「勃起と射精」に拘泥する男の“性欲”と、ニッポンの「性教育」
「レイプもセックスだと思ってた」…まともに教えず、男を誤解させる自民党の政治的性教育
この二つのリンクは前編・後編でつながっています。
実はリツイートで後編の「レイプもセックスだと思ってた・・・」から読んで記事にしようと思ったのですが、前編があったのに気づいて順番で並べました。
だけどもしかしたら前編のほうがよくある話なので後編から読んだ方が入り込みやすいかもしれません。
どちらにしても読むべき記事であると思います。
前編で語られたのはこの時代になっても性教育というものがなかなか進んでいかないことですね。男性二人の会話ですが男性女性ともに教育が不十分であることがわかります。女性ももっと自分の体を知るべき、という説明に肯きました。
私自身(50代)性教育というものはまったく受けられなかったと言っていいと思っています。
なんとなく「そういうもの(性教育)は成長につれていろいろなとこで聞いていくものだ。セックスそのものは女性は結婚してからでいいだろうし、男性はいろいろで風俗ですますのもひとつだ」という風潮のまま来てしまっているように思えます。
もちろん学校によっては真剣に取り組んでいるところもあると思いますが、多くは私の学生時代とあまり変わっていないのではないでしょうか。
これもジョージ・カーリン語るところの「未来永劫教育は変わらない」なのかもしれません。無知であるほど経済はさまざまに動かせるからです。立派な教育を受けたら風俗や堕胎手術の費用もなくなってしまうじゃないかということなのでしょうか。
さまざまな教育が大切ですが「性教育」は人間が生きていくうえで欠かせないものです。これだけは真っ先に充実させていかなければならないものなのです。
上のリンク先では触れられていませんが女性向けの低用量ピルのことなど学生時代には知る由もありませんでした。あたりまえです。解禁が1999年ですから私は36歳になっています。それでも私は生理痛などが軽かったから良かったのですが重い女性たちの苦しみを思うと何故もっと早く(学生じゃないとしても)普及してくれなかったのでしょう。というか、現在でも普及しているとは言えません。いまやっとネットで「もっと活用しましょう」と呼びかけている状態ですね。すべての日本女性が当然のように使用するのはまだまだです。
それを一部の人々が「ピルを使う女はセックスにふしだら」などと意味不の言論をしているのにあきれ果てます。
リンク先に戻ります。
清田 これは自分自身にも当てはまることなんですが、男って自分の性欲について実は“よくわかってない”ような気がするんですよ。
これは女性だってそうだと思いますが、本当に大変な問題であります。
そして会話は続きます。
清田 はい、同著で坂爪さんは、「(男性は)女性の身体の評価や採点、支配や売買を通して、間接的に自らの性を語ることしかできない」とも述べていますが、まさにその通りだなと。
村瀬 それを考えるにはまず、「快楽としての性」をどう捉えるかが鍵になると思います。これには2種類あると僕は考えていて、ひとつは身体的なオーガズム、男の場合で言えば射精につながるような“性的快感”(からだの快感)です。そしてもうひとつは、触れ合って、ほっとして、安心して……という心理面で味わう“心的快感”(こころの快感)です。
この「心的快感(こころの快感)」というものは簡単に手に入るものではありませんね。
それには二人の人間が互いを認め相手を知ろうとする努力が必要になってきます。そんな努力を経て心的快感はあると思いますが、その努力をしようとする気持ちが少ないもしくはまったくないことを多く感じます。
村瀬 そうだね。まず100%。特に男子はそちらに囚われている傾向が強いかもしれない。この性的快感って自慰行為でも得られるわけで、実は必ずしも相手を必要としないものですよね。これは何も「相手がいないから一人で」という話ではなく、恋人がいようと、結婚していようと、高齢者になろうと、相手の有無に限らず自分だけの性的快感は自分で獲得できるという意味で。
清田 村瀬先生はそれを「セルフプレジャー」と呼んでますよね。
