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今起きていること、ちょっと立ち止まって考えてみよう。

石井一への旭日大綬章授与を取り消せ 

2014-08-31 18:47:36 | 日記
2014/8/31

しかしながら呆れ果てる莫迦議員である。

北朝鮮拉致被害者が亡くなっている明確な根拠もなしで、自民党潰しのつもりでこうした無責任発言を繰り返す者に、なぜ日本の

勲章などを与える必要があるのか。

彼は本当に日本の政治家だったのか。

勲章の価値、政治家の価値を貶めるとんでも爺。

これまでの彼の失言をみれば、受章に相応しい人物かどうか判るというもの。

勲章は社会に対して功績のあった人物に与えられるもの、日本の同胞を貶めて平然といられる者に与える理由はない。

拉致被害者家族の心情を同胞への痛みと感じ取れないようなパチンコ利権の第三国シンパの愚か者に勲章など与える必要など全く

なかろう。

彼は反省もなく、持論を繰り返しているではないか。

勲章が欲しくば、北朝鮮か韓国から貰えばよし。

十分な反日活動の功績が認められるだろう。

日本からの勲章は即刻返納すべし。


                            ★

以下ウキペディアより抜粋



石井 一(いしい はじめ、1934年8月17日 - )は、日本の政治家。

国土庁長官(第19代)、自治大臣(第45代)、国家公安委員会委員長(第55代)、民主党副代表、筆頭副代表、国会対策委員長、衆議院議員(11期)、参議院議員(1期)などを歴任。

自由連合幹事長で元参議院議員・日本国特命大使の石井一二は弟。甥に兵庫県議会議員の石井健一郎、衆議院議員の石井登志郎がいる。2人とも石井一の元政策秘書であり、登志郎とは養子縁組をした。兵庫県議会議員の石井秀武は親類にあたる。

危機管理都市推進議員連盟会長。日本音楽家協会会長。上海大学顧問教授。イオンド大学(非認定大学)名誉教授。



目次 [非表示]
1 来歴・人物
2 略歴
3 政策
4 物議を醸した発言 4.1 予算委員会での質問
4.2 「公明党は“ばい菌”」発言
4.3 「1票くらい聖徳太子で」発言
4.4 「それなりの姿勢」発言
4.5 「鳥取・島根は日本のチベット」発言
4.6 愛知県知事戦で対立候補を「脱北者」呼ばわり
4.7 拉致被害者を死亡扱い

5 政治資金
6 不祥事
7 エピソード
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク


来歴・人物[編集]

タイヘイレコード社長で、後に自由民主党兵庫県議会議員を3期務めた石井廣治の長男として、兵庫県神戸市須磨区に出生。小学校5年生で、敗戦と同時に政治家を志す。

神戸市立西須磨小学校、甲南中学校を経て、甲南高等学校に入学し弁論部に所属。1957年に甲南大学経済学部を卒業した後アメリカに留学し、1960年、スタンフォード大学大学院政治学研究科を修了し、修士号を取得。同校の助手となる。帰国後、郷司浩平の伝手で、郷司が専務理事を務めていた「日本生産性本部」の職員となる。

1967年、29歳の時、第31回衆議院議員総選挙に旧兵庫1区から立候補するが落選。浪人期間中は、田中角栄の私設秘書を務めた。

続く1969年の第32回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・浜田幸一など)。1975年12月の三木改造内閣で労働政務次官、1976年の福田赳夫内閣で運輸政務次官に就任。運輸政務次官時代にダッカハイジャック事件に遭遇し、政府派遣団長としてハイジャック犯との交渉に当たり、これを成功させた[要出典]。

1983年、第37回衆議院議員総選挙で落選。本来、石井は「昭和44年(1969年)当選組」であったが、この落選が響き、同格であった後の竹下派七奉行を初めとする政治家達に大きく遅れをとった。この落選は、ロッキード事件で自民党とりわけ田中派に逆風が吹く中で、一貫して田中角栄を擁護した結果であると言われ、田中を拘置所で出迎える模様がマスコミで大きく扱われた煽りを受けて落選した当選同期の梶山静六とも同じ境遇であった。落選期間中、田中の無罪を信じてアメリカに渡り、単身、ロッキード事件の真相解明に努めた。後年のインタビューで、「田中の独自資源外交が、それを快く思わない勢力の虎の尾を踏んだ」と述べている[要出典]。

1986年、第38回衆議院議員総選挙(衆参同時選挙)で自民党が大勝し、石井も国政に復帰した。1989年、第1次海部内閣の国土庁長官として初入閣。しかし、一方で1990年には、ハワイの未公開資産保養地所有が問題となった。

また、1991年には、全国日朝友好促進議員連盟訪朝団の総団長として北朝鮮を訪問している。竹下派分裂に際しては羽田孜・小沢一郎側に与し、羽田派に所属。

1993年、宮澤内閣不信任案が提出されると、羽田派の一員として内閣不信任に同調し、自民党を離党、新生党に参加する。細川内閣が成立すると、石井は衆議院政治改革特別委員長に就任した。1994年、羽田内閣が成立すると、自治大臣兼国家公安委員会委員長に就任。

同年、新進党に参加するが、最後は小沢一郎への批判を強め、1998年の新進党解党直後は鹿野道彦を代表とする国民の声に参加した。その後、民政党を経て民主党に参加、党国会対策委員長に就任する。

1999年、民主党筆頭副代表に就任。民主党と自由党の合併が懸案となると、民主党内保守系の幹部として推進派となる。2002年、野党結集準備委員会委員長となり、民由合併を推進した。

2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙で落選。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で比例区から立候補し、この時は民由合併の功労者として小沢系議員と全国の旧自由党支持者が熱心に応援したこともあり[要出典]当選した。当選直後の民主党両院議員総会において初当選議員の紹介において、衆議院議員としては11回当選のベテランではあるが参議院議員としては初当選であったことから幹事長の鳩山由紀夫から「新人の」と強調され紹介された[要出典]。2007年8月、党副代表に就任。

