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日々思うこと

果たして、それは本当にそうなのか?

2011-12-08 | せらせら

僕の好きな芸術家や詩人に共通するのは「常識を根本から疑う」性質。

ある人は「そんな定規みたいな『ほがらか』は棄て給へ」と言い、見事な再定義をしてみせたし、またある人は、静物が本当は動けるのに動けないフリをしているのではないかと考え、ひねもす観察を続けた。

 

そう考えると、本来、芸術に属するすべての表現は、疑うことから始まるのかもしれないね。哲学然りか。

 

結局、そういうひねくれ者が好きなんだな。

可もなく不可もなくな人はやっぱり愛せないし、自分と本気で殴り合うような向き合い方をしてる人には、どういう方向性であれ惹かれるものがある。

 

 

何が真実かを知りたければ、不要なものは取り除いていくほうがいい。すなわち捨象。

残念ながら、何かと1対1で向き合うには、余計なものが多すぎる世の中だ。

そこでミニマルの重要性が問われるわけだ。

 


ときには心地好いものを捨てる勇気。

果たしてそれはあなたが真剣に生きるうえで本当に必要なのか?

とはいえ、捨てるということは取り返しがつかないことの代名詞でもあるので、失敗しないようによ~く考えること。

往々にして、どうするべきか考えているうちに人生は過ぎ去っていくから。

人生を丸ごと懸けて、自分の作品にできる人などそうそういはしないんだろうね。

 

なんだかんだで、ここぞという場面では守りにはいってしまうのが、人間ってもんだ。

 

かくいう自分は、攻めているのか守っているのか、最近よく分からなくなってきている。

そういうとき、自身の内に決まって起こるアンニュイな感じが非常に好き。

基本、根が暗いんだろう。



スリギリキとリア

2011-12-08 | せらせら

夏以降の多雨で今年のみかんは玉の大きいものが多い。

摘果に力を入れたマメな農家さんほど実が太り、3Lにもなると農協は買い取ってすらくれないんだとか。なんたる皮肉。

そんな農協もかつては大きい玉を作るよう指導していたというから驚く。今では「農協の言う通りにしてたら金は取れない」というのが生産者さんの間で定説になりつつある。

 

サボり気味の人がオイシイ思いをするなんてことが、人道的にあっていいのかどうかはさて置き、アリとキリギリスの教訓へのアンチテーゼとも思える事態が、今年の中島では現実に起きている。

熟練の農家ほど頭を抱えるこの現象。素人目にみても農業の難しさが思い計られる。

同時に、生真面目に生きることが必ずしもHAPPYへの近道ではないと改めて思い知らされ、これまでに輪を掛けてTAKE IT EASYな生き方をしようとしている自分が恐ろしい(笑)。

ま、変わらず、けせらせらでいきましょう。


生活を再構築する

2011-11-18 | ぎらぎら

ポイントはこれ。

『本来、権利であるはずのものを、知らず知らず義務化してしまってはいないか』

定期的にこれを意識して生活のすべてを細部にわたるまで見直してみる。

PCをデフラグするように。

それだけで、惰性でやっていたことや無駄な苦痛が取り除かれ、人生は驚くほどサクサク動くようになる。

これホント。だまされたと思ってやってみて!

 

我ながら、人間ってつくづく馬鹿な生き物だと思う。


So far so good

2011-11-18 | せらせら

一時は「消えたい」やら「毎日が地獄だ」などと口癖のように言っていた礼奈が、2年間の産後&育児休暇を終えて12月からいよいよ仕事に復帰する。

 

電話越しに「24時間ず~っと一緒にいた小夜子と朝晩の数時間ずつしか会わなくなるのが、なんか不思議な感じ」と彼女は言う。

その声に寂しさらしきものが聞いて取れたので、試しに「この2年間を振り返って、どうだった?」と投げ掛けてみた。すると、こんな答えが返ってきた。

 

「なんだかんだで、そんなに悪くはなかった、かな」

 

