一箪の食、一瓢の飲

歴史(とくに世界史)に関する雑談がメイン・・・のはずですが、最近は読書感想文になっています

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zhangtan文庫更新情報:杉山伸也『グローバル経済史入門』

2015年03月28日 | 
「歴史の見方」は多種多様で、個人史、地方史、各国史、地域史、世界史などがあれば、政治史、経済史、社会史などテーマ史もあります。また一方でナショナル・ヒストリーで多く見られるような自分たちの正統性を説明するために語られることもあり、またそういったものを排除しようとして世界各地のつながりを重視したグローバル・ヒストリー※もあります。いずれにしても、歴史をどう見るかは人によって様々で、だからこそ面白いのであり、著作を読むごとに新しい発見があります。きっと、論述問題を課す入試の採点者は、受験生達の解答を時には面白く、ときにははっとさせられるような、そんな気持ちで採点しているような気がします。
本書は経済をグローバルな視点で、世界とのつながりを重視しながら語られています。印象としては広く浅く(しかし一般の世界経済史よりもグンと広く)書かれており、特別に目新しい説はなかったとしても、グローバルに世界経済史を語る上で大切なつながりが縦横に書かれています。それを忘れないよう、以下に抜き出させてもらいます。

GDPでみるかぎり、19世紀まで世界経済の中心はアジアであって、ヨーロッパでなかったことはたしかである。アジアがヨーロッパ世界経済の周辺であったのではなく、ヨーロッパがアジア経済の周辺にあったのである。したがって、これまでヨーロッパを中心に描かれてきた世界史はヨーロッパという一地域の歴史にすぎず、とりわけ19世紀までの世界史はアジアを中心に書き直される必要がある。こすいてはじめて、「産業革命」がイギリスでおこり、工業化が欧米諸国でひろくみられる現象になったのか、その世界史的な意義やヨーロッパ諸国による植民地主義の意味を問うことが可能になる。(9頁)

アジア域内貿易は、オランダ東インド会社の活動にとって非常に重要な意味を持っていた。オランダ本国の経済力には限界があったので、アジア貿易の資金を本国からの供給にあおごぐことはむずかしく、オランダ東インド会社はヨーロッパ向けのアジア産品の買付資金として金銀、とくに銀を調達しなければならなかった。グラマンの研究によると、1952/53年度にオランダ東インド会社は金の供給総額31万1700フローリン(ギルダー)のすべてと、銀の供給総額55万3700フローリンのうち71%に相当する39万4600フローリンをアジア域内で調達し、のこりの15万9100フローリンの銀を本国からの供給にあおいだ。日本は、石見大森銀山にみられるように、16世紀以降世界有数の銀産出国で、17世紀前半期には世界の銀生産量の約3分の1を産出しており、オランダ東インド会社がアジアで調達した銀のうち、日本銀阿h13万4900フローリン(34%)をしめた。(31~32頁)

マーク・エルヴィンは、中国ではすでに宋代(960~1279)に産業技術のめざましい発達がみられ、人口増加に十分対応できるたかい技術水準に到達していたので、近代的産業技術の導入が必要なかったと主張し、これを「高水準均衡の罠」(high-level equilibrium trap)とよんでいる。(46頁)

(清朝期)ゾウやトラなどの野生動物は農業開発にともなってすでに中国南西部に追いやられていたが、新作物の導入にともなう山地の開発で森林は伐採され、土壌の流失など環境破壊の結果、18世紀末には洪水の頻発など自然災害が多発した。(52頁)

(インドでイギリス東インド会社は)北西部・中央部の諸州やパンジャーブ地方では、(ザミンダーリー制やライヤットワーリー制ではなく)日本の徳川時代に類似した村請制を基本とする「マハールワーリー制」や「マウザワーリー制」がとられた。(76頁)

産業革命はヨーロッパのアジアへのキャッチアップとしておきたもので、それにつづくヨーロッパの経済成長はアジア優位の世界をヨーロッパ優位に逆転させ、市場経済メカニズムの自立化と農業社会から産業社会への移行を促進し、産業組織や人々の社会生活に画期的な変化をもたらした。同時に産業革命にともなって進展した植民地主義の強化は、モノカルチャー経済の形成を促進し、欧米の先進国と他の地域のいちじるしい経済格差をもたらすことになった。(89頁)

産業革命期の一連の技術革新のなかでとくに重要なのは、蒸気機関の発明と改良による動力エネルギーの転換であった。薪炭など有機燃料から化石燃料への転換と石炭エネルギーの動力としての広範な利用は、人間の経済活動をそれまでの水力や風力など自然エネルギーによる制約から解放して経済活動を活性化させ、新産業の創発や生活水準の上昇を実現しただけではなく、長期的には地球の生態系に大きな環境変化をおよぼす負の効果をもたらした。(89頁)

