ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

現代女性の苦痛と「ジャンヌ・ダルクの生涯」藤本ひとみ

2019-06-07 20:57:20 | 

この本を読んでいる時ちょうど世間では#KuToo問題が騒がれていました。ジャンヌ・ダルクと現在のハイヒール問題、なんの関係もないようですが実は女性にとって服装とは自由と権利を象徴するものであり、時代に反する装いは異端視される、ということからこの二つは苦悩を同じくするものであったのです。

 

1400年代初めに生きたジャンヌの苦しみと2000年初めの女性の問題、600年の時を経て女性の苦悩があまり変わっていないように思えるとはいったいどういうことなのか、よく考えてみなければなりません。

 

1431年フランスで、19歳の少女ジャンヌ・ダルクは魔女であるとされ火あぶりの刑に処せられました。いったいどういう理由でそんなに若い彼女が火あぶりという怖ろしい処刑をうけたのでしょうか。

一介の女性しかも無学な少女の身ながらジャンヌは神の声を聞き、いまだ不安定な立場の国王シャルルの元へ走りました。神のお告げにより馳せ参じたジャンヌの言葉は王の心を確固たるものにする力を持っていました。

そして彼女が神の声を聞いたことの証しとしてイギリス軍に包囲されたオルレアンを解放する戦いの先頭に立ち勝利を収めてしまいます。

この時ジャンヌはまだ17歳です。彼女は男と共に戦うために女性として長い髪が当然の時代に髪を短く切り男の服を着ました。女性は成長すれば嫁ぎ子供を生むことだけを求められる時代に、ジャンヌは男以上の業績を上げて名声を高めていったのです。

しかしすぐにジャンヌは男たちにとって邪魔な存在となっていきます。彼女を疎ましく思う男たちはジャンヌを傲慢になったとして咎めだしたのです。

神の声だけを頼りに女の身一つで戦い続けてきたジャンヌはほどなく投獄され味方の助けで逃亡を図るも失敗に終わってしまいました。

ジャンヌは教会裁判にて大勢の神学者(もちろん男性ばかりだと思われますね)から幾度も審問を受けなければなりませんでした。

ジャンヌが戦いのために髪を切り身に着けた男装は異端の印とみなされたのです。教会から男装をやめるように言われたジャンヌはいったんは女装します。

しかし牢獄での男たちからの性的暴行から逃れるために再び男装を続けたことでジャンヌが魔女であることの証明とされ、火あぶりの刑になったのでした。

後にジャンヌの名誉は回復され聖人としてあがめられています。

 

現代に戻りましょう。

 

2019年日本で働く女性たちは強制されるハイヒールは苦痛で足を変形させ後遺症にも苦しむ為、靴の自由を認めて欲しいと訴えましたが政府から言い渡された言葉は直ちに社会に対して女性の足を自由にしてくれるものではありませんでした。

 

ハイヒールだけではなく学生時代の制服のスカートの強制=なぜズボンをはいてはいけないのか。化粧やムダ毛うんぬんは置いとくとしても肉体的苦痛を強いられるものに関してだけでも改善してほしいという問題がいまだに解決しないのです。

 

現代のジャンヌたちも火あぶりになるまで抵抗し続けねばならないのかもしれません。

後に聖人としてあがめられることを信じて。

 などという世迷言を言って誤魔化して済ませてはいけません。

それぞれに応じた好きな靴を履く権利を求めるのは大切なことです。

自分の体を心地よくしてくれ守ってくれる衣服や靴を選ぶ権利を誰もが持っています。

火あぶりにする権利は誰も持ちません。


「ペインレス」フアン・カルロス・メディナーこれよりも日本社会の無痛覚さのほうが怖ろしい、と考えてしまう情けなさー

2019-06-07 04:55:50 | 映画

 

相変わらず日本のポスターはてんこ盛りレイアウトじゃなければ気が済まない、というデザインになっています。

どうして上ふたつのようなシンプルなデザインにするのが嫌いなのか、幕の内弁当スタイルが大好きなのか、まずここでいつも日本人のセンスに落ち込みます。

というか、観客が馬鹿だしセンスが悪いからこういうポスターじゃないと理解できないのだ、という意識が見えてしまうのですよね。

あ~あ。

 

