ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「ジャンヌ・ダルクの生涯」藤本ひとみーその2-

2019-06-08 21:15:48 | 

朝の続きです。

 

さて「エクスタシー」です。

 

本著第四章に「エクスタシィを感じるか」という項があります。ここで「神の声はどのように語るのか」という質問に対しジャンヌは自分を助けてくれるという声が聞こえてくること、これを聞くと非常な喜びを感じ恍惚の状態に入る、と答えている、と書かれています。

この時ジャンヌが顔を赤らめていたことからある研究家は彼女が神に祈りながら性的な陶酔を感じる少女であった、と読み取っているというのです。

藤本氏はこの説に疑問を感じています。

「恍惚という言葉をキリスト教的に説明すると脱魂という状態になる」それを捉えた有名な彫像が『聖女テレジアの法悦』とあります。どんなものでしょうか。

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確かに官能的な美しさでありますね。

さらに藤本氏は「脱魂」という極めてキリスト教的な言葉が官能とは何の関係もないように思えた、と書きながらも「脱魂」の原語を調べなんとそれが「エクスタシィ」だったのだ、と目から鱗だったとしています。

しかしそれでも「ではジャンヌは神と一体化したと信じエクスタシィを感じる少女だったのだろうか」となおもいぶかり、ジャンヌの回答が書かれている資料に書かれた言葉を探しあてたらそれは和訳の「恍惚」が当たる言葉は「exultait」であったことをつきとめこれは「大喜びする、有頂天になる」という意味であって性的なニュアンスは含まれていない、と確認したのでした。

入念な探求のすえ、顔を赤らめたというだけでジャンヌの告白を性的なものと考えるのはあまりにも勘繰りすぎだと藤本氏は結論付けます。

 

藤本氏の探求を否定するつもりはありませんし、私自身キリスト教徒ではないので憶測でしかありませんがキリスト教世界において神とのつながりをそれこそ恍惚と感じさせる描写は様々なところで見られるように思います。

まずはエクスタシーという言葉の意味を調べました。

 

エクスタシー【ecstasy】
〔原義は、霊魂が自分の身体の外に出る意〕
① 気持ちがよくてわれを忘れてしまう状態。恍惚こうこつ。忘我。法悦。 「 -に達する」
② 〘哲・宗〙 神と合一した神秘的境地。脱魂。法悦。フィロン・プロティノス・エックハルトなどの神秘主義思想で重要な概念。エクスタシス。シャーマニズムの脱魂。
③ 性交時における恍惚状態。

 

 多くは①と③をイメージしそうですが②にはちゃんと「神と合一した神秘的境地」「神秘主義思想で重要な概念」とあります。

 

別の辞書では

〘名〙 (ecstasy) 感情・官能が高まってわれを忘れ、うっとりとした状態になること。忘我の境。有頂天。恍惚(こうこつ)。

と「有頂天」も出てきます。

 

そしてここで私は映画「炎のランナー」で牧師さんが「走るとき私は神の栄光を感じるのだ」と言ってオリンピックに出場するのですがこの時の走る表情がまさしく「恍惚」とした「エクスタシー」になっていることがとてもエロチックだと感動しながらも不思議であったのですがジャンヌの逸話でなんとなく理解できたように思えます。

あの牧師さんと同じようにジャンヌもやはり神の声を聞く時にエクスタシーを感じた、とするのは間違いではないのかもしれません。その部分は敬虔なキリスト教徒になってみないと理屈だけではわからないように思えます。神の御声に官能を覚えることが性的に勘繰りすぎ、なのではないのかもしれません。

むしろそこにこそ特別な喜びがあるのかもしれないのです。


「ジャンヌ・ダルクの生涯」藤本ひとみ

2019-06-08 07:19:03 | 

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昨日書きました「ジャンヌ・ダルクの生涯」現在#KuTooに寄せすぎて本著でのレビューにほとんどなっていなかったので今回は内容からもう少し突っ込みます。

藤本氏のジャンヌ探求は実際に存在したジャンヌを考えていく、ということでとても興味深いものでした。

ここで参考にamazonレビューと読書メーターというのを見たのですがこの二つでかなり本著への印象が違うのが面白かったです。

amazonは男性レビューが多いのか、藤本氏の「女性の目から見たジェンダー論」に対して反感を持つ人が多いのですが(そうではない方もいます)読書メーターでは女性の書き込みが多いようで本著にかなり高い共感が得られています。