1733年にジョン・ケイの飛び杼の発明で緯糸を通す杼が自動化されると、織物生産は急増し、綿糸不足が生じたため綿糸価格が高騰した。綿糸供給量の増産を可能にしたのはハーグリーブスのジェニー紡績機とアークライトの水力紡績機で、このふたつの紡績機の長所をかけあわせて丈夫で細い綿糸を生産したのがクロンプトンのミュール紡績機であった(ミュールはロバと馬をかけあわせたラバのこと)。ミュール紡績機の開発によって綿糸生産は飛躍的に増加し、国産技術でインド綿布に対抗することができるようになった。こうして綿糸不足は解消されたのに対して織布工程の機械化は遅れ、85年のカートライトの力織機の発明とそれ以降の力織機の改良によって、ようやく紡績・織布両工程における機械化が達成された。1785年には最初の蒸気機関による紡績工場での生産がはじまり、工場制機械工業による大量生産が可能になった。こうしたイギリスでの綿糸・綿布生産の機械化は、アメリカでホイットニーによる繰綿機の発明をうながし、アメリカ南部における棉花生産の急増と原棉コストの大幅な低下によって、イギリス綿製品の低価格での大量生産が可能になった。(94頁)

イギリスは、1843年の機械輸出禁止法につづいて、46年に穀物法(1815年制定)、49年に航海法(1651年制定)を廃止し、重商主義的な規制や保護関税・差別関税はほぼ撤廃され、自由貿易体制が確立した。こうしてイギリスの自由貿易主義にもとづいて、アジア経済と大西洋経済が再編された。ヨーロッパにおける自由貿易体制は1860年の英仏通商条約(コブデン=シュバリエ条約)以降ヨーロッパに拡大し、約20年間にわたり関税障壁の撤廃を通してベルギー、フランス、ドイツなどヨーロッパ諸国の工業化を促進した。(101頁)

1834年にはドイツ関税同盟が成立していたが、ドイツの経済学者フリードリヒ・リストは『政治経済学の国民的体系』(1841年)で後進国の保護関税制度の正当性を強調した。ドイツは、ヨーロッパの自由貿易体制に参加したが、71年のドイツ帝国の成立とともにビスマルクが首相に就任すると、79年に「鉄と穀物の同盟」といわれる保護関税法を実施し、またフランスも92年のメリーヌ関税の施行で保護貿易主義に転換した。(114頁)

イギリスは、清朝が条約を遵守せず貿易が不十分なことが輸入停滞の原因になているとみなし、クリミア戦争(1853~56年)が終結して軍事力に余裕ができると、56年に元香港船籍アロー号が清朝官憲によって拿捕された事件を機に、宣教師が殺害されたフランスと協同出兵して広州を占領し、アロー号(第二次アヘン戦争)をひきおこした。(121頁)

外国商社にとって中国国内市場の情報はブラックボックスであったので、かれらは商業や流通のネットワークをもつコンプラドールとよばれる有力な中国商人を雇用した。コンプラドールは「買弁」と称され、従属的なマイナス・イメージがつよいが、かれらは中国国内の流通や商習慣などにかんする経済情報をもち、自己勘定で取引もおこなう信用力のある大規模な独立商人で、外国商社にとってどの商人と提携するかが中国におけるビジネスの成否をきめる重要なポイントであった。(123頁)

1870年代に欧米の主要国が金本位制に移行すると、世界的な銀産出量の増加にくわえて各中央銀行が金準備として金を購入し、同時に保有銀を市場に放出したため国際的な銀価低落がおきた。銀本位制のアジア地域にとって銀価下落は円・両(テール)・ルピーなどの通貨安を意味したので、理論的には欧米の金本位制国への輸出には有利に作用したと想定されるが、アジア地域間の競争もはげしく、その効果については疑問の余地がある。(146頁)

イギリスは1786年にペナンを占領したが、95年にフランス革命の影響をうけてオランダがフランスに併合され、親仏的なバタヴィア共和国(~1806)が成立すると、オラニエ公ウィレム5世はイギリスに亡命し、海外のオランダ植民地はイギリスの統治下に編入されることになった。東南アジアにおけるイギリス権益の拡張に熱心であったイギリス東インド会社書記のスタムフォード・ラッフルズは、インド総督ミントー郷を説得して、1819年にシンガポールをイギリスの保護下におき、シンガポールは自由港として、ヨーロッパ貿易とアジア域内貿易の中継地として急速に発展した。ナポレオン戦争の終了とともに、イギリスの占領地はオランダに返還され(ロンドン協定)、24年の英蘭協約で、マラッカ海峡を境界にしてアジアにおける両国の勢力範囲が確定された。スマトラはオランダの勢力範囲となり、イギリスは26年にペナン、マラッカ、シンガポールをあわせて海峡植民地とし、67年には直轄植民地にした。マレー半島における・・・マラヤの諸王国内の内紛もかさなって政治的混乱が生じた。イギリスは政治介入の方針に転換し、74年のパンコール協約で錫生産地であるペラ王国の行財政を実質的に掌握し、96年にはペラやセランゴールなど四王国を保護州(マラヤ連邦州)に、さらに1914年に残りの王国を統合してマラヤ非連邦州とし、海峡植民地とあわせて英領マラヤが成立した。(152~153頁)

日本の(世界恐慌からの)早期回復は、軍需関連産業の拡大と中国への軍事的進出とむすびついたもので、高橋蔵相の低為替放任政策によって円は100円当り25ドルにまで約50%急落し、円安によって綿織物や電球・マッチなどの雑貨のアジア市場向けの輸出が急増した。日本の低価格での輸出攻勢は「為替ダンピング」(「ソーシャル・ダンピング」という用語は国内のメディアが強調したが、海外ではほとんど使用されていない)として非難された。(194~195頁)