 

 

まぁ、人生ってそんなもんでしょ。

今がどんなにつらくっても、振り返ればそんなに悪いモンじゃあない。(別に、僕がつらい生活を送っているわけではないが、今を楽しめてない人たちに向けて言ってみた)

 

理由は知らないけど、人生ってのはそういうふうにできてるように思う。

時間が痛みを風化させ、記憶の中で喜びのみが抽象されるのなら、長く生きてみるのも面白そうだ。

いろんなことがあるけれど、僕の人生、今のところはそう悪くない。


種2

2011-11-12 | ぎらぎら

小遣い稼ぎと繋がり拡大を兼ねて、僕が週に2回通っている『中島青果』の選果場。

全国有数のみかん産地・中島のなかでも、特に美味しいと言われる地区の8人の匠たちが持ち寄るみかんを選別している。

まだ最盛期ではないため、作業は早々に終わる。作業後はコーヒーを飲みながら談話。

そこで中島青果の社長さんから、こんな言葉を頂いた。

「君らが島に来てから、いろんな人が刺激を受けているよ。音楽をやってる人はもちろん、我々も。まさか素人よりダメなみかんを作るわけにもいかないからね(笑)」

 

 

僕らは、自分たちのことを表現者と自覚して生きているし、表現者である以上、誰かに何らかの刺激を与えながら生きたい。

そして表現者たるもの、人生そのものをもって表現としたい。

 

僕ら個人個人の力は微々たるものだとしても、複数で動くことによって、大きなものが動き始める実感を、その言葉によって得ることができた。

変化なんて最初はほんの少しでいい。

 

僕らが来たことによって、この島がなにか良い方向に動こうとしているのなら、これほどうれしいことはない。

 


死(の直前)を想え

2011-11-07 | せらせら

死の間際に手短に人生を振り返ることが許されるとして、はたしてそれは動画的(ストーリー)だろうか? はたまた断片的な静止画のようなもの(フォーム)だろうか?

最近、僕は、後者ではなかろうかと考えるようになった。

 

理由は次の3つ。

1、残り時間いくばくか、という段になって瀕死の脳が動画ほど大きな情報量を処理できるとは考えづらい。

2、深く刻まれるからには、強烈なインパクトがいるはずなので、瞬間的である可能性が高い。

3、僕には心当たりのある光景がいくつかある。

 

(もちろん、これが万人に通用するとは全く思わない。3に代表されるようにまったくもって個人的な話です)

静止画の“ようなもの”と言ったのは、それは必ずしも写真的ではなく、むしろ絵画的、さらに言うと印象派の絵画のようなものだと思っているから。

それは瞬間ではあるけれど、深い感慨や長い時間を集約したもの。鮮烈な経験ではあるけれど、記憶の中でデフォルメされ線のぼやけたもの。

それは往々にして日常のなかで突然訪れるため、当然ながら写真に収められるようなものでもない。

たとえ、それを捉えようとどんなに用心深くカメラを向けていても、その瞬間はシャッターを押す間もなく、あまりにも自然に過ぎていくのだと思う。あるいは過ぎ去ってこそ成立するのかもしれない。だから人は詩を書き、小説を書き、楽器を演奏し、絵を描くのかもしれない。

(余談だけど今、大友さんの部屋から流れてくるクルセイダースのレインボー・ヴィジョンズが至極心地好い)

 

ただ残念ながら僕は、暖かい日曜日の午後にふっと訪れる柔らかく、力強く、もの悲しいあの瞬間の類を表現する術を持たない。

恐ろしく魅力的な造形の蝉の抜け殻に初めて触ったあの感覚を。

深い谷間の墓場で見た、白顔の猿の去りゆく様を。

そしてあの夜、ファミレスのテーブル越しに見た彼女の素顔を。

そういったものを的確に表せない以上、もはや墓に持っていくしかない。

 