2007年11月の、いわゆる大連立構想の際には、騒動の責任を取って辞職表明した小沢に対し、渡部恒三らと慰留及び事態収拾に動く[要出典]。

2007年には参議院予算委員会で、公明党と創価学会が表裏一体であることを指摘し、国政選挙で公明党議員が当選した場合、衆参それぞれ300万円、600万円の献金がなされるが、その献金がどこへ入ったかは不明になっているという公明党議員のP献金なる創価学会への献金について言及した。

2009年1月20日の予算委員会での質問において首相の麻生太郎に対し、麻生自身が書いた「文藝春秋」掲載の手記に出てくる難解な漢字(それまで麻生が簡単なものも含めて、漢字の読み間違いが多かった)を「テスト」形式(「窶し」、「畢竟」など)のフリップで出し、本当に麻生自身が書いた手記なのかを迫った[1]。迫られた麻生は「書かせていただいた。皆さんが読みにくいのは『身を窶し』ぐらいじゃないか」と言い返し、石井は「じゃあ、なぜ『みぞうゆう』なんて言うんだ。率直に認めないとまた支持率下がるよ」と皮肉を述べた。なお、この漢字テストに対して「経済危機で政治対策を行わなければならない時期に無駄な事をやって税金を無駄にするな」と国民から批判が殺到、また民主党内の一部議員からもイメージダウンになると苦言を呈された[2]。

2010年3月4日、厚生労働省局長らが不正関与に絡んだ障害者郵便制度悪用事件において、元厚生労働省局長の村木厚子が虚偽有印公文書作成などの罪に問われた裁判では、自称障害者団体「凛(りん)の会」から依頼を受けた石井が村木に口添えするように行ったと大阪地検が指摘、法廷において「凛の会」に依頼され石井が口添えを記した倉沢の手帳を大阪地裁は証拠採用した[3]。一方、石井は弁護人側証人として出廷し、午前中公判では「凛の会」が石井に口添えを依頼した日の2004年2月25日は「千葉県のゴルフ場に行っており不在だった」と証言したが、検察側は午後に入り「一緒に行ったという議員はその日、国会の委員会に出席していた記録がある」と指摘した。これに対し石井は「国会のルーズなシステムだが、会議録には出席しなくても記録が残る」と説明。「ゴルフに行ったのは間違いない」と反論した。弁護側によると、ゴルフ場の来場記録には石井とこの議員の名前があったといい、裁判官はこれを証拠採用した。更に石井は「この裁判は検察の倫理、検察の存在(意義)を問うている。検察は善であり公正無私であるとの面目を果たしていただきたい」と述べ、検察が自発的に何らかの責任を取るよう求めた[4][5][6]。出廷後の記者会見で「事件には無関係」と主張[7][8]。この裁判を傍聴したジャーナリストの江川紹子は「”(検察は)石井証言が正しいことを、実は分かっていた”ことを事実上“自白”した」とコメントした[要出典]。

2010年6月7日、菅直人新執行部で再び党副代表に就任。

2010年8月10日、大阪府知事の橋下徹と会談し、大阪(伊丹)空港を将来的に廃止し、同空港跡地を「危機管理都市」の候補地とすることで意見を一致した。石井は「危機管理都市は関西復権の決め手。これから本気でやろうと思う」「反対勢力はあるが、全体が動きだせば動く。(橋下知事が)地元は賛成、受け入れるという姿勢を見せてくれれば、“鬼に金棒”」と述べ、橋下は「本当にありがたい話だ」「副首都の建設は日本にとって必要な危機管理。国民も納得する」と応じた[要出典]。

2011年4月14日、東日本大震災の復興補正予算が議論される中、復興予算捻出のためのODA削減案に反対する超党派連合のメンバーとして名を連ねる[9][10]。





2011年5月4日、フィリピン元老院議長フアン・ポンセ・エンリレ(右)と
2011年5月5日、日本・フィリピン友好議員連盟会長としてフィリピンを訪問中、2人の民主党議員(生方幸夫と那谷屋正義)と共に、セント・エレナ ゴルフクラブで、「被災者の方から見れば『何だ』という気持ちになるでしょうね」と意識しながらも「国外であれば目につかないと思った」として震災後初のゴルフを満喫した[11]。同年5月9日、「非常に不適切なものだという認識はしていないが、よくよく考えたら、もう少し自制をしてもよかったかなというふうな気持ちはありますけれども」と表明しつつも、「一度だけ」と釈明していたが、実は複数日に渡ってゴルフを行っていたことが発覚し、兼務していた民主党東北地方太平洋沖地震対策本部副本部長の辞表を提出し、受理された[12]。

2012年にも同様にフィリピンを訪問したが、当初の届け出では5月3日 - 6日(4日間)の訪問予定であった所、実際には4月27日 - 5月7日(11日間)の訪問であった。参議院規則では、開会中に7日間を超えて海外へ渡航する場合には本会議の議決が必要だが、無断で訪問日程を変更した[13]。同年5月10日、この責任を取る形で参議院議長の平田健二に参議院予算委員長の辞表を提出した[14]。