インドは、政府主導によるソ連型の重化学工業中心の工業化政策を採用した。インドの経済成長率は、植民地期の年1%から独立後の50~60年代半ばには3~4%に上昇し、80年代以降は5%以上の成長率を実現した。こうした経済成長をささえた基礎には、60年代に品種改良による高収量品種の導入や化学肥料の多投による穀物生産の増加、いわゆる「緑の革命」がインド全域に普及して農業成長と農民所得の上昇が生じ、それが農村市場の拡大をもたらした。(215~216頁)


一つだけ疑問点が
(洋務運動の展開で)長江中流域の武漢を本拠とする張之洞は、漢冶萍公司を設立し、漢陽製鉄所、大冶鉄山、萍郷炭坑からなる重工業中心の一大コンビナートを展開した。
→確かに大冶鉄山を開発したのは張之洞ですが、漢冶萍公司は洋務運動期ではなく1908年に日本からの借款により設立されたものです。建てたのは張之洞かもしれませんが(調べきれなくて断定できない)、張は翌年亡くなります。

※著者はグローバルヒストリーについて以下のように説明している。
現段階でグローバル・ヒストリーに明確な定義があるわけではないが、それとは対照的に、グローバル・ヒストリーでは、最初から世界の多様な国や地域が存在することを前提にして、歴史を地球的規模で鳥瞰的かつ総体的にみるところに大きな特徴がある。したがって、先進国だけでなく、植民地も途上国も受動的ではなく、能動的なアクターとして登場する。また、グローバル・ヒストリーでは、ユーラシア、南北アメリカ、アフリカ、オーストラリアなどの大陸部と、太平洋、大西洋、インド洋などの海域がともに対象になるので、地域的な空間軸がひろいだけではなく、同時に歴史的な時間軸のながいことも特徴である。したがって、テーマも、砂糖、コーヒー、茶、タバコ、銀、綿織物などの世界商品から、疫病や感染症、環境、帝国、特定地域の生活水準や実質賃金の研究など多岐にわたることになる。
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zhangtan文庫更新情報:祝田秀全『東大のディープな世界史2』

2015年03月24日 | 
『東大のディープな世界史』の第2弾となります。東大入試をはじめ、世界史の論述問題は今まで得た知識を総動員して、縦横に組み合わせて一つの芸術作品を作っていくようです。その完成度はもちろん解答者によって違いますし、教師の間でもまさに「芸術作品」と呼べるものから、単に単語をつなげただけの「駄作」まで幅広くあります。何となく数学の証明問題にも似た感がありますね。世界史論述問題の傑作とは、やはり教科書に出てくる基本的な内容をしっかり押さえ、そこから展開してる文章です。一方駄作はさっき言ったように単に単語をつなげただけものそうですが、一見唸らせる様に見えるものの教科書の隅をつついても出てこないような難しい単語をこれ見よがしに使用してごまかしているものもそうです。私自身、これを肝に銘じて生徒たちに説明していきたいと思います。

では、以下面白かったところや目から鱗が落ちたところを
「ヨーロッパはバター圏とオリーヴ圏に分かれます。境目はアルプス山脈で、ここから北がバター、南がオリーヴ油です。オリーブ油圏は、夏の乾燥が強い地中海に面します。森林は育たず、そのため建築は石造で、作物栽培はオリーヴやブドウ。牧畜は羊や山羊の放牧です。一方、バター圏はその正反対で、森林に囲まれ、建築は木造、作物は穀類。そして牧畜は牛や馬が適します。」(24頁)
「ローマ教皇庁は、モンゴルの改宗を企図して修道士を派遣した。モンゴルからはバール・サウマが教皇を訪問。これを機にモンテ・コルヴィノが大都司教に任命され、カトリック、東方教会、ネストリウス派が東西平和共存の架け橋となった。しかしネストリウス派のイル・ハン国でカザン・ハーンが統治権の安定を図ってイスラーム教を国教化したため、キリスト教連合による帝国再統一の目はなくなった。」(59頁)
※バール・サウマなんて出てきません。この言葉がこの解答の価値を下げているような気がします。
「オランダは、・・・英蘭戦争では今のニューヨークをイギリスに譲る代わりに、南米スリナムを得て、大西洋三角貿易の礎を築いた。この間、国際法学者のグロティウスが海洋自由論を唱えてオランダの世界進出に正当性を与え、また近代外交の起点となったウェストファリア体制の成立にも貢献した。」(77頁)
「ガンダーラ美術=バクトリア(前3世紀~前2世紀)伝来神話は、案外根強いものがありますが、そんな証跡はありません。今回の設問は、それを否定するものです。「ヘレニズムの影響を受けてガンダーラ美術が発達するのは『1世紀頃から』ですよ」というのはそういう意味です。(136頁)・・・ですから、ガンダーラ美術は、研究者のあいだで評されてきたように、「クシャーナ朝とローマとの海上交易によって生じた『ローマ式仏教美術』(B.Rowland,The Art anda Architecture of India.Baltimore,1967)といえるでしょう。(143頁)
「七年戦争の結果、フランスは北米大陸の植民地をすべて失います。一方、イギリスは、ケベック(現カナダ)、ミシシッピ以東の広大なルイジアナ、フロリダなどを獲得。・・・それから、イギリスが占領したハバナはスペインに返し、その代わりにスペインはイギリスにフロリダを譲る。しかしこの交換は、面積的に釣り合いがとれませんので、イギリスはスペインにミシシッピ以西のルイジアナも付けて、セットであげました。」(220~221頁)
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zhangtan文庫更新情報:木畑洋一『二〇世紀の歴史』

