ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「レイプもセックスだと思ってた」性を教えることの大切さ

2019-06-09 15:16:12 | 女性

「勃起と射精」に拘泥する男の“性欲”と、ニッポンの「性教育」

「レイプもセックスだと思ってた」…まともに教えず、男を誤解させる自民党の政治的性教育

この二つのリンクは前編・後編でつながっています。

実はリツイートで後編の「レイプもセックスだと思ってた・・・」から読んで記事にしようと思ったのですが、前編があったのに気づいて順番で並べました。

だけどもしかしたら前編のほうがよくある話なので後編から読んだ方が入り込みやすいかもしれません。

どちらにしても読むべき記事であると思います。

前編で語られたのはこの時代になっても性教育というものがなかなか進んでいかないことですね。男性二人の会話ですが男性女性ともに教育が不十分であることがわかります。女性ももっと自分の体を知るべき、という説明に肯きました。

 

私自身(50代)性教育というものはまったく受けられなかったと言っていいと思っています。

なんとなく「そういうもの(性教育)は成長につれていろいろなとこで聞いていくものだ。セックスそのものは女性は結婚してからでいいだろうし、男性はいろいろで風俗ですますのもひとつだ」という風潮のまま来てしまっているように思えます。

もちろん学校によっては真剣に取り組んでいるところもあると思いますが、多くは私の学生時代とあまり変わっていないのではないでしょうか。

これもジョージ・カーリン語るところの「未来永劫教育は変わらない」なのかもしれません。無知であるほど経済はさまざまに動かせるからです。立派な教育を受けたら風俗や堕胎手術の費用もなくなってしまうじゃないかということなのでしょうか。

さまざまな教育が大切ですが「性教育」は人間が生きていくうえで欠かせないものです。これだけは真っ先に充実させていかなければならないものなのです。

上のリンク先では触れられていませんが女性向けの低用量ピルのことなど学生時代には知る由もありませんでした。あたりまえです。解禁が1999年ですから私は36歳になっています。それでも私は生理痛などが軽かったから良かったのですが重い女性たちの苦しみを思うと何故もっと早く(学生じゃないとしても)普及してくれなかったのでしょう。というか、現在でも普及しているとは言えません。いまやっとネットで「もっと活用しましょう」と呼びかけている状態ですね。すべての日本女性が当然のように使用するのはまだまだです。

それを一部の人々が「ピルを使う女はセックスにふしだら」などと意味不の言論をしているのにあきれ果てます。

 

リンク先に戻ります。

 

清田 これは自分自身にも当てはまることなんですが、男って自分の性欲について実は“よくわかってない”ような気がするんですよ。

 

これは女性だってそうだと思いますが、本当に大変な問題であります。

そして会話は続きます。

 

清田 はい、同著で坂爪さんは、「(男性は)女性の身体の評価や採点、支配や売買を通して、間接的に自らの性を語ることしかできない」とも述べていますが、まさにその通りだなと。

村瀬 それを考えるにはまず、「快楽としての性」をどう捉えるかが鍵になると思います。これには2種類あると僕は考えていて、ひとつは身体的なオーガズム、男の場合で言えば射精につながるような“性的快感”(からだの快感)です。そしてもうひとつは、触れ合って、ほっとして、安心して……という心理面で味わう“心的快感”(こころの快感)です。

 

この「心的快感(こころの快感)」というものは簡単に手に入るものではありませんね。

それには二人の人間が互いを認め相手を知ろうとする努力が必要になってきます。そんな努力を経て心的快感はあると思いますが、その努力をしようとする気持ちが少ないもしくはまったくないことを多く感じます。

 

村瀬 そうだね。まず100%。特に男子はそちらに囚われている傾向が強いかもしれない。この性的快感って自慰行為でも得られるわけで、実は必ずしも相手を必要としないものですよね。これは何も「相手がいないから一人で」という話ではなく、恋人がいようと、結婚していようと、高齢者になろうと、相手の有無に限らず自分だけの性的快感は自分で獲得できるという意味で。

清田 村瀬先生はそれを「セルフプレジャー」と呼んでますよね。

村瀬 はい、そうです。いい表現でしょう? しかし、もう一方の心的快感は、触れ合いやコミュニケーションの中で得られるものであり、基本的に相手を必要とします。それで、ここが重要なポイントなんですが、性欲というものにはそのふたつを求める気持ちが混ざっています。

 

この大切なことを性教育の中でされたことがどのくらいあるのでしょうか。

どういうわけか。「性教育などしたら世の中が乱れる」という奇妙な論理を持っている人が見られますがすべての男女が村瀬氏が言っていることをすでに理解していると言えるのでしょうか。私にはそうは思えません。