先日、27年前に通っていた保育園を訪れ、恩師と話をした。

その途中、すぐ近くで遊んでいた1人の女の子がパタパタと駆け寄り、先生の後ろに隠れながら僕を見る。

恥じらいと好奇の交錯するその瞳に、僕は「思いっきり遊んどきなよ。す~ぐ大人になっちゃうんだから」と言った。

いつの間にか、そんなことを言っちゃう歳になってしまったらしい。

 

 


隠れ音楽の島、中島

2011-11-06 | せらせら

みかん農家を中心に4000人の人々が生活する愛媛県中島。

実はこの島には、人口の約1%、総勢40人前後の住民が所属する『コミックバンド』という吹奏楽団がある。(これは驚くべき数字。50万都市なら、5000人が所属する計算になるからねw)

団長のトミナガさん(チューバ)は、40年ほど前に松山をにぎわせていたジャズなどのサブカルシーンにどっぷり浸かっていた方。(当時を語らせると、酒が何本あっても足りない)

団員の年齢層は10~50代と非常に幅広く、職業も小中学生や、高校生、教員、農家、主婦、銀行員、会社員などなど、ごくごくふつーの人たち。当然、演奏力もピンキリ。その人たちが、皆で1つの音楽を楽しんでいる。

そこには年齢や職業を越えた師弟関係があり、音楽を通じた人間関係の輪がある。結果的に人間教育の根幹の部分を島全体で行っているわけだ。(これって、すごく素晴らしいことだと思う。)

東京で暮らしていた頃にひしひしと感じていた、肥大しすぎた都市一極型の社会が抱える問題、すなわち細分化による「部分(個)と全体(集合)の乖離」。その問題に対するアンチテーゼが、やはり田舎暮らしにはあった。(あるいは、当たり前すぎて、彼らはその重要性にすら気が付いていないのかもしれないが)

 

それだけで十分に興味深いのだが、僕がさらに面白いと感じたのは、団員たちがどこか“ひっそり”と音楽を楽しんでいる点。1人1人の生活にはいわゆるバンドマン的な「ロック最高!」とか「俺ってパンクだぜ!」っていう気負いがまるでない。(僕の価値観では、これがまたカッコイイ。みかん農家が剪定ばさみを置いた手でドラムのスティックを持って家を出る姿。酒屋のオヤジさんが店を閉めた後、メサ・ブギーのオールドアンプを軽トラに積む姿はとってもクールだ)

 

中島にはそういう生活を体現してる人たちが結構いる。いったい何なんだこの島は!?


文化的な生活

2011-11-05 | せらせら

ずいぶん早めに眠ったせいか夜中の2時に目が覚めた。

いや、朝の早い農村では2時はもう朝と言ったほうが近いのかもしれない。さすがにそれは言い過ぎか(笑)。

普段の僕の生活サイクルでは、2時は就寝時間。しばらくPCの前に座ってみるが、どうも体の輪郭はぼやけたままだ。

このぼやけに任せてもう一度布団に潜り込むのも1つの手ではあるが、明日は昼まで予定がないので久々の夜更かしを楽しんでみることにした。

まずはインスタントコーヒーをエスプレッソ風に。これにミルクを流し込んだカフェラテで、足の指先まで輪郭を確認する。

 

この数日、いくつか面白いテーマでディスカッションする機会に恵まれたので、深夜の雨音に乗せてその内容を反芻してみる。①「心理的な性差についてwith大友氏(農家/個人投資家)」、②「デジタルネイティブ社会への変容with山本さん(新聞記者)&大友氏」、③「労働環境の在り方と若年フリーターについてwith土井君(農家の息子)」。

整理の意味を込めて、ここで文章にしてみようと試みたが、どうも書くことがない。

そもそも僕にとってディスカッションとは、女性の悩み相談と同様に何らかの答えを求めるものではない。ただ互いの見解を正面からぶつけ合うことで、それぞれの思索を少しでも先へ進められればいい。

それだけで精神安定の効用がある。

コミュニケーションとはそういうものだろう。

 

かつて、東京の片隅にあるスタジオ24という隠れ家的な場所で繰り返していたディスカッションの続きが、瀬戸内の島でも同じようにできることは幸せなことだ。

文化とはまず人ありき。今後、数年かけて東京から仲間たちが移住してくれば、小さな島にまた新しい風が吹くだろう。

文化的な何かが芽生えるだろう。

デジタルとアナログの転換期を生きる僕ら世代ならではの、絶妙な表現を生み出すのだ!