2015年03月23日 | 
リー・クワン・ユーが亡くなりましたね。シンガポールの発展を語る上で欠かせない人物であり、1970~80年代のアジアを中心とする開発独裁の代表的人物です。ご冥福をお祈りします。

まず著者は、この「20世紀」という時代のくくりを、単に1901年~2000年ではなく、マーク・トウェインや幸徳秋水が指摘していた状況(列強が帝国主義という熱に浮かされていた時代)が世界ではっきりしてきた時=世界が帝国的な支配構造で覆われるようになり始めた時=帝国主義の時代が始まった1870年代を起点とし、第二次世界大戦後のそれまで支配される位置に置かれていた人々がその位置を脱して自らの国家を作り上げていった時代の変化が一段落した1990年代を終期としています。そしてこの1870年代~1990年代を「長い20世紀」と定義し、この間の歴史を本書では取り扱っています。
ようするに、本書のキーワードは「帝国主義」であり、第1章「支配‐被支配関係の広がり」として世界が分割され植民地化されていった1870年代以降の帝国主義の時代、第2章「帝国世界動揺の開始」として帝国主義国家同士が正面からぶつかった第一次世界大戦と帝国主義世界が再編されたヴェルサイユ体制期、第3章「帝国世界再編をめぐる攻防」として世界恐慌から第2次世界大戦までをあつかい、そして第4章「帝国世界の解体」として第2次世界大戦後から冷戦の終結と被支配地域が自らの国家を作り上げていく動きが一段落する1990年代までを取り上げます。また、それぞれの章の最後には「定点観測」として、支配と被支配の狭間にあったアイルランド、南アフリカ、沖縄の当時の様子を描いています。
本書の帯にも書いていますが、「世界史は、帝国の興亡の歴史で彩られていうといっても過言ではない。しかし、そのような帝国がいつくつも並び立ち、互いに競合して世界を分割し、支配‐被支配の関係が世界中に広がるという事態は、暦の上で19世紀後半になって初めてあらわれた」とあるように、20世紀とはまさに帝国主義が台頭し、確立し、そして解体していった時代です。しかし、「帝国世界の終焉は、支配される位置に置かれていた人々の生活状況の全般的改善は意味しなかった。むしろ80年代のアフリカは「闇の時代」の「絶望の大陸」と呼ばれるような様相を呈していた。脱植民地化によって独立した世界の国々のなかからは、新興工業経済地域(NIEs)と呼ばれるダイナミックな経済成長を実現する国や地域も生まれてきたが、・・・このような国々とアフリカ諸国など経済の停滞と貧困に苦しむ国々との間での格差(「南南問題」)が露骨にあらわれてきた」(246頁)ように、帝国主義(の影響だけではないのだろうけれども)により貧困や紛争に苦しむ国や地域は今なお存していることは忘れてはいけないでしょう。
また、この20世紀を語る上でグローバリゼーションも忘れてはいけません。本書で著者は、このグローバリゼーションについて「ここで注意しておくべきことは、このグローバリゼーションが、国民国家の衰退や消滅を決して意味してはいない、という点である。現在の世界において、国民国家は後退、衰退していっており、国民国家を超える形でグローバリゼーションが進行している、といった議論がしばしばなされることがあるが、そのような主張(ポスト・モダンの世界論)には強い留保が必要である。・・・「長い20世紀」という観点から見れば、それを特徴づけた帝国世界が変容、解体した後、国民国家によって世界が覆われる状況の下でグローバリゼーションが進んでいるというのが、現在の世界の姿なのである。帝国世界が胚胎していたこの世界の構造が、帝国世界の解体によって前面に押し出されてきたということができるであろう。」(266~267頁)と述べています。
本書は「帝国主義」という軸を中心に書かれているため読みやすく、大変勉強になりましたが、反面「帝国主義」による罪科を前面に押し出そうと、事件や衝突の被害者の数に関する記述がやや偏りがあるような印象を持ちました。もちろん、一つ一つの事件や衝突について私が専門家並みに知識があるわけではありませんので、軽々しい言葉は書けませんが・・・。
では最後の備忘録や勉強になったところを書き写します。
(マーク・トゥエイン「19世紀の20世紀に対する挨拶の言葉」から)「私が君たちに引き合わせるのは、キリスト教諸国という威厳のある既婚婦人である。彼女は、膠州、満州、南アフリカ、そしてフィリピンでの海賊行為を終え、魂を卑劣さで、ポケットを不正の金で、口を信心ぶった偽善の言葉で満たし、汚れと穢れと恥辱にまみれて、戻ってきた。彼女に石けんとタオルを渡してやるがよい。しかし鏡は隠しておきなさい。」(2頁)
(第2インターナショナルの1904年夏にアムステルダムで開かれた大会で)日本の片山潜とロシアのプレハーノフが開会式の協同副議長となり、握手を交わした」(42頁)