2012年7月、離党した山岡賢次の後任として、民主党副代表に就任。

2012年10月、参院予算委員長に復帰。

2013年7月21日、第23回参議院議員通常選挙で落選。

略歴[編集]
1934年8月17日 兵庫県神戸市須磨区 千守町で誕生。
1941年4月 神戸市立西須磨小学校に入学。
1950年3月 甲南中学校を卒業。
1953年3月 甲南高等学校を卒業。
1957年3月 甲南大学経済学部を卒業。
1957年9月 米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA) 大学院政治学部に入学。
1958年9月 スタンフォード大学大学院政治学部 入学。
1960年12月 スタンフォード大学において、政治学の修士号を得て帰国。
1961年4月 財団法人日本生産性本部に就職。
1976年12月 運輸政務次官に就任。
1981年12月 衆議院内閣常任委員長に就任。
1983年12月 第37回衆議院議員総選挙にて落選。
1986年7月 第38回衆議院議員総選挙にて返り咲き当選(六回目)。
1989年8月 国土庁長官として初入閣。
1991年1月 衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長に就任。
1993年6月 自民党を離党し、新生党を結成。
1993年8月 衆議院政治改革特別委員長に就任。
1994年4月 自治大臣・国家公安委員長として再入閣。
1995年1月 衆議院決算委員長に就任。
1998年1月 新・民主党の結成に参画。国会対策委員長に就任。
1999年1月 民主党筆頭副代表に就任。
2000年10月 野党結集準備委員会委員長に就任。
2005年9月 第44回衆議院議員総選挙で落選。
2007年7月 第21回参議院議員通常選挙に比例区で当選。
2009年9月 民主党選挙対策委員長に就任。
2010年6月 民主党副代表に再び就任。
2011年9月 参議院予算委員長に就任。
2012年6月 参議院予算委員長を辞任。
2012年7月 民主党副代表に就任。
2012年10月 参議院予算委員長に復帰。
2013年7月 第23回参議院議員通常選挙で落選。
2014年4月 旭日大綬章受章。

政策[編集]
首都機能移転首都機能移転については積極的に推進する立場を採っている。特に災害対応や危機管理の観点から、東京都以外への首都機能の移転を主張する副首都構想を提唱している。
「首都機能移転」および「副首都構想」も参照
選択的夫婦別姓制度選択的夫婦別姓制度については賛成の立場を採っている[15]。
物議を醸した発言[編集]

予算委員会での質問[編集]

2007年10月16日の第168回国会参議院予算委員会で、公明党と創価学会の関係について質問した[16][17]。
石井の主張石井は2007年の6月15日に公明党所属の参議院議員、福本潤一が参議院における記者会見で「公明党は参議院議員は当選したら600万円、衆議院議員は300万円を党本部に上納した」と発言したことに言及し、総務大臣、増田寛也にこの問題について尋ねた。すると数名の議員が委員長席に集まり速記が止められ、再開後も政府の誰も答弁に立たなかった。また、石井は公明党議員は創価学会の名誉会長、池田大作が外国から200個の称号をもらったということで、国会議員一人当たり30万円ずつ徴収される『P献金』というものがあることを指摘。Pはプレジデントの略で池田名誉会長のことを指しているとした。政治家が拠出している金という点で、公職選挙法や政治資金規正法に違反するものかを解明をしなければいけないとした。そして、「公明党というのは、創価学会なんです。票を通じて今の政府を支配している。公明党から創価学会をひいたら議席はゼロなんですよ」と両者が政教分離原則に反する政教一致の状態であると主張。また公明党の展開する選挙戦について、「非課税の宗教施設を使って、支援長の指揮下のもと、一糸乱れぬ、強力な展開をしている。」とし、公明党の人事についても、委員長選挙がこれまで一回も行われて来なかったことを指摘。その人事がどこで決まるのかを含め、「あらゆる面において不可解極まりない」とした。2007年選挙当時、教団施設を回り講演している。教団側は石井に投票せよと、呼びかけているのである。あり得ないことである。そしてこの議題を取り上げた理由については横やりを入れているのではなく、民主主義の根幹にかかわる問題であり、政府の中に入り、票を通じて今の政府を支配しているという構図があっていいのかという考えから指摘している旨を述べた。これらのことについて福田康夫総理の見解を尋ねると、再び数名の議員が委員長席に集まり長らく速記が止められた。石井はこの問題は今最も重要な問題となっている“政治と金の問題”であり、政教一体という" 憲法20条に抵触する問題"ではないかと指摘した。公明党の主張この『P献金』について質問された公明党の冬柴鐵三国土交通大臣(当時)は「P献金が何物か知りませんけど、私はそういうことはいたしておりません。」と否認した。しかし冬柴国土交通大臣は、議員報酬の2か月分を公認料として党に出したことは認めた。石井は公認料というのは、通常は党からもらうものであることを指摘、そのようなお金がどこへどう処理されたかを追及すべきとした。冬柴は石井に対し、もし自分がP献金をしなかったということが判明した場合は議員辞職する考えがあるかを石井に尋ねた[16]。石井は元公明党所属の参議院議員であった福本潤一や池田名誉会長など、創価学会本部からの責任者を証人喚問か参考人として招致しすることを提案した。そして、このことは自民党の時代からやりたかったことであり、これを今日まで30年、40年も触れてはならないタブーにしてきてしまったということについて政治家に大きな責任があるとした。同年12月4日、民主党役員会において、党として国会で福本潤一前参議院議員の参考人招致を要求して行く方針が決定された。石井一の次に質問に立った公明党政務調査会長代理の山口那津男は「上納金とか、よく意味の分からない、法律的な定義のない、そういう言葉を乱用した質問がありました。このような質問は厳に慎んでいただきたい」[16]と抗議した。さらに山口は、同年10月17日の公明新聞紙上において「(公明党の選挙資金は)党で選挙費用として掛かる分の一部を(議員本人が)党費として納めて、その費用に充てている。きちんと収支報告をしており、何ら異議を挟まれる余地はない」と反論した[18]。2007年10月17日の記者会見で、公明党幹事長の北側一雄は「(候補者は)党費として党に納める。(党本部は)それを財源に選挙活動の費用を賄っていく。政治資金収支報告もきちんとしている」と反論した[19]。討論後の反響石井は予算委員会の質問中に「私はきついことを言うておるようですが、国民の方々はたくさん聞いておられますよ。必ず今日は反響も来ますよ」と語っていたが[16]、後日、動画配信サイト超人大陸において石井は「電話も、ファックスも、インターネットを通してのメールも、Yahoo!にしても、ニコニコ画像[20]にしても、こんなに反響があるのか。若い人からの声もありました」[21]と語っている。
「公明党は“ばい菌”」発言[編集]