 

差し当たって、移住しやすい環境を整えることが、先発隊を志願した僕&大友氏の急務ってわけ。


えもいわれないけだるさ

2011-10-30 | せらせら
「えもいわれないけだるさ」。平仮名で書くと一見、無意味とも思える文字列だが、人生を存分に楽しむには、この感覚と上手く付き合っていかねばならない。なぜなら、人には自らの意思だけではコントロールできない様々の感情の波があるから。

「えもいわれないけだるさ」もまた、それら不定期に訪れる波の一つ。そのネガティブな側面から、忌むべきものとされがちだが、実は上手く料理すれば極上の肴にもなる。ピンチこそチャンス!?


というわけで、今回は僕のおすすめレシピを公開しよう。

材料:えもいわれないけだるさ (多いほどよい)、喪失感を助長するバラード(できればインストで婉曲的な表現のものを)、煙草(適量)、あの頃の写真(あればでよい)、雨または夜(両方そろえば尚よし)、時間(とめどなく)、蒸留酒(多すぎると泣けてくるので、ほどほどに)、仏教的思想(諸行無常的な)

工程:上記の材料を好きなバランスでミックスする。以上。


ポイントは、倦怠感をやんわりと哀しみにミスディレクションすること。やるせなさという共通項を上手く利用できれば、特に難しいことはない。

ご機嫌なロックナンバーをぶつけて打ち消してしいがちな負の感覚も、こんなふうに有効利用すれば、より贅沢な時間が過ごせますよ。

負の感情もリユースで。

シェア。そして現同居人・大友氏について

2011-10-26 | せらせら

大学時代前半に3LDKのマンションを男3人でシェア。これが家族以外では初めての住まいのシェアとなった。物件はキレイだったが、野郎どもの生活は清潔とは言い難いものだった。

 

大学生活が後半に差し掛かると4LDKの古屋を借り、男3人女2人の共同生活。米ドラマ「フレンズ」ばりの青春劇を繰り広げる。

 

その後、1DKのアパートでの1人暮らしを経て、結婚。

 

3DKのマンションで夫婦2人の生活の後、子供と3人で暮らす。

 

……のはずが、今は5DKの一軒家に同居人・大友氏と2人で生活している。(経緯は省略)

 

我ながら、目くるめく生活スタイルの変遷。素敵だ。

 

 

さて、シェアの概念が改めて見直される昨今。僕的には今さらの感もあるが、やはり人と何かをシェアするのは経済的であり、現代的な生き方だと思う。

 

それが身内であれ、他人であれ、人と生活を分かち合うということは、心のゆとり無くしては難しい。

 

誰にだって、“自分ルール”や“やり方”ってものがあるから、他人のやり方を許容できるだけのキャパシティが必須ということ。

 

 

ルールということでもないが、僕の場合、歯ブラシは2本常備している。硬さや毛先の違う歯ブラシを気分によって使い分けるのが、僕の“やり方”ってわけ。

ある朝、洗面台に立つと歯ブラシが1本消えていた。

当然僕はその行方を同居人・大友氏に問う。

すると帰ってきた答えは「あ~、2本も要らんと思って、1本ひげ剃りの掃除に使わしてもろたで」。

マジか。

人の物を勝手に捨てたのか!? しかも愛用歯ブラシがひげ剃りごときの掃除道具にプルート(格下げ)されてしまった!??