(また上記の大会では)インドの民族運動家ダーダーバーイー・ナオロジーが出席して、イギリス支配下のインドの惨状を訴えた」(42頁)
(三国協商ができあがるにあたっての)「日露戦争の意味である。露仏同盟が存在したにもかかわらず、フランスがロシアを支援しなかったことは、日露戦争で日本に有利に働いたが、それは日露戦争開戦後にイギリスがフランスをいわば取りこんで仏露間にくさびを打ち込んだためであり、イギリスはさらに日露戦争が終わろうとする段階でロシアに接近し、ついには英露協商を結ぶに至ったのである。このことから、「日露戦争は世界史的に見れば、ヨーロッパにおける第一次世界大戦の構図を作る」意味を持った、と論じられることもある。」(47頁)
(第一次世界大戦の)「戦争遂行にあたってイギリスが強い関心を抱いていたのは、ヨーロッパ外の地域における勢力の確保・拡大であった。とりわけ、ドイツ領東アフリカについての関心は強く、すぐ後で述べるように東アフリカでは、ヨーロッパ戦線と同じく長期にわたる戦闘が続けられることになった。」(66頁)「アフリカで最も早く戦闘が行われたのは、・・・西アフリカのドイツ領トーゴランドにおいてであったが、この戦闘は、英仏側の勝利ですぐに終わった。しかしそれに次いで始まった同じく西アフリカのドイツ領カメルーンでの戦争では、攻撃にあたった英仏軍の規模が、アフリカ兵を含むドイツ軍をはるかに上回っていたものの、劣悪な気候のため熱帯病などで多くの犠牲者が出るという状況下で長引いた。」(68頁)
(ドイツ領東アフリカでの戦争について)「イギリスと同様隣接地に植民地をもつベルギーやポルトガルも加わる形で展開したが、・・・この地でドイツ軍が降伏したのは、1918年11月25日、すなわちヨーロッパで戦争が終わりを迎えてから14日後のことであった。」(70頁)※この結果、ルワンダがベルギー領、また一部がポルトガル領東アフリカ(モザンビーク)に編入される。残りはイギリス領に
「南太平洋に散在していたドイツ領諸島のうち、赤道より南では、8月29日、ニュージーランド軍がドイツ領サモアを、次いで9月半ばには、オーストラリア軍がドイツ領ニューギニアやビスマルク諸島を占領した。赤道以北では、日本軍が、マーシャル、マリアナ、カロリン、パラオというドイツ領諸島を10月14日までに占領した。この過程で、ドイツ側は抵抗らしい抵抗をほとんど行わなかった。」(73頁)
「パリ講和会議での敗戦国の植民地をめぐる議論のなかではアフリカや太平洋も問題となった。ウィルソンは委任統治を積極的に支持する姿勢を示し、イギリスもそれに妥協する態度をとったが、フランスや南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、日本は併合論であり、意見は収束しなかった。その打開策として提示されたのが、委任統治地域を、A式(早期の独立付与を視野に入れて住民の自治を促す)、B式(受任国とは別個の法制度の下で、宗教その他、住民の独自性を尊重する)、C式(受任国の構成領域の一部として扱う)の三つに区分するという案であった。」(100頁)
「イタリアはエチオピア戦争で大量の毒ガス爆弾を用いた。防御策を全くもたないエチオピアの軍隊や民衆に対して、イタリアはこの暴挙に出たのである。エチオピア制服に成功した直後、ムッソリーニは捕虜の射殺を命ずるとともに、反乱掃討という目的でまた毒ガスの使用を進めた。戦争が一段落した後も含めて、35年から39年にかけて投下された毒剤の量は500トンを下らないと考えられている。さらに、エチオピア人による反乱を抑えるために、反乱によるイタリア人犠牲者一人に対して10人のエチオピア人を処刑することを命じている。」(134頁)
「結局のところ、ファシズム陣営と反ファシズム陣営の対立は、帝国世界の修正のやり方をめぐる対立であり、その根本的変革をめぐる対立ではなかった。帝国世界の下で支配されていた地域では、その点をよく認識した人々も多かった。」(162頁)
「ポーランド史の専門家ノーマン・デイヴィスは、東欧各国の共産主義が、モスクワとは緊密に結びついていたものの、他の東欧の国からは厳しく隔離されていたことに注目しているが、その状況は帝国世界の下での支配と被支配の構図を想起させる。」(212頁)
「フランスの知識人の間で、フランス革命の原動力となった「第三身分」になぞらえる形で「第三世界」という表現が生み出され、冷戦下の東西両陣営に対置されるものとして、それまでの被支配地域から成る国家グループの位置が示された。この表現は、バンドン会議で示された時代精神に合致し、その後広く用いられるようになった。」(232頁)
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zhangtan文庫更新情報:『詳説世界史学習ノート下』