2008年10月5日に放送された報道番組「サンデースクランブル」(テレビ朝日系列)において、司会者から総選挙後の公明党との連携を問われた際に、「(可能性は)一切ない、(公明党は)ばい菌みたいなものだ。公明党から4票もらったら、浮動票が6票逃げていく。」と発言した[22]。この発言に関しての公明党代表の太田昭宏は「公党の副代表が公党に対してこのような不見識極まる言葉を使うとはとんでもない話だ。即刻、撤回と謝罪を求めたい。」と抗議した[23]。太田のこの抗議に対しても、石井は同6日に「(発言は)間違っていないというひそかな自信がある。言い回しに多少問題があったかもしれないが、それなりの思いがあるから申し上げている」と発言。謝罪も撤回も拒否する姿勢を示した。

「1票くらい聖徳太子で」発言[編集]

2009年3月4日、都内で開かれた民主党衆院議員の資金集めパーティーにおいて、前日小沢代表の公設第1秘書が逮捕された政治資金規正法違反事件を念頭に「今、政治資金の問題が出ているが、個人献金は自由だ」と個人献金の重要性を参加者に説いた際に、「1票くらい、聖徳太子1枚くらい出せば十分取れる」といった発言を行った[24]。

「それなりの姿勢」発言[編集]

2010年1月29日に長崎県知事選のために開かれた総決起集会にて「(民主党を選ばないという)そういう選択をされるのであれば、民主党政権は長崎に対し“それなりの姿勢”を示すだろうと私は思います」と発言。結果として与党3党(民主党・社会民主党・国民新党)推薦の橋本剛候補は大差で敗れ、野党(自民党)推薦の中村法道候補が当選した[25]。

2010年3月2日の衆議院予算委員会で自民党加藤紘一衆議院議員がこの発言を取り上げ「2010年2月25日付長崎新聞論説にまぎれもない恫喝発言であり、われわれは断じてこれを許さない、と書かれている[26]」と紹介し鳩山由紀夫総理に見解を求めたところ、鳩山総理は「地域は地域の発想にまかせる地域主権を訴えており、それが現政権で理解されていない部分があれば反省する必要がある」と述べた[27]。

「鳥取・島根は日本のチベット」発言[編集]

2010年2月22日に東京都内で行われた川上義博参院議員(鳥取選挙区)のパーティーで講演し、「少し語弊があるかもしれないが、鳥取県や島根県は人が住んでいるのか、牛が多いのか、山やら何かあるが、人口が少ない所で、日本のチベットみたいなものだ」と発言した。

この発言に対し、パーティー会場からも言いすぎだとの一部批判があったほか、後日、鳥取県では自民党鳥取県連や鳥取県市長会が抗議文を出し、鳥取県が選挙区の石破茂自民党政調会長は「両県とチベットにとって極めて侮辱的だ。思い上がった発言で、謝罪のうえ、撤回すべきだ」「日本海側の人間はかつて裏日本と言われ悔しい思いをしてきた訳で、地域の人を見下す対応をする人が選挙を仕切っているのが民主党のやり方だ」と批判[28][29]。また、東国原英夫宮崎県知事(当時)もTwitterで「地方主導はどうなったのか?」と石井の発言を非難し[30]、溝口善兵衛島根県知事と平井伸治鳥取県知事両名が石井の発言を非難[31][32]、さらには民主党内の福間裕隆鳥取県連幹事長からも抗議を受けた[33]。

これらの批判について、「鳥取のカニも好きだし風光明媚(めいび)でもある。だいたい人がよい。同じようにチベットもそうらしい」と発言し、「いつの間にチベットはそれほど差別される国になったのか。釈明したりおわびをすることは何もない」と釈明も謝罪も拒否するとともに、チベットが独立国であるという見解を表明した[34]。

愛知県知事戦で対立候補を「脱北者」呼ばわり[編集]

2011年2月6日、民主党候補の敗退が確定した夜の会見で、当選した大村秀章が自民党に離党届けを出したことを揶揄して「自民党の脱北者だ」と述べた[35]。

拉致被害者を死亡扱い[編集]

2014年8月29日、神戸市で開催された旭日大綬章受章記念パーティーにおいて北朝鮮による拉致問題に触れ「日本政府はいまだに横田めぐみさんらを返せと騒いでいるが、もうとっくに亡くなっている」、「私は北朝鮮に精通している。それなのにまだ(交渉を)やっとるのは非常に違和感がある」と発言した[36]。

翌日の産経新聞社からの取材に対しても、「拉致被害者の家族が『生きて帰ってきてほしい』と思うのは当然だし、帰ってくれば、それ以上にうれしいことはない」と述べると同時に、「金正日総書記が小泉純一郎首相に伝えた拉致被害者の『死亡』という事実は大きい。いったん受け入れたものを、ひっくり返せるのか。被害者家族を思えば痛ましいことだが、それはほとんど不可能に近い。国際社会としては決着がついている話だ」とこれまでと同じ主張を繰り返した上で、「かわいそうだから返せ、と騒ぐこと自体がマイナスなことではないか」と述べ、発言を撤回する考えはないとした[37]。

翌9月上旬に北朝鮮からの再調査結果が伝えられることになっている時期でのこの発言に対し、拉致被害者家族からは「よくあんなことを考える人がいるなと思います」、「向こう(北朝鮮)と交渉している今は一番大切な時期なのに」など怒りの声が挙げられた[38]。また、石井の発言が自身の旭日大綬章受章記念パーティーで出たことに触れ「どんな功労者かは知らんけれど、こんなことをいう人に章を出しっぱなしでいいのか」という非難の声も挙げられた[38]。