でも、僕は怒らない。彼は彼のルール(歯ブラシは1本で十分)に従って行動したのみ。2カ月も経つのにこうしてブログでチクチク責めはするけど(笑)。

それが共同生活をうまくやる秘訣だ。考えてみりゃ、僕が当然と思ってやっていることのなかには、彼の気に障ることだって多いはず。ならば、お互い様だろう。

 

 

器の小さい話から一気にスケールアップするが、今この世界は70億人でシェアしている。それだけでも天文学的数字だが、人間以外の動植物まで含めるとさらに跳ね上がる。

 

それだけの数の生命が地球をシェアしているという事実。

不毛な争いを避けるために、今、僕らが持たねばならないものは、時代に即した許容力ではなかろうか。

相手のルールや価値観をどれだけ認められるか、それには心のゆとりと相手を敬う気持ちがカギとなりそうだ。

 


2011-10-17 | ぎらぎら

土を楽しむ贅沢を求めて、瀬戸内の島にやってきてもうすぐ3カ月。

ついに、念願かなって小さな畑をやることになった。

と言っても、よもやこれで生計を立てるつもりもなく、あくまでも現金収入は他から得つつ、片手間に悠々自適な農的生活を営む趣旨なので、「収穫できれば御の字」という緩いモチベーションで臨むことができる。

生来、普通のことを普通にやるのが苦手(その重要さは知っているつもりではあるが)なので、当初はまだ世間に広く知られていないような目新しい野菜を植えようと思っていた。しかし、「まずはフツーにやりなよ」という同居人の訓諭を受けて、ダイコンやニンジン、豆といったありきたりな種を撒くことにした。

 

畑は家から2分ほど歩いた山の麓にある。

聞けば義祖母が元気だった頃はみかんが植えられてあったということだが、この数年はすっかり荒れて放置されていた土地だ。

キャリー1つで公務員の月給が稼げたという“みかんバブル"以降、みかんの値段は右肩下がりに安くなり、20年前の台風や近年のイノシシの被害が追い打ちを掛けて、畑をやめる農家が増え続けている。

そのため、このような耕作放棄地が島にはたくさんあり、かつて収穫期には山全体がオレンジ色に染まったということだが、今ではそんな光景が見られる場所は限られる。

土地を荒らすことは農家にとって不名誉なこととされる。そうでなくとも雑草が生い茂ると種が拡散し、近隣の畑に被害が及ぶ。

今回、僕が畑をやることにした土地がまさにそれ。奇麗に手入れされたみかん畑のなかにポツンとできた雑草地帯で、誰からも苦言こそ出ないものの、迷惑を掛けていることは明らか。

その意味で土地を手入れすることは一石二鳥なのだ。

 

 

まずは草を刈る。装備はホームセンターで買ってきた1本の鎌のみ。ハッキリ言って無茶だが、それも一興。まぁやれるとこまでやってからダメなら次の手を考えればいい。

どこから手を付けていいかもわからないまま、とりあえず大きな草を苅り倒し、足場を確保していく。しばらくすると、鍬を持った東さん、チェンソーを持った林さんが助っ人に現れ、あっという間に作業が進む。

島に越してきてから何かとお世話になっているこのお二人。都会から来た若者の動向を気に懸けてくれているらしい。

一通り、草木を刈り終えて、帰宅。東さんの奥さんの言葉を借りれば、「農作業は頑張りすぎないのがコツ」だ。

 

翌日、再び雑草地帯に足を運ぶと、なんと既に土地が耕されていた。すぐに現れた東さんが笑顔で「ちょっと作業を進めておいたぞ」と。

そこへ鍬で溝を掘り、まずはダイコンの種を撒く。種の上にそっと土を被せ、続いてニンジン、豆、カリフラワーと撒いてみる。さらに東さんの奥さんに頂いたネギと水菜、ブロッコリーの苗を植え(実は奥さんが植えてくれた)、保水効果のあるバーク堆肥(これも頂き物)を散らして終了。