2015年03月22日 | 
前回紹介した山川出版社の『詳説世界史学習ノート』の下巻となります。利点も欠点も前回と同じなのですが、私はどうも東欧近現代史が苦手なようで、いろいろと間違えてしまいました。備忘録がわりに、戦間期、スターリン死後からフルシチョフのスターリン批判あたり、フルシチョフ解任後、新ベオグラード宣言やソ連崩壊前後と大体4期にわけて、記述させてもらいます。
戦間期
●ポーランド
・ポーランド=ソヴィエト戦争(1920)により領土拡大
・議会政治が混乱し、ピウスツキが独裁権掌握(1926)
●チェコスロヴァキア
・初代大統領マサリク、第2代ベネシュにより安定した民主政治が行われる
●ハンガリー
・ハンガリー革命でベラ・クンによりソヴィエト政権樹立
・ソヴィエト政権崩壊後、摂政ホルティ(しかし王位は不在)の権威主義体制

スターリンの死(1953)~フルシチョフのスターリン批判(1956)
●ポーランドのポズナニで反ソ暴動→ゴムウカのもとで自由化路線
●ハンガリーの反ソ暴動はソ連軍が鎮圧し、ナジ=イムレが処刑される。

フルシチョフ解任(1964)後
●ルーマニア・・・石油資源をもっており、独自色を強めていく
●アルバニア・・・中国を支持
●チェコスロヴァキア・・・「プラハの春」(1968)
 →ドプチェクにより自由化が推進されるも、ワルシャワ条約機構軍が介入

新ベオグラード宣言やソ連崩壊前後
●ポーランド・・・ワレサ率いる自主管理労組「連帯」による反体制運動(1980)
 →ワレサは1990年に大統領となる。
●チェコスロヴァキア・・・チェコとスロヴァキアに分かれ、初代チェコ大統領にハヴェルが就任
●ルーマニア・・・反体制運動が激化し、チャウシェスク夫妻が処刑される(1989)
●東ドイツ・・・ホネカー退陣後、ベルリンの壁崩壊(1989)、ドイツ統一(1990)

あと、間違いが2カ所ほどありましたので、それを指摘しておきます。
12頁(5 イギリス=オランダ )戦争(17世紀前半)
→イギリス=オランダ戦争は1651年の航海法以後なので、17世紀後半とした方がよい

133頁(1989年時点のEFTA加盟国にイギリスが色塗られている)
→イギリスは1973年にデンマークとともにEFTAを脱退してECに加盟しているから、これは間違い(デンマークはきちんと色が塗られていない)
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zhangtan文庫更新情報:『詳説世界史学習ノート上』

2015年03月21日 | 
本書は数ある山川出版社の世界史問題集でもオーソドックスな部類にはいるでしょう。しかし、解答欄に大きく書き込めるノートスペースを作っていることで自分自身で調べたことやまとめたこと、疑問点などを書き込めるため、単なる問題集以上の使い方ができる便利な一冊です。内容も意外と深いところまで触れているので、センター試験だけでなく私大や国公立の2次試験にも対応できます。ただ、流れもチャート式になっているため分かりやすくはされていますが、矢印が→方向だったり、←方向だったりで前後関係が分かりづらく見えるのは残念です。あと、多少間違いや疑問点があったので以下の通り記載させていただきます。私が買ったのは第1回第1版ですので、もう修正されているかもしれませんが・・・
※それにしても、今は古代エジプトの人々の語系は「ハム語族」ではなく「エジプト語系」なんですね・・・勉強不足だ

8頁(2)の答え
「エジプト語系民族による多数の(2 )(都市国家)の形成」
もちろん答えは(2 ノモス )なのですが、新課程版の山川出版社『詳説世界史』では「県」と訳されています。

114頁設問
「陳朝大越国で、漢字をもとに作成された文字」
もちろん答えは(チュノム(字喃))ですし、新課程の教科書にもそう書かれてありますが、研究者の間では陳朝以前からチュノムは作られていたということが議論されているようです。断定するのは厳しいかと思います。

120頁
アチェ王国(15世紀末~20世紀初)・・・ジャワ
マタラム王国(16世紀末~1755)・・・スマトラ
これは明らかに間違いですよね。アチェ王国がスマトラで、マタラム王国がジャワです。

128頁(9)について
(9 タウングー )朝(1531~1752)・・・中国人の反乱を機に滅亡
タウングー朝については、新課程版の教科書でも「中国人の反乱をきっかけに倒れた」と書いているのですが、去年刊行された『物語ビルマの歴史』(中公新書 2014年)では、直接タウングー朝を滅ぼしたのはモン人たちのようで、このモン人の軍隊を倒したアラウンパヤーが次のコンバウン朝(アラウンパヤー朝)を樹立します。
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zhangtan文庫更新情報:藤川隆男・後藤敦史編『アニメで読む世界史2』