 

村瀬 それが単なる射精欲求ならば、これはもうセルフプレジャーで満たすことでいいんですよ。そうやって生理的欲求を自己コントロールできることは、自分への自信にもつながるはずなので。逆に、そのために相手を利用するのはやめるべきでしょう。相手は射精のための道具ではないからです。

清田 “相手の身体を使ったオナニー”という表現もありますね。よくヤリチン男性なんかが「いくらセックスしても心の空白が埋まらない」みたいなことを言いますが、それっておそらく「本当は心的快感が欲しいのに、それを得られるようなセックスをしていない」ってことなのかもしれませんね。

 

痴漢、セクハラ、レイプなどの身勝手な行為がなくならない理由がわかる説明ですね。

男性の方がセックスだと思っていたのが女性からすればレイプだったというすれ違いがあるのもこういうことなのです。

 相手を思いやる、セックスはふたりの心と体の触れ合い、という事を無視して愛し合えるはずがないのです。

 

そして後編へ続きます。

 

ここで村瀬氏自身の体験が話されます。失敗のあとで夫婦ではなしあって解決していったという話は感心します。こうありたい形です。

そして村瀬氏は学生たちに性教育を施し学生たちも積極的に勉強していくという、これも素晴らしい話でした。

 

しかしその後にされた話には驚きました。

 

 

村瀬 その後も順調に広がっていって、性教育の取り組みを新聞で取り上げてもらったり、書籍や講演会の依頼がきたりしました。1982年には「“人間と性”教育研究協議会」という全国的な研究団体の設立にも関わり、1989年からは一橋大学、さらに津田塾大学、東京女子大学で非常勤講師をするようになった。そして1992年には学習指導要領が改訂され、性に関する具体的な指導が盛り込まれるところまで到達したんです。

清田 1992年は“性教育元年”と呼ばれているそうですね。すごいです、まるで『プロジェクトX』のようです!

村瀬 ところがね……ご存じの人もいると思いますが、21世紀に入って以降、性教育に大きな逆風が吹き荒れるんですよ。女性の自立や性の対等・平等性などが進むことに、時の政権が危機感を覚えたんですよ。

清田 いわゆる「バックラッシュ」と呼ばれる動きですよね。

村瀬 そうです。特に今の首相である安倍晋三さんなんかは、第一次安倍政権の2005年に「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」を設置し、性教育を激しくバッシングしました。その事務局長を務めていた山谷えり子さんとは、フジテレビの討論番組で向き合いましたが、「性なんて教える必要はない」「オシベとメシベの夢のある話をしているのがいい」「結婚してから知ればいい」などというのがその主張でした。

 

ええ?知りませんでした。

まさかここでも安倍首相の名前を聞くことになるとは。性教育をバッシングする、というのはどういうことなのでしょうか。

勿論その性教育が間違っていたというのなら解りますが、「性なんて教える必要はない。おしべとめしべでいい」とはどういうことなのか。

人間にとって性とは単なるおしべとめしべではなく心の問題が重要であるのに国の首相がそれをバッシングする。そして女性の自立や対等・平等性が進むことに危機感を持つ?

私は最近になって「性教育が昔より悪くなっている気がする」と感じていたのは間違いではなかったのですね。

男女差別が以前よりひどくなっている?何故?という感覚が日増しにあったのは気のせいではなかったのです。

 

正しい性教育がなければ男女差別はより悪い方向へといきます。

そしてそれはますます少子化に拍車をかけていくのです。

 

性教育が正しく普及していかなければ、それこそ社会は乱れ狂ってしまいます。

政府がどうこうではなく私たちが動かなければいけないのです。


「平家物語」ー恕ーという大切な気持ちを考えて欲しい

2019-06-09 14:41:45 | 思うこと

先日放送されたNHK「100分de名著」の「平家物語」第4回「死者が語るもの」で、とても面白く興味深いことが語られていました。

有名な熊谷直実が平敦盛を討つ場面です。

直実が討とうとした武将がまだ子供だったことに気づいて我が子が怪我をしたことを思い出し胸を痛める。この子供を殺してしまったらその親はどんなに辛いかと考える。しかし敵を討つ、という忠の心のために敦盛の首を切ってしまう。しかしその後直実は仏門に入って敦盛を弔う。という話です。

 

自ら物語を語った能楽師安田登さんは孔子の儒教をここで説明します。その儒教において最も大切なのは「忠」と「恕」である。

 