政治資金[編集]
2008年10月19日、「民主党兵庫県第1区総支部」が石井が代表を務めていた2003年10月にマルチ商法業者らでつくる政治団体など業界側から計450万円の献金を受けていたことが判明した(「流通ビジネス推進政治連盟(現・ネットワークビジネス推進連盟」が300万円、企業1社が150万円)[39]。石井は献金を受ける直前の2003年9月にマルチ商法業界を支援する議員連盟を立ち上げ、名誉会長に就任していた[39]。

不祥事[編集]
2004年5月13日の民主党のメールマガジンによると、年金未納問題の際に国民年金が8年5か月間未納であった[40]。

エピソード[編集]
1953年、タイヘイレコード社長であった父・石井廣治が仕掛け人の一人となり、ジャズ界における伝説のプロデューサーであるノーマン・グランツが立ち上げたJATPの日本公演が行われた際には、チャーリー・パーカーやオスカー・ピーターソン、ロイ・エルトリッジといった錚々たるジャズ・ジャイアント達と親交を結んだ[要出典]。
1990年の金丸信、田辺誠を中心とした自民、社会両党の訪朝団(いわゆる、金丸・田辺訪朝団)において、自由民主党代表団事務総長を務めた[要出典]。
新興宗教崇教真光の42周年(2001年)、46周年(2005年)、48周年秋季大祭(2007年)に参加し参拝をしていることが伝えられている[41]。
北朝鮮との対話友好を目指す議員連盟「朝鮮半島問題研究会」の立ち上げに参加し、顧問として所属。
鳩山の首相辞任表明当日、両院議員総会に向かう途中で総理とエレベーターが一緒になり、「あなたの頭のなかにある原稿内容を180度転換して話しなさいよ」と呼びかけるなど、最後まで慰留した議員の一人である。その後のインタビューで「そのとき鳩山総理は堅い顔をしながらニコっと笑い、私に握手をしてきた。その握る手の強さを感じ、もうここまできたら総理の考えは改められないと思った」と語っている。
参議院議員の姫井由美子が2008年8月28日に民主党の離党届を提出したものの、同29日には一転して撤回した問題について、「姫井も女だし、党内で心を開ける人もなく、寂しく思っているところをつけ込まれたんだよ」と姫井を擁護した[42]。
2010年6月16日、都内で行われた岡島一正の政治資金パーティーで挨拶し、小沢一郎元代表の資金管理団体「陸山会」の土地購入事件について「土地がどうのこうのというのは2004年の話やぞ。2004年から2010年まで検察や警察は何しとったんや。こんな不公平な政治的思惑がある捜査というのはない」と捜査当局を批判した。同時に「小沢氏の功罪について多くは言わないが、政権交代を実現させた最大の功労者だ。ぼろかすに言うけど、何がぼろかすやねん」と小沢氏を称える発言を行った[要出典]。
現在の政官要覧の紹介ページには、「小沢一郎に物言える人物の一人」との記述がある[要出典]。
ヘビースモーカーであり、1日25本タバコを吸う生活を50年以上続け健康の秘訣はタバコと答えるほどである。近年、レストランなどでの禁煙化が進んでおり禁煙されているレストランで食事したあと、帰り際に店員に対し「食事はいいけど、もう来ない」などと発言。さらには、「こういうと、ほとんどの店では喫煙コーナーを設けてくれる」と発言した[43]。
容姿や雰囲気が一昔前の暴力団幹部を連想させる事で有名で北野武も「石井先生はやくざにしか見えませんね。」と話した事がある[要出典]。
民主党娯楽産業健全育成研究会初代会長であり、現・名誉会長。また、パチンコ・チェーンストア協会政治アドバイザーである[44]。

脚注[編集]