2015年03月20日 | 
待望の『アニメで読む世界史』続刊がでました。今回取り上げられたアニメはディズニーやジブリから「ムーラン」「アラジン」「もののけ姫」「ノートルダムの鐘」「ポカホンタス」「南の虹のルーシー」「ジャングル・ブック」「ターザン」「愛の若草物語」「紅の豚」「平成狸合戦ぽんぽこ」の11種です。
今回は非常に範囲も広く、アジアやヨーロッパだけでなく、日本や、アフリカ、オセアニアまで広がっており、また時代も現代史までさまざまです。
内容を見てみると、ディズニーやジブリのアニメは視聴者に夢や希望を与えるという意識が高いためかなり原作の内容にフィルターをかけていますが、やはり原作は時代の制約というか、その時代の原作者だからこその視点と経験で描かれています。 だからこそ歴史が語れるのであり、その背景を知ることでアニメもまた違った見方が出来ます。例えば「紅の豚」は私も大好きなジブリアニメなんですが、これを“第一次世界大戦後の安定期から、ファシズムによって支配されたて第二次世界大戦へと突き進んでいく戦間期”という視点から見ると、ポルコがなぜ人間を辞めて豚になったのかだけでなく、最初のシーンの「戦争国債買いませんか?」「そんなことは人間同士でやりな」というセリフの意味の深さなど何気なく見落としていったシーンに新たな気づきが出てきます。世界史好きだけでなく、アニメ好きの人にも見てほしい一冊です。
以下備忘録
「絹馬貿易」について、「遊牧民達が絹をほしがったのは、絹が軽くて価値が高いものだったからです。遊牧民はその生活の不安定さから、家畜以外の貯蓄をしておくことが望まれます。しかし、移動生活の邪魔になるような安くて重たい物を貯めるわけにもいきません。そこで、少量でも価値の高い宝石や、遠い外国の珍品などが好まれました。ですから、軽くて宝石なみの価値があった絹製品は、貯蓄の条件にぴったり合う商品だったわけです。」(25頁)

「モンスーンという言葉は、ある季節や隊商(キャラヴァン)交易などの季節的イベントを意味するアラビア語の「マウスィム」に由来します。」(40頁)

「7世紀頃には、西から来るアラブ系・ペルシア系商人の活動と、隋唐帝国の成立によって東西の国際交易がさらに活発化します。それにともない、陸上での貨物の積替えが不要なマラッカ海峡ルートが選ばれるようになり、そこを支配したシュリーヴィジャヤのような強力な交易国家も出現します。」(42頁)

(モンゴル帝国期に中国で生まれた染付(青花)について)「染付は、イランからのコバルト顔料およびミニアチュール(写本絵画)技術と中国の白磁の融合によって生まれ、消費地の好みに応じた製品が中東を含む各地へ、おもに海上ルートで輸出されました。」(48頁)

「アニメ『アラジン』を見た人のなかには、なぜジーニーが辮髪姿なのかを不思議に思う人がいるでしょう。その背景にはこれまでみてきたように、中国を舞台とする原作『アラジン』を生み出した、中東と中国をつなぐ海のシルクロードが中心となった、人・モノ・文化・情報・技術の活発な移動・交流の歴史があったのです。」(52頁)

「ボンベイで生産された綿糸は、インド国内で消費されるだけでなく海外にも輸出されるようになりますが、おもな輸出先は中国でした。じつは、中国にはインドよりも先にイギリスの綿製品が輸出されていたのですが、インド産の綿糸はやがて、中国の市場からイギリス産の綿糸を駆逐していきました。なぜインド産の綿糸がイギリス製品を駆逐していったのでしょうか。理由のひとつとしては、イギリスでつくられる綿布は薄くて軽い高級品が多く、中国では上海などの大都市の一部の人びとにしか受け入れられなかったからだといわれています。農村で暮らす人びとが普段着るのは、厚くて丈夫な布でつくられた服であり、それにはインドでつくられた綿糸の方が適していたからということです。支配する側のイギリスと支配される側のインドが、海外の市場で競争を繰り広げるようになったのです。
じつはこのイギリスとインドの市場争いには、のちに日本も加わることになりました。日本ではインドより遅れて、19世紀終わり頃から近代的な綿工業が発展しますが、急激に政庁を遂げていきました。日本の綿糸は中国市場に進出し、今度はインド産の綿糸が日本産のそれに駆逐されることになりました。・・・また日本製品は、20世紀に入るとインド市場にも本格的に進出し始めます。インドはイギリス綿製品の重要な輸出市場であったので、イギリスとインド、日本の3者のあいだで貿易摩擦が発生し、外交問題に発展します。」(150~151頁)

(1854年成立のカンザス・ネブラスカ法について)「一見住民の意思を尊重した法にみえますが、この法の結果、新しいカンザス州では、南部を支持する住民と北部を支持する住民のあいだで激しい衝突(「流血のカンザス」)が生じることになりました。」(182頁)

「黒人奴隷ドレッド・スコットをめぐる裁判も、南北の対立の激化につながります。スコットは、「主人」の仕事の関係で、奴隷制度が禁止された北部に一時住むことになりました。奴隷州であるミズーリ州に戻った彼は、北部への居住経験を根拠に、1846年、自分は奴隷ではなく自由の身分であるという訴えを裁判所におこないます。1857年まで続いたこの裁判で、連邦最高裁判所は、スコットは自由身分ではない、という判決をくだしました。それとあわせて、奴隷は「財産」であり、その保有を議会が禁止することはできないという判決もくだします。この判例は、ミズーリ協定およびカンザス・ネブラスカ法という、それまでの議会によって試みられた南北間の「妥協」を根本から否定するものであり、南北の対立を決定的なものとしました。」(182~183頁)
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ワシントンの切手各種

2015年03月04日 | 歴史




前回の「レキシントン・コンコードの戦いの切手」に関連してアメリカ独立戦争における植民地軍総司令官のワシントンの切手を3種類紹介します。
まあさすがはワシントン、一人の人間が何度も切手の図に採用されているのはそうはありません。