「忠」とは一度決めたことはする、と説きます。

そして「恕」は相手と一体化する気持ち、だというのです。

 

そしてこの二つの教えは時には対立してしまう。その時に選ぶべきは「恕」である。

というのですね。

 

ここで直実の行動を現在の人間がどう考えるかということも重要な問題だと思いますが、、私はその前にこの「忠と恕」について驚いてしまいました。

「忠」という言葉が日本人の歴史の中で重要な言葉であるというのは知られていると思います。

それは「忠義心」という言葉にもなり主君に仕える心、やがては自分の勤める会社への忠義心などというように長く使われてきた言葉です。いわば日本人の魂のようにすら言われてきたと言っても過言ではないでしょうし、いわば苦々しくこの言葉を口にする人たちも多いでしょう。

それに比べ「恕」という言葉は実を言うと私はずっと知らなくて最近になってやっと知るようになったほどです。単なる勉強不足と言われればそうですが、それでも「忠」という文字と比較するなら日本においてはまったく使用頻度が少ないのは事実でしょう。

しかも孔子は「忠」よりも「恕」が大切だと言っているのに、です。

 

「忠」の言葉を調べると「いつわりがない、まごころ」と出てくるのですがやはり日本人としては「主君にいつわりなく尽くす」という意味にとらえてしまいます。

 

「恕」に関しては周囲の人に聞いてみればよいと思いますが「なにそれ?」と言われるのがオチではないでしょうか。文字を見ても「怒る」に似ているとすら思いそうです。

意味としては怒るの逆の「許す」なのですが。

「恕」は「如くの心」と読み解くべきで「相手の身になって考える」という事なのですね。

そして孔子の言葉は昔から日本で説かれてきたのに最も大切だという言葉をどこかに置き忘れてきてしまったようです。

次に大切とされる「忠」は曲解して上位者の都合の良いように書き換えられてしまった感があります。

儒教、というと妙に嫌われてしまうところもありますが、一部は都合よく変換して利用し、一部はどういうわけか切り捨ててしまう、それが日本の教育の在り方なのですね。

 

「恕」という正直聞きなれない、見なれない言葉に「相手の身になって考える」という大切な意味があり、それを排除してしまった日本の教育にこの国の本音を見てしまったように思えてなりません。

 

特に昨今の日本社会の様々な犯罪、そしてそれについて語るのを見聞きしていると最も大切なはずの「恕」はどこにも見当たらないように、いやそこまでは言いたくないですね。「恕」の気持ちを持っている人たちは目立たず、そうでない人たちの大声にかき消されてしまっているように思えます。

 

いきなり「恕」と言っても通じることも無いように思えます。

「忠」で苦しんでいる人々は数多くいるようですが。

 

 先日起きた痛ましい事件でも犯人に対し、「自分だけ死ね」という。「そうではなく犯人にも相談出来る場所があればよかった。救えればよかった」という人が現れることが救いではありますがその言葉に対して「よくもそんなことが言えるものだ。自分が殺されても同じことが言えるのか」と返ってくる。

こんな社会ではいけないことに気づいてほしい。

「恕」という言葉がない国でもそうした「思いやり」を持った国はありますね。そういう理想を持って社会を築こうという気持ちがなければ良い社会になるはずはありません。

大昔から「恕」という言葉を勉強してきたはずなのにそれをいまだに理解していない、ということは悲しいことだと思います。

  

さらに安田登さんは語ります。

平家物語の中に「灌頂巻」という部分があってここでは後白河法皇が建礼門院を訪問するのです。

後白河法皇は平家の鎮魂をするつもりであったのがいつしか彼自身が鎮魂されていた、というのです。

翻って現代の人間たちも「平家物語」を読み、聞くことで自分の魂を鎮めることができるのです。

もちろんこれは「平家物語」に限ったわけではなく何らかの物語あるいは映画あるいはマンガやアニメそして音楽などを見聞きすることで鎮魂を感じることがあるのではないでしょうか。

 

「恕」の大切さ、そして「鎮魂」ということを考えながらこの記事を書いてみました。


美醜にこだわる氏への答え

2019-06-09 09:29:34 | 女性

 

これまでも何回か、鴻上尚史氏の人生相がツイートで流れて来てこういった画面が目に入ってきてどういう答えをされたのかとクリックするのですが、鴻上氏の考え方はどうも私とそりが合わないようでブログで反論を書いたりしました。

それからもこの記事は流れてきて読むと疑問は湧くものの一々反論するのもどうかととどまっていたのですが今回のこの相談はどうにも反感が強すぎて書いてみようかと思います。