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1.^ 麻生首相「みぞう」、どよめく委員会 漢字テスト12問(アサヒコム)
2.^ “民主・石井氏らに批判殺到 首相への「漢字テスト」”. 産経新聞. (2009-01-21) 2013年5月27日閲覧。
3.^ “郵便不正公判 石井一議員の手帳を証拠採用”. 読売新聞. (2009年3月5日) 2013年5月27日閲覧。
4.^ “石井一氏「捜査に政治的意図か」 厚労省の文書偽造事件”. 共同通信社. (2010年3月4日) 2013年5月27日閲覧。
5.^ “江川さんによる3月4日村木厚子氏公判の傍聴メモ(石井一氏承認の件)”. 江川紹子Twitter. (2010年3月4日) 2010年3月27日閲覧。
6.^ この法廷証言は2011年1月31日放映のドラマ「私は屈しない〜特捜検察と戦った女性官僚と家族の465日」で忠実に再現された
7.^ “石井一議員、郵便不正で口添えを否定 証明書巡り証人出廷”. 日本経済新聞. (2010年3月4日) 2013年5月27日閲覧。
8.^ “口添え全くないと民主・石井氏 厚労省の文書偽造事件”. 共同通信社. (2010年3月4日) 2013年5月27日閲覧。
9.^ 超党派議員がODA削減反対で一致 政府に申し入れへ
10.^ 平成23年4月14日第一次補正予算におけるODA削減に関する勉強会
11.^ 石井民主副代表らマニラでゴルフ 「目につかないと思った」 2011年5月6日 MSNサンケイニュース
12.^ 民主・石井選対委員長ゴルフ問題 兼務していた地震対策本部の副本部長を辞任2011年5月9日 FNN
13.^ 7日間以下の訪問であれば、議長の了承のみで済む。
14.^ “石井参院予算委員長、辞任へ=外遊日程を無断変更”. 時事ドットコム. (2012年5月10日) 2012年5月11日閲覧。
15.^ 第136回国会 法務委員会請願2256号
16.^ a b c d 第168回国会 参議院 予算委員会 第2号 参議院、2007年10月16日(議事録)、参議院インターネット審議中継での動画
(WMP)(RealPlyer)
17.^ 民主・石井氏 公明党と創価学会の関係追及<10/16 17:06>(日テレNEWS24)
18.^ 公明に“上納金”存在せず(『公明新聞』 2007年10月17日)
19.^ 民主・石井氏の「献金」指摘、公明幹事長「曲解」と反論(『読売新聞』 2007年10月17日19時57分閲覧)
20.^ 発言のまま。石井が参議院予算委員会で質問する動画が「ニコニコ動画」に投稿され、動画ランキングでトップ10入りし、その画像をもとにしたMADムービーが投稿されるなどした一連の事象を指していると思われる。2007年12月下旬、ニコニコ動画の石井一関連の投稿動画の一部が削除され、「権利者の申し立てにより削除されました」とのメッセージが表示される状態になっている。
21.^ カルショックインタビュー「参議院議員石井一 「公明党と創価学会の問題」」(超人大陸)。
22.^ “民主:「公明はばい菌みたいなもの」石井副代表”. 毎日新聞. (2008年10月5日) 2013年5月27日閲覧。
23.^ “「ばい菌みたい」、民公連立を否定 民主・石井副代表”. 朝日新聞. (2008年10月6日) 2013年5月27日閲覧。
24.^ “「1票くらい聖徳太子で」 民主・石井氏が脱線発言”. 産経新聞. (2009年3月4日) 2013年5月27日閲覧。
25.^ “長崎知事選で利益誘導 民主党よ「おまえもか」”. ジェイ・キャスト. (2010年2月23日) 2010年2月24日閲覧。
26.^ “論説 石井一議員の選挙演説 有権者への恫喝は許さない”. 長崎新聞. (2010年2月25日) 2010年3月9日閲覧。
27.^ “石井一氏の“利益誘導”発言に首相「反省する」”. 産経新聞. (2010年3月2日) 2010年3月9日閲覧。
28.^ “「鳥取や島根は日本のチベット」 発言に抗議相次ぐ”. 日本海新聞. (2010年2月24日) 2010年3月1日閲覧。
29.^ “「断じて容認しがたい」 民主・石井氏「鳥取はチベット」発言で自民・石破氏”. 産経新聞. (2010年2月24日) 2010年3月1日閲覧。
30.^ “東国原知事が激怒!民主・石井氏の「鳥取と島根は日本のチベット」発言”. サーチナ. (2010年2月23日) 2010年3月1日閲覧。
31.^ “チベット発言に島根知事憤り”. 中国新聞. (2010年3月2日) 2010年3月2日閲覧。
32.^ “鳥取・平井知事、チベット発言批判 「速やかに撤回を」”. 読売新聞. (2010年2月25日). オリジナルの2010年3月4日時点によるアーカイブ。 2010年3月2日閲覧。
33.^ “石井議員のチベット発言 民主県連幹事長が抗議”. 読売新聞. (2010年2月25日). オリジナルの2010年3月4日時点によるアーカイブ。 2010年3月2日閲覧。
34.^ “石井一参院議員:「チベット」発言弁明”. 毎日新聞. (2010年2月25日). オリジナルの2013年5月1日時点によるアーカイブ。 2010年3月1日閲覧。
35.^ 「大村氏は脱北者」=民主・石井氏
36.^ 「めぐみさんとっくに亡くなっている」民主・石井一氏が発言
37.^ めぐみさんめぐる発言…民主・石井一氏、改めて「帰国あり得ない」
38.^ a b http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140831-00000088-san-soci
39.^ a b 石井・民主副代表、マルチ業界側から献金450万円asahi.com 2008年10月19日(2008年10月19日時点のアーカイブ)
40.^ 党所属国会議員の国民年金保険料の納付状況について 民主党メールマガジン 2004年5月13日 2014年4月26日閲覧
41.^ 『崇教真光』誌 平成13、17、19年12月号
42.^ 「週刊朝日」2008年9月12日号18頁
43.^ 民主党の石井一「もう来ない」禁煙料理店で“逆ギレ” 社会:ZAKZAK
44.^ 「パチンコ・チェーンストア協会」(PCSA)



                           ★



旭日大綬章
旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょう、英: Grand Cordon of the Order of the Rising Sun)は、日本の勲章の一つ。2003年(平成15年)の栄典制度改革以前の勲一等旭日大綬章に同じ。



目次 [非表示]
1 概要
2 受章者
3 脚注
4 外部リンク


概要[編集]

旭日大綬章は、1875年(明治8年)4月10日、「賞牌従軍牌ヲ定ム」(明治8年太政官布告第54号、現件名・勲章制定ノ件。)により制定された。これが現在の旭日章の基になったもので、明治政府が制定した最初の勲章である。

勲章のデザインは、日章を中心に八角の光線(旭光)を二重に配したもの。鈕(ちゅう)には桐の花葉を用いている。綬は、織地白色、双線紅色。旭日大綬章は旭日章の最高位で、2003年(平成15年)の栄典制度改革以前の勲一等旭日大綬章に相当する。他の旭日章との意匠の違いは、大綬章の副章のみが二重の旭日(重光章の正章も同一の意匠で二重の旭日ではある)、他の章は一重になっていることである。