フレンチインディアン戦争ではイギリス軍の参謀として参加しますが、その後のイギリスによる課税に反対し、独立戦争開始後1775年の第2回大陸会議で総司令官に抜擢されます。独立達成後は農場に隠棲しますが、1787年の憲法制定議会で議長となり、1789年にアメリカ合衆国初代大統領に就任します。
彼は政治的なバランスにも優れ、連邦派(フェデラリスト)と反連邦派(アンチフェデラリスト)の間でうまく均衡を保ちます。

「建国の父」である彼は(桜を折った話は真実かどうか分かりませんが)、今でもアメリカ人のなかで深く愛されています。
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レキシントン・コンコードの戦いの切手

2015年03月03日 | 歴史

アメリカ独立戦争の口火を切ったレキシントン・コンコードの戦いの切手です。
レキシントンやコンコードのあるマサチューセッツは当時独立の気風の強い植民地で、ボストン茶会事件が起こったボストンもマサチューセッツになります。
イギリス軍はコンコードにある植民地軍の武器庫を接収するため進んでいたところ、レキシントンで植民地軍とぶつかります。また同日コンコードでも衝突したことから「レキシントン・コンコードの戦い」と書かれますが、山川出版社の新課程版『詳説世界史』では(旧課程でも)「レキシントンとコンコードで衝突」と書かれ、実教出版の最新の五訂『必携世界史用語』では「レキシントンの戦い」と書かれています。
まあどう呼ぶかはおいといて、アメリカ植民地の軍隊には民兵がいました。彼らは普段着から1分で戦闘モードに入ることが出来るということで「ミニットマン」と呼ばれます(アメリカの大陸弾道弾ミサイル(ICBM)の名前にもなっています)。
アメリカ独立戦争はこの1775年のレキシントン・コンコードの戦いから始まり、翌1776年にはトマス・ジェファソンを中心に独立宣言が起草され、同年トマス・ペインの『コモンセンス』も発行されます。
戦闘も1777年のサラトガの戦いや1781年のヨークタウンの戦いでの勝利、また武装中立同盟や義勇兵の活躍など対外支援も受けてアメリカ植民地側の勝利となり、1783年パリ条約で独立を果たします。
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フレデリック・ダグラスの切手

2015年03月02日 | 歴史


黒人解放運動家といえば、ハイチの“黒いジャコバン”と呼ばれたトゥサン=ルーベルチュール、南アフリカのマンデラ、アメリカのキング牧師が有名ですね。あとちょっと深く入ればビリー=ホリデイ、マルコムX、ローザ=パークスという名前も出てくるかもしれません。
しかし19世紀アメリカにおける黒人解放運動家といえばこのフレデリック・ダグラスです。数年前亡くなられた日本を代表するアメリカ史研究者猿谷要氏の『アメリカ黒人解放史』(二玄社 2009年)によりますと、奴隷の子として生まれたダグラスは、永続的で合法的手段によって黒人解放を訴えた指導者です。奴隷という立場にありながら勉強をつづけ、自由黒人にも認められて北部への逃亡に成功、黒人だけによって出された新聞のうち最大発行部数を誇った『北部の星』の執筆者兼編集者として活躍し、この新聞も『フレデリック・ダグラス新聞』と改称して急進的な奴隷廃止論者の拠点をつくるほどになります。また彼は南北戦争を“黒人解放のための戦争”であるとし、黒人にこの戦争に参加することを呼びかけて大統領リンカンにも提案、実際に2度もホワイトハウスを訪問しています。
彼は戦後も活躍の場を広げ、婦人参政権運動やハイチ公使などでも名を残しています。
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アラブ連合共和国の切手

2015年03月02日 | 歴史
先日佐賀で行われていました骨董市に行ってきました。
そこで古い外国の切手などを買ってきたのですが、それを整理していると何とも面白い切手が・・・


アラブ連合共和国(UAR)の切手です。


「アラブ連合共和国」は、世界史を深く勉強しているか、もしくはよほど中東に興味を持っていない限り聞き覚えのない国だと思います。
「アラブ連合共和国」について、以下説明します。
1952年自由将校団を率いてエジプトでクーデタを起こし、王政を倒して共和国を樹立し、協力者だった初代大統領ナギブを追放して2代目のエジプト大統領となったナセルは、1956年、スエズ運河国有化宣言をきっかけに始まったイギリス・フランス・イスラエル連合軍との第2次中東戦争(スエズ戦争)を乗り切ったことによりアラブ全体の英雄となります。そこで同じく汎アラブ主義の強いシリアが1958年連合を申し出る形で成立したのがアラブ連合共和国です。しかし連合とはいえエジプトとシリアとでは力の差は歴然で、エジプトがシリアを指導するようになり、反発したシリアが1961年に分離し、連合共和国は崩壊します。

という歴史からこの切手は1958年~1961年というほんの3年間しか存在しなかった国の切手か! と小躍りしたのですが、崩壊後もエジプトは1971年まで「アラブ連合共和国」の名称を使用しているので、名目的には13年間存在したことになります。しかしこの「アラブ連合共和国」に関する実物教材はなかなか無いので、私としては手に入れて大変嬉しく思っています。
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