ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

古き良きこと、悪しきこと(私のポウルがポールに)

2018-08-22 06:34:43 | 思うこと
今回はフラン・ハーバート「デューン砂の惑星」の話をするつもりだったのですが、いつものようにそのためのアマゾン検索をしてみたらなんとすっかり事態は様変わりしていたのですね。
その衝撃で今回はモノゴトが移り変わることへの気持ちを少々綴ってみます。


新版の「デューン砂の惑星」酒井昭伸訳

なにしろ私は表紙が石森正太郎氏の「デューン」を今まで繰り返し読み続けて来た者であります。無論翻訳は矢野徹氏です。それでも昭和五十一年六刷なのですけどね。

(画像は拾い物で、私の持ち物はすっかり表紙がなくなっています。申し訳ない)

そういう状態なわけですからまだ新しい「デューン」は手に取ったことすらありません。なので内容は知るべくもないのですが、新版のレビューを見ているとやはりオールドファンの愚痴が散見されます。
とりわけ固有名詞の変更には戸惑われているようです。
とはいえ、矢野徹氏の訳が苦手で新版のほうが良い!という意見も幾つかありますので新版訳の方も一安心ということでありますね。

が。
私は圧倒的に矢野徹訳の「デューン」にぞっこん惚れ込んできた者なのでこの事態に心の揺らぎを感じます。これもまた一つの文学の歴史の必然ゆえ、「許しがたい」などと言うべきことではないのです。が、しかし、大好きな文章を繰り返し繰り返し読み、脳内に響くその文字の音を楽しんできたものには固有名詞の変更は辛いものがあるのですよ。
紹介文やレビューによると主人公ポウル・アトレイデがポール・アトレイデスになっていると・・・。私の中のポウルはポウルであってポールではありません。たったそれだけでも全く違うのです。一般的にポールと表記されるであろう名前が矢野徹「デューン」でポウルと書かれることで特別な響きとなっていたことは(私の中では)否めないのです。
「クイサッツ・ハデラッハ、サルサ・セカンダス、サルダウカー、ヴォイス」などの表記が変わっていたら私の脳が冷静に反応できるのかどうか、たちどころに本を投げつけてしまわないか・・・自信は持てません。

こういう戸惑い(憤怒などと過激に言うのは止めましょうか)は長く生きていれば幾度となく訪れます。エミリ・ブロンテ「嵐が丘」の本がいい加減ヘタってきたので新しい本を買った時(ネット購入でもあったので)文章を確認することをった時忘れていました。
ヒースクリフが自分のことを「おれ」ではなく「ぼく」と言っているのを目にしてそっと本を閉じました。
ヒースクリフが自分のことを「ぼく」と称する「嵐が丘」を私は決して読まないでしょう。
私が愛する「嵐が丘」は旺文社文庫で中村佐喜子訳です。エドガァ、キャシィと表記されるこの「嵐が丘」こそが私の魂の中の「嵐が丘」なのです。
老年の世迷言ではありますが、その権利を主張いたします。

若い頃好きだった歌が時を経て若い歌手に歌われる時の違和感、夢中になってみたアニメや映画がリメイクされた時のやり場のないムカつき感。いずれも仕方のないことでありますし、良いものが再び認められるならその時代に合った形になることもまた必然ということでしょう。

私のポウルがポールに・・・・。

そのショックからこの文章を書きしたためた次第です。