以下、ネタバレになりますのでご注意を。

 

 

 

 さて内容ですが、観たのですから大体そうではあるでしょうが私はこういう感じの映画、戦争がらみの怖ろしい陰謀、いたいけな子供たちが巻き込まれるが傲慢な大人たちがしっぺ返しを食らう。しかし運命は残酷だ、というジャンルの作品がとても好きです。内容は様々ですが結構見て来たのではないでしょうか。

それだけに新しくこのジャンルの映画を観て感激するのは難しくもなっていきます。

現在若くてこういうジャンルの映画を初めて観るのであればなかなか面白く観れたのではないか、とは思いますが映像技術の更新を別にすれば新たな衝撃はなかったように思います。

 

しかし「痛みを感じない」というアイディアが古今東西あちこちで見受けられるのはこの「拷問」という人間にとってどうしても抗うことができない恐怖への希望だからでしょうか。

その無敵ともいえる才能が「無痛覚であるがゆえに最高の拷問者になれる」という展開だけなのはちと物足りない気もします。

単に「他人を拷問しても良心の呵責がまったくない、むしろ快感」という人間でも良さそうです。

どちらかというとめちゃくちゃに傷を受けながらも任務を遂行できる、という方向性なのではないでしょうか。

しかし今となればそのどちらもアンドロイドにおいてそれが簡単にできそうなので「そんなことが?!」という驚きは薄くなりそうです。

 

むしろ、他人の苦痛をまったく自分に置き換えて考えることのできない状態である今現在の日本社会に衝撃と恐怖を感じ続けている私です。

 

痴漢に怯え憤る女性たちを見て「冤罪かもよ」「反撃するのはやりすぎ」という男性たちの「無痛覚さ」のほうがより怖いのです。

「助けて」と叫ぶ女性に対し「うるせーな」「電車が遅れる」「安全ピンで刺すな」「自分で身を守れ」と言い返す日本の男性たちの「無痛覚さ」のほうがこの映画の何倍も恐ろしく映画が生ぬるく感じてしまうのです。

そしてそれら日本男性たちは女性に「痴漢ぐらい我慢しろ」「むしろ喜んでいるのじゃないか」と「無痛覚」であることを強制し続けています。

しかもこの事態が映画のようなエンディングを迎えることができるのかどうか。

 

痛みは体が出す生存本能の信号であるのでしょう。これ以上傷を負えば危険である、と。傷を受けてしまう行為を止めさせ、傷を癒しましょう、と体が求めるサインである痛覚。

これが麻痺してしまい傷を受け続ければいったい体はどうなってしまうのか。破壊され、元に戻らないのではないでしょうか。

社会というからだは男性と女性が組み合わさってできています。

その女性というからだの一部が痛みを感じて泣き叫んでいるのに男性という一部はその痛みを感じないでいる、その痛み、嘘じゃないのか、と言い続けている。

きっとこのままでいくと日本社会というからだは無痛覚であり続け、からだは破壊されもしくは腐りきってしまうのではないでしょうか。

 

 今の日本女性は一番上のポスターのように口を封じられ手を出させないように拘禁されています。その苦しみを目で訴えていても男性は理解しようとはしない。

たぶんからだが壊れてどうしようもなくなった時、初めて気づき「こんなになるまでなぜ声を出さなかったんだ?」とでもいうのでしょうか。

口をふさがれていては何も言えません。

 

無痛覚にならないでください。

女性はあなたたちの一部であるのです。

その痛みを理解せずにどうして社会のいうからだが成り立つのでしょうか。

痴漢という話題がでるたびにまず「冤罪かも」という男性たち。

痛みを無視して生きているのはあなたたちです。

おなじからだの一部である女性の痛みを無視すれば社会は腐りきり破壊されてしまうでしょう。

そうなってから慌てても遅いのです。