 

とはいえ人間の持つ「美醜へのこだわり」という問題に関して特別な意識や判断を持っているわけではないのですが、考えながら書いてみましょうか。

 

25歳の女性が自分の容姿にひどい劣等感を抱いている。そして世の中の男性は女性の容姿で評価を決めていると感じている。そのため男性に極端な苦手意識があるのだが同時に恋愛をしたいという気持ちも強い。

 

これに対する鴻上氏の答えを順々と読んでいったのですが、まず「相談者は驚くかもしれませんが世の中には見る性と見られる性があって男たちは自分が見る性だと信じ切っています」という部分、この相談者は明らかに最初から男性が見る性だと言ってると思います。なぜなら相談文に「男だって不細工のくせに」という文がないからです。相談者はあまりにも自分の属する女性性が見られる性であると信じすぎています。

 

次にオーディションの際に気持ちをほぐすために子供たちに「どんな男の子(女の子)が好き?」と毎回聞きました、というのが鴻上氏自身が異性の目というのを過剰に意識しているのを感じます。

相談者の悩みのの前に何故回答者・鴻上氏がこの相談をチョイスしたか、それは鴻上氏自身が「美醜と異性への意識」というものを強く気にしているからだと私は思います。

自分が気になる悩みでなければ回答する気持ちも出てこないからでしょう。

 

そして毎回する質問が「どんな子が好きか?」と聞くというのもかなりの偏重に思えますね。好きな読書やスポーツや食べ物などではなく性的な好みの質問をしているわけです。

しかし実際かなり偏執的な好みであったらよけいにありきたりの答えをしてしまうのではないでしょうか。まさか子供が「むれむれの熟女が好き」とか言えないはずですし、「委員長タイプにしばかれたい」とも言いにくいでしょう。男性こそ変態的な趣味があるだけに平凡な答えをする、という推理はないのでしょうか。

男がみな「可愛い子」と答えた、というのを鴻上氏はむしろ安堵しているようにも感じます。疑問を持たずにそれらの答えで満足しているからです。答えた男たちが正直に答えたと信じ切っています。

これを読むと鴻上氏は実はかなり女性に対して美醜を気にしているタイプのように思えます。なぜなら「可愛い子」という答えは外見を示している場合と性格を示している場合があるからです。

「可愛い」という言葉をそのまま「容姿」だと思い込んでいる鴻上氏はそのまま「可愛い容姿」がすべてだと思っているのだと考えられます。

私は「可愛い」はむしろ表情や性格や行動が含まれたすべてだと思います。

これでいうと男性たちは個人差はあれど様々な要因で「可愛い子」であることを求めてと考えられます。

 

次に少し飛んで(あまりこざこざしますから省略します)鴻上氏が自分を「ぶさいく村」で生まれたというところです。

語るに落ちた、というべきなのか。ここで鴻上氏はやはり人間が「ぶさいく村」出身なのか「美形町」生まれなのか、という意識で生きていることを証明してしまいました。

などというと「いや彼は演出家なのだからそういう言葉の面白さを大事にしている」とか言われそうですが、自分の容姿が「ぶさいく村」生まれ、だと言っているのがもうなんとも言えない気持ちです。

「ぶさいく」という言葉の意識はどう考えられるのでしょうか。

逆の「容姿端麗」という意味は?

人間として完全な肉体と整った形。それが少しずつ欠損しているほど「ぶさいく」ということになります。

つまり「ぶさいく」というのは「障害」ということになるのですね。

では程度がよりひどくなった「障害者」と言われる人は「ぶさいく」の典型ということになります。

ここで鴻上氏に「ではあなたはより体が欠損した人=障害者をぶさいく村生まれというわけですね」と問えばもしかしたら「いやいや、障害者の方は含まれませんよ」と言うのでしょうか?ではその欠損の線引きは?