「勲章制定ノ件」には、「国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者ニ之ヲ賜フ 」(2条1項)と定められている。「勲章の授与基準」[1](平成15年5月20日閣議決定)には、旭日章は「社会の様々な分野における功績の内容に着目し、顕著な功績を挙げた者を表彰する場合に授与する」ものとし、「功績内容の重要性及び影響の大きさ、その者の果たした責任の大きさ等について評価を行い、特に高く評価される功績を挙げた者に対しては旭日重光章以上」を授与することと定めた。また、「内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長又は最高裁判所長官の職にあって顕著な功績を挙げた者」については授与する勲章の標準を旭日大綬章とし、「国務大臣、内閣官房副長官、副大臣、衆議院副議長、参議院副議長又は最高裁判所判事の職(これらに準ずる職を含む。)にあって顕著な功績を挙げた者」については旭日重光章を標準とすると定めた。実際の受章者には、上記の官職にあった者の他、県知事の職を永年勤めた者、国内外の大企業の社長、労働組合の幹部などもいる。

創設当初から栄典制度改革(2003年(平成15年))まで、旭日章は男性のみに授与され、女性には授与されなかった。そのため、同年11月3日に授与された元文部大臣の赤松良子、元国土交通大臣の林寛子(扇千景)が、女性初の旭日大綬章の受章者となる。

著名な外国人受章者としては、ファイザー会長のヘンリー・マッキンネル(2006年(平成18年)11月7日受章)、元ベトナム社会主義共和国首相のファン・ヴァン・カイ(2006年(平成18年)11月3日受章)、環境保護活動家・元ケニア環境副大臣でノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイ(2009年(平成21年)4月29日)らがいる。


受章者[編集]

主要官職については官報及び新聞記事に掲載されているもののみを準用した。春秋叙勲については外国人受章者を含む(「外国人」と表記)。


受章年

月日

氏名(カッコ内は主な役職・在職当時)

2003年(平成15年) 11月3日 赤松良子(文部大臣)
奥井功(積水ハウス会長)
辻義文(日産自動車社長)
続訓弘(総務庁長官)
虎島和夫(防衛庁長官)
林寛子(扇千景
国土交通大臣)
牧野隆守(労働大臣)
本岡昭次(参議院副議長)
山田圭蔵(北陸電力会長)

2004年(平成16年) 1月28日 池田行彦(外務大臣)

2004年(平成16年) 4月25日 三塚博(大蔵大臣)

2004年(平成16年) 4月29日 柿沢弘治(外務大臣)
河合伸一(最高裁判事)
近藤耕三(四国電力会長)
千種秀夫(最高裁判事)
平林鴻三(郵政大臣)
平松守彦(大分県知事)
松形祐堯(宮崎県知事)
室伏稔(伊藤忠商事会長)

2004年(平成16年) 11月3日 明石康(国際連合事務次長)
有馬朗人(文部大臣)
井島一友(最高裁判事)
大國昌彦(王子製紙会長)
大出峻郎(最高裁判事)
大野茂(九州電力会長)
栗田幸雄(福井県知事)
清水仁(東急電鉄会長)
武村正義(大蔵大臣)
土井定包(大和証券会長)
長尾立子(法務大臣)
野沢太三(法務大臣)

2005年(平成17年) 4月29日 奥田昌道(最高裁判事)
八島俊章(東北電力会長)

2005年(平成17年) 11月3日 芦田甚之助(連合会長)
安西邦夫(東京ガス会長)
中沖豊(富山県知事)
中村正三郎(法務大臣)
深沢武久(最高裁判事)
藤井正雄(最高裁判事)
槙原稔(三菱商事会長)
森田一(運輸大臣)
ミヒャエル・ロゴフスキー(ドイツ産業連盟会長、外国人)
ドゥマーギーン・ソドノム(モンゴル大蔵大臣、外国人)

2006年(平成18年) 4月29日 大石千八(郵政大臣)
梶原拓(岐阜県知事)
亀山継夫(最高裁判事)
北川弘治(最高裁判事)
中島衛(科学技術庁長官)
古川貞二郎(内閣官房副長官)
ジェームズ・ウォルフェンソン(世界銀行総裁、外国人)
ジョン・ホワイトヘッド(駐日英国大使、外国人)
エティエンヌ・ダヴィニヨン(欧州委員会副委員長、外国人)
ダニエル・ヤンセン(ベルギー経団連会長、外国人)

2006年(平成18年) 5月10日 松野頼三(防衛庁長官)

2006年(平成18年) 5月12日 亀井善之(農林水産大臣)

2006年(平成18年) 11月3日 梶谷玄(最高裁判事)
キャロル・ベラミー(国際連合児童基金事務局長、外国人)
エンリケ・ヴィ・イグレシアス(米州開発銀行総裁、外国人)
ゴフ・ホイットラム(オーストラリア首相、外国人)
マルコム・フレーザー(オーストラリア首相、外国人)
ドナルド・ジョンストン(OECD事務局長、外国人)
ヘンリー・エイ・マッキンネル Jr.(ファイザーCEO、外国人)
ファン・ヴァン・カイ(ベトナム首相、外国人)

2006年(平成18年) 12月13日 永山武臣(松竹会長)

2007年(平成19年) 4月29日 大島宏彦(中日新聞社社長)
貝原俊民(兵庫県知事)
金谷利広(最高裁判事)
平松一朗(京急電鉄社長)
福田博(最高裁判事)
山口信夫(日本商工会議所会頭)

2007年(平成19年) 11月3日 沓掛哲男(国家公安委員長)
桜井新(環境庁長官)
清水嘉与子(環境庁長官)
澄田信義(島根県知事)
竹山裕(科学技術庁長官)
浜田邦夫(最高裁判事)
前島英三郎(八代英太
郵政大臣)
宮原賢次(住友商事会長)

2008年(平成20年) 4月29日 生田正治(日本郵政公社総裁)
石井道子(環境庁長官)
小野清子(国家公安委員長)
真鍋賢二(環境庁長官)

2008年(平成20年) 11月3日 大西淳(四国電力会長)
奥田碩(トヨタ自動車会長)
滝井繁男(最高裁判事)
渡邉恒雄(読売新聞グループ会長)