村瀬 はい、そうです。いい表現でしょう? しかし、もう一方の心的快感は、触れ合いやコミュニケーションの中で得られるものであり、基本的に相手を必要とします。それで、ここが重要なポイントなんですが、性欲というものにはそのふたつを求める気持ちが混ざっています。
この大切なことを性教育の中でされたことがどのくらいあるのでしょうか。
どういうわけか。「性教育などしたら世の中が乱れる」という奇妙な論理を持っている人が見られますがすべての男女が村瀬氏が言っていることをすでに理解していると言えるのでしょうか。私にはそうは思えません。
村瀬 それが単なる射精欲求ならば、これはもうセルフプレジャーで満たすことでいいんですよ。そうやって生理的欲求を自己コントロールできることは、自分への自信にもつながるはずなので。逆に、そのために相手を利用するのはやめるべきでしょう。相手は射精のための道具ではないからです。
清田 “相手の身体を使ったオナニー”という表現もありますね。よくヤリチン男性なんかが「いくらセックスしても心の空白が埋まらない」みたいなことを言いますが、それっておそらく「本当は心的快感が欲しいのに、それを得られるようなセックスをしていない」ってことなのかもしれませんね。
痴漢、セクハラ、レイプなどの身勝手な行為がなくならない理由がわかる説明ですね。
男性の方がセックスだと思っていたのが女性からすればレイプだったというすれ違いがあるのもこういうことなのです。
相手を思いやる、セックスはふたりの心と体の触れ合い、という事を無視して愛し合えるはずがないのです。
そして後編へ続きます。
ここで村瀬氏自身の体験が話されます。失敗のあとで夫婦ではなしあって解決していったという話は感心します。こうありたい形です。
そして村瀬氏は学生たちに性教育を施し学生たちも積極的に勉強していくという、これも素晴らしい話でした。
しかしその後にされた話には驚きました。
村瀬 その後も順調に広がっていって、性教育の取り組みを新聞で取り上げてもらったり、書籍や講演会の依頼がきたりしました。1982年には「“人間と性”教育研究協議会」という全国的な研究団体の設立にも関わり、1989年からは一橋大学、さらに津田塾大学、東京女子大学で非常勤講師をするようになった。そして1992年には学習指導要領が改訂され、性に関する具体的な指導が盛り込まれるところまで到達したんです。
清田 1992年は“性教育元年”と呼ばれているそうですね。すごいです、まるで『プロジェクトX』のようです!
村瀬 ところがね……ご存じの人もいると思いますが、21世紀に入って以降、性教育に大きな逆風が吹き荒れるんですよ。女性の自立や性の対等・平等性などが進むことに、時の政権が危機感を覚えたんですよ。
清田 いわゆる「バックラッシュ」と呼ばれる動きですよね。
村瀬 そうです。特に今の首相である安倍晋三さんなんかは、第一次安倍政権の2005年に「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」を設置し、性教育を激しくバッシングしました。その事務局長を務めていた山谷えり子さんとは、フジテレビの討論番組で向き合いましたが、「性なんて教える必要はない」「オシベとメシベの夢のある話をしているのがいい」「結婚してから知ればいい」などというのがその主張でした。
ええ?知りませんでした。
まさかここでも安倍首相の名前を聞くことになるとは。性教育をバッシングする、というのはどういうことなのでしょうか。
勿論その性教育が間違っていたというのなら解りますが、「性なんて教える必要はない。おしべとめしべでいい」とはどういうことなのか。
人間にとって性とは単なるおしべとめしべではなく心の問題が重要であるのに国の首相がそれをバッシングする。そして女性の自立や対等・平等性が進むことに危機感を持つ?
私は最近になって「性教育が昔より悪くなっている気がする」と感じていたのは間違いではなかったのですね。
男女差別が以前よりひどくなっている?何故?という感覚が日増しにあったのは気のせいではなかったのです。
正しい性教育がなければ男女差別はより悪い方向へといきます。
そしてそれはますます少子化に拍車をかけていくのです。
性教育が正しく普及していかなければ、それこそ社会は乱れ狂ってしまいます。
政府がどうこうではなく私たちが動かなければいけないのです。