶかとか、猫ときちんと向き合って欲しい。
ひとつ学んだこと、
それは仕事もプライベートも全てにおいて共通することだけど、
「?」にきちんと答えずに「ありがとうございます。参考にします。」とだけ答える人間は信用ならない。
がらぴんは、旅立つその日の旅立つ直前にだって、喉を鳴らしてわたしの手にスリスリしてくれたから、がらぴんは最後の最期まで幸せな猫だった。
わたしががらぴんにしてあげられる事は、全てしてあげれたと思ってる。看病に後悔なんかない。
がらぴんは幸せな猫生を送りましたよ。
そしてその猫生からわたしは沢山の幸せをもらいました。
それは揺るぎない事。
でも、やっぱ淋しいものは淋しい。
好きなものは好き。それは変わるはずもなく。
同じ病気を抱えた猫ちゃんや、違う病気の猫ちゃん、
もっともっと全ての猫ちゃん達に、少しでも穏やかに毎日を過ごして欲しいと願っています。
もちろん猫を愛する全ての人にも。
昼夜の寒暖の差が激しい時期です。
どうかみんなが快適な夜を過ごしていますように。
天国のみんなもノンビリしたり、ピューンと大好きな人の足下へ飛んで行き、足下を喉を鳴らして八の字歩きしてたりしてますように。