2009年(平成21年) 4月29日 上田豊三(最高裁判事)
柿本善也(奈良県知事)
田代和(近鉄会長)
角田義一(参議院副議長)
成田豊(電通会長)
的場順三(内閣官房副長官)
鷲尾悦也(連合会長)

2009年(平成21年) 10月3日 中川昭一(財務大臣)

2009年(平成21年) 11月3日 臼井日出男(法務大臣)
瓦力(建設大臣)
才口千晴(最高裁判事)
佐藤剛男(法務副大臣)
張富士夫(トヨタ自動車会長)
津島雄二(厚生大臣)
津野修(内閣法制局長官)
仲村正治(内閣府副大臣)
野村明雄(大阪商工会議所会頭)
箕浦宗吉(名古屋鉄道会長)
森山真弓(内閣官房長官)

2010年(平成22年) 4月29日 愛知和男(防衛庁長官)
遠藤武彦(農林水産大臣)
尾身幸次(財務大臣)
片田哲也(小松製作所社長)
笹川尭(内閣府特命担当大臣)
関谷勝嗣(建設大臣)
鶴田卓彦(日本経済新聞社長)
谷津義男(農林水産大臣)
柳沢伯夫(厚生労働大臣)

2010年(平成22年) 11月3日 泉信也(国家公安委員長)
泉徳治(最高裁判事)
井上喜一(防災担当大臣)
氏家齊一郎(日本テレビ会長)
児島仁(NTT社長)
田名部匡省(農林水産大臣)
南野知恵子(法務大臣)
広中和歌子(環境庁長官)
深谷隆司(通商産業大臣)
松田岩夫(科学技術担当大臣)
矢野絢也(公明党委員長)
渡辺秀央(郵政大臣)

2011年(平成23年) 4月29日[2] 青山丘(文部科学副大臣)
石川嘉延(静岡県知事)
今井功(最高裁判所判事)
中川了滋(最高裁判所判事)
若林正俊(農林水産大臣)

2011年(平成23年) 6月4日 笹森清(日本労働組合総連合会会長)

2011年(平成23年) 11月3日 佐々木幹夫(三菱商事会長)
藤田宙靖(最高裁判所判事)
堀籠幸男(最高裁判所判事)

2012年(平成24年) 2月28日 ファン・カルロス・カプニャイ・チャベス(本邦駐箚ペルー共和国特命全権大使、外国人)[3]

2012年(平成24年) 4月29日 池口小太郎(経済企画庁長官)
大橋洋治(全日空会長)
島村宜伸(農林水産大臣)
須田寛(JR東海会長)
ラタン・ナバル・タタ(タタ・グループ会長、外国人)
ジョン・メージャー(英国首相、外国人)
シャンムガム・ジャヤクマール(シンガポール副首相、外国人)
ジャック・ディウフ(FAO事務局長、外国人)
ファム・ザー・キエム(ベトナム副首相、外国人)

2012年(平成24年) 6月12日 フィリップ・ドゥ・ヘーア(本邦駐箚オランダ王国特命全権大使、外国人)
バートン・モンテギュー・フィールド(米第5空軍司令官、外国人)

2012年(平成24年) 9月16日 樋口廣太郎(アサヒビール会長)[4]

2012年(平成24年) 11月3日 山崎拓(建設大臣、防衛庁長官)
甲斐中辰夫(最高裁判所判事)
ロマーノ・プローディ(イタリア首相、外国人)
アブデルマレク・ベンハビレス(駐日アルジェリア大使、外国人)

2013年(平成25年) 4月29日 池坊保子(文部科学副大臣)
植松治雄(日本医師会会長)
大野功統(防衛庁長官)
久間章生(防衛大臣)
滝実(法務大臣)
中馬弘毅(内閣府特命担当大臣)
遠山敦子(文部科学大臣)
中井洽(国家公安委員長)
中野寛成(衆議院副議長)
那須弘平(最高裁判所判事)
羽佐間重彰(産経新聞会長)
藤井裕久(財務大臣)
前田勲男(法務大臣)
宮川光治(最高裁判所判事)
与謝野馨(財務大臣)
吉田二郎(南海電鉄会長)

2013年(平成25年) 11月3日 亀井久興(国土庁長官)
小谷昌(京急電鉄会長)
玉沢徳一郎(農林大臣)
長勢甚遠(法務大臣)
日枝久(フジテレビ会長)
二橋正弘(内閣官房副長官)
古田佑紀(最高裁判所判事)
御手洗富士夫(キヤノン会長)
宮津純一郎(NTT社長)

2014年(平成26年) 4月29日 葛西敬之(JR東海会長)
渡文明(JXホールディングス相談役)
石井一(自治大臣)
鹿野道彦(農林水産大臣)
須藤正彦(最高裁判事)
樋口武男(大和ハウス工業会長)

2014年(平成26年) 5月27日 ジョナサン・ウィリアム・グリナート(アメリカ海軍作戦部長、外国人)[5]


脚注[編集]

1.^ 「皇族及び外国の君主、大統領、外交使節等に対する勲章の授与については、従前の例によるものとする。」とされ、この授与基準が適用されない(附則1項)。
2.^ 東日本大震災の影響により発表延期(6月18日に発表)
3.^ 官報2012年3月9日
4.^ 2012年10月12日政府閣議にて決定
5.^ 5月27日官報

外部リンク[編集]
日本の勲章・褒章/勲章の種類及び授与対象/勲章の種類(旭日章) - 内閣府
勲章の授与基準(平成15年5月20日閣議決定) - 首相官邸
外国人叙勲受章者名簿 - 外務省



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表・話・編・歴
日本の勲章

大勲位菊花章
大勲位菊花章頸飾 - 大勲位菊花大綬章
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文化勲章
文化勲章受章者の一覧


廃止された勲章
金鵄勲章


関連項目:日本の栄典 - 位階 - 勲等 - 褒章 - 賞杯 - 危険業務従事者叙勲





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