目が小さいのはぶさいくですが、目が見えないのは立派なこと。

足が短いのはぶさいくですが、足が無いのは立派なこと。

肌が黒いのはぶさいくですが、人種による黒さは美

と判断するのでしょうか。

 

ぶさいく村に住む権利を取るのはなかなか難しいようです。

 

以前完全な美はアンドロイドである、ということを石黒浩博士が言われていました。

人間に完全な美はないのです。

 生物は子孫を残すための本能的により優れた遺伝子を求めてしまうのですから生物である人間がより優れている、と刷り込まれた本能のせいで異性の評価をしていくのは仕方ないことであり、しかし人間であることはその本能を自分でどう意識しコントロールしていくか、にあると私は思っています。

性能の優劣、健康の優劣を表面で判断できるのが美醜ということになるのです。健康であれば皮膚や目や髪がきらきらと輝き、性能が良ければ手足が長く胸が大きくくびれがあるのも運動能力がありまだ妊娠していないことを示しています。

年を取るほど生殖の力は劣るため若いほど美しい、と思われるのも動物的判断であるわけです。事実だろう、と言い張る方は動物そのもの。

そういった外見の美醜こそが内面の優劣を示しているのですから生物である人間がそこにこだわるのは至極全うなことなわけですが、それだけでは人間はけだものと同然。

それだけではない評価ができることが一段上のクラスに行ける、いわば「超人間」になれる、という事なのだと思います。

思いますが「超人間」になることより平凡な人間のままであるのが人間、ということなのですね。

 

そして「私は欠点ばかりだから遺伝子を残す対象として選ばれない」と恐れおののくのが人間なわけです。動物はそれこそ淘汰されてしまうわけでしょうが、「しょせん弱肉強食の世界なのよ」というのはもうそれって人間の世界ではないのですよね。

いつまでも能力を意味する美醜ばかり見ている動物世界で生きるのですか?

人間としての誇りは、考える葦であるはずの意識は芽生えないのでしょうか。

 

性能を表す美醜にこだわるのは動物的本能だから仕方ない、というのならどうぞ動物世界で生きてください。

それだけではない「粋」の世界を目指すのが人間としての矜持であると信じています。

 

さて鴻上氏の回答に戻りますが次の異性の好みを「カレーやハンバーグ・ラーメン」に例えている部分はあまりにもお粗末なので省きます。

サマセット・モームの言葉を引き合いに出して美人をけなしていますがますます氏の「美人に対する劣等感」が顕著になってきています。美人の愚かさと、中身のなさ、とまで言い出しているのがもう気の毒に思えます。

いったいその「美人」は誰なのですか?

美人にその言葉を言ってみてください。

美人が愚か・・・偏見ありすぎです。

 

 そしてついに

「ですから、素材として「可愛い人」だけじゃなくて、「雰囲気可愛い人」もいるのです。」

「雰囲気で可愛くなる理由はさまざまです。とても聡明だから可愛く感じるとか、優しいからとか、元気だからとか、優しいからとか、とにかく、ポジティブななにかの理由によって、雰囲気で可愛くなるのです。そして、それが女性にとって一番大切だと思っている男性はその人と恋に落ちるのです。」

 

そんな頑張って恋に落ちたくないわ、とつぶやく私がいます。

 

「愚かな男達に、これからも、容姿に関しての言葉を浴びせられるかもしれません。でも、それは男達のすべてではないのです。それが男性全体だと思って、男性全員を不信に思ったり、嫌ったりしてはもったいないのです。

 はちなさんの周りにも、ひとつ成長した男達が確実にいるはずです。いないようなら、交遊関係を広げて探して下さい。

 そして、はちなさんの魅力に惹かれる男も間違いなくいると断言します。」

 

もう少し言うなら日本の男性の中に探すのは難しすぎるので外国へ行った方が良いかもです。

 

日本の男性はあまりにも幼稚です。

 

そして最後に鴻上氏は止めを刺します。

 

 最後に僕の大好きな谷川俊太郎さんの詩を紹介します。『彼女を代弁すると』という詩です。

 彼女を代弁すると

 「花屋の前を通ると吐き気がする
 どの花も色とりどりにエゴイスト
 青空なんて分厚い雲にかくれてほしい
 星なんてみんな落ちてくればいい
 みんななんで平気で生きてるんですか
 ちゃらちゃら光るもので自分をかざって
 ひっきりなしにメールチェックして
 私 人間やめたい
 石ころになって誰かにぶん投げてもらいたい
 でなきゃ泥水になって海に溶けたい」

 無表情に梅割りをすすっている彼女の
 Tシャツの下の二つのふくらみは
 コトバをもっていないからココロを裏切って
 堂々といのちを主張している

 

 谷川俊太郎は好きですが、美醜で落ち込んでいる女性にこの詩を送るのは残酷です。

その意味が鴻上氏にはわかっていない。

女性の苦しみがどこにあるのか、まったく気づいていないのですね。鴻上氏は言うのです。

 

自分は60歳だから25歳のあなたはそれだけで羨ましい

 

女性にとってその言葉ほど惨いものはないのに。

せめてそのことくらい気づいて欲しかった、と思います。