と思いきや、東さんは「柵をしとかんと、1日でイノシシに荒らされるぞ」と柵を持ってきてくれた。鉄柱を土に打ち込み、鉄の柵を立ててヒモで留めていく。

 

こうしてあっという間に畑が完成。

そう簡単にいくとも思えないが、今から収穫が待ち遠しい。

 

しかし恐るべきは、ご近所の方々のお力添え。「これを使え」と農具や作業服をくれたり、「お腹空いたやろ」とご飯を差し入れてくれたり、至れり尽くせりでなんだか申し訳ない気がしてくる。

本当にこの島の人の親切さは想像を絶する。

 

作業のあとは借りていた農具を返しに、東さんのお宅を訪問。すると奥さんが出てきてこんな話を聞かせてくれた。

「ゆう君の義祖父さんと、うちと林さんは兄弟のように親しかったんよ。義祖父さんが亡くなるときに、『あとのことは頼んだ』と言われとるんやけん、困ったことがあったら遠慮せずに言ってくれてええんよ」

 

 

どうやら、種蒔きはもう何十年も前に行われていたらしい。

今、僕は奇妙なほど真摯な心持ちで考える。

僕がこの島のためにできることってなんだろう。

 

何か確かなものを実らせねば!という使命感に駆られつつ、この地に根を張る覚悟が固まっていく。

 

まずは明日の朝一番、墓参りから始めよう。

それが礼儀だ。

 


近所のおばちゃん

2011-10-10 | せらせら

朝。ちょっとだけ早めに起きて、シャワーを浴びる前にちょっと運動をと耕作放棄地の草刈りに。

帰り道、近所のおばちゃんがバケツ1杯の野菜をくれました。

早起きは三文のトク♪

島の野菜は美味いと評判。秋ナスはどうしてくれようか。

うむ~。料理、上手くなりたい。

 

 


日本一美味いみかん

2011-10-10 | せらせら

今日知り合ったばかりのおじさんが、「日本一美味いみかんを食べさせてあげようか」と言って、袋いっぱいのみかんをくれた。

「農家さんは皆、『自分の畑のみかんが一番』と思っている」って話は聞いたことがあったけど、ホントなんだな~(笑)。

そして、おじさんはこんなことも言っていた。

「みかんには思いが詰まってるから、味に作り手の人柄が反映される。だから中島のみかんは美味いんだ」って。

 

ふ~ん。

 

あ、ホントに美味いわ。


晩夏の夜長に

2011-08-25 | せらせら
mixiとかtwitterとかfacebookとか、友人たちと近況を報告し合うのに便利なモノはいろいろあるけど、最近はイマイチ使い分けが分からない。……いや、使い方が分からないと言うべきか?笑

このブログとmixiだけだった頃は面倒くさいことをブログに、ライトなことをmixiにと思っていたが、ではtwitterとfacebookは?
しかも、あろうことかmixiにもつぶやき機能が付いちゃってるし…。

ま、別に深く考えることもなく、それこそ“なんとなく”でいいんだろうけど。


なんの科目だったかは忘れてしまったが、大学の講義で「テレビと携帯とパソコン。徐々に機能が近付きつつあるこの三者、最後に生き残るのはどれだと思う?」と教授が教室の全生徒に質問したことがあった。

あれから十数年経つ。教授はいかにも3つのうちの2つは淘汰されるような言い方だったが、現状ではどれも生き残っている。なんとなくの棲み分けは為されているようだ。

ま、そんなもんなんだろうね。

都会と田舎もそんなもんなんだろうかね。

ま、便利な世の中になったもんだ。

ガラムだってカートンで手に入っちゃうんだから。

ま、ゆびきたす。でしょうか。

脱ネガティブキャンペーン実施中

2011-08-25 | せらせら
ポジティブな性格から一変して、後ろ向きな人間になってしまっていた妻・レイナが「脱ネガティブキャンペーン」なるものを実施しているらしい。
いい試みだ。