男女だから必ずどうこう、と言うだけではありませんがしかしやはり男女の感想が違ってくるのは当然かもしれません。

歴史書(だけではありませんが)と言うのはこれまでほとんど男性が作ってきたわけです。どうしても男性から見た人物批評からできあがってきます。

特にジャンヌ・ダルクのような呼び名に「ラ・ピュセル=処女」とつくような美少女が若くして処刑された、という場合はより強い印象が良い方へも悪い方へも動かされてしまいます。

 

例えば同じく「ジャンヌ・ダルク」を題材にしたマンガで安彦良和「ジャンヌ」(原著・大谷暢順)でのジャンヌは彼女を主人公にしないことでより彼女をシンボリックに表現していきます。ジャンヌ以後の少女(エーミール)を主人公にしてジャンヌに憧れを抱かせる、という描写でジャンヌはここで特別な存在となります。「女性とは?」というジェンダー論はあまり描かれず「考えすぎるな。ただ一途に神を信じて平和のために戦え」という思いが少女を動かします。

 

一方山岸凉子描く「レベレーション」ではジャンヌの生い立ちから細やかに描いていきます。ここではジャンヌは農家生まれの一少女でありその彼女が何故神の声を聞いたのかが示唆されます。

山岸ジャンヌは明らかに「女性とはなにか?」という疑問から神の声を聞き行動をおこしていくという展開になっています。女性にとってはジェンダーを抜きにしてジャンヌは語れないのです。

ジャンヌが神の声を聞いた最初の場面が、父親から「結婚しない女なんか俺は家におかない」という言葉を聞き「女は結婚しか道がないのかしら」と疑問を抱いた直後に神を見、声を聞くのです。この時ジャンヌは子羊を抱っこしていることは彼女が「迷える子羊」であると暗示しています。

 

ジャンヌ・ダルクに興味を持つ男性の多くは彼女に他の女性とは違う聖性を感じ、女性たちは自分と同じ悩み持つ女性として感じてしまう。それは当然のことなのでしょう。

 

そしてジャンヌの抱く悩みは今の女性と何ら変わりなく思えてしまうのです。

 

藤本氏は本著でシャルル七世が聖別式を終えた後ジャンヌの功績に彼女を貴族に任命したことを「断るべきだった」としています。

「貴族になればもうジャンヌは神だけに仕えるのではなく国王の下の身分制度に組み込まれてしまう。ジャンヌは高位聖職者としての地位と待遇をもとめるべきであった」

なるほど素晴らしい考え、と思いますがまだまだ続く戦いがあるのに若きジャンヌがこの時点で賢く聖職者につくとは考えられない気がします。

山岸「レベレーション」ではこの場面はジャンヌは何の迷いもなく王からの賜りものを受け「正直今パンをこねる自分は考えられない」と描いています。

学問をしてきたわけではないジャンヌが聖職者につく、という選択は考え付かなかったのでは、と思います。藤本氏は「ここに私がいたらジャンヌを救えたのに」とまで嘆いていますが彼女が藤本氏の助言を受けたかどうか、受けたとは思えないのですよね。

これはやはり文筆家のような頭脳労働者の思考と思えます。とはいえ私もジャンヌを救う道はなかったのか、とは思います。

 

もう一つ、本著第四章「エクスタシィを感じるか」の項に興味を持ちました。いきなりエクスタシィが出て来てなんだろうかと思われたでしょうか。

これはジャンヌが神の声を聞く時に「恍惚の状態」にはいることを説明した、ということなのですね。

これをある研究家がこれを性的なニュアンスを読み取っている、というので藤本氏はまたもやここでジェンダー論を持ち出し「ジャンヌが顔を赤らめて告白したからといってすぐに性的なものと考えるのは勘繰りすぎだ」ということで説明を終えています。

しかし私としては「エクスタシー」=「恍惚」=「脱魂」という言葉を目にしてもう少し考えてみたいと思いました。

 

時間が来ました。

 

 

to be continued