画廊主の独り言

銀座京橋に在る金井画廊の画廊主によるブログです。

刻の忘れもの

2018-11-05 23:59:03 | 日記

2年ぶりの独り言。絵について芸術について言いたいことは山ほどあるのに、パソコン文化にまだまだ不慣れでさぼり癖がついてしまいました。画廊主として情けない限りです。

とうことで本日から始まる2年ぶりの大企画展、森幸夫展について拙文。

今展では「風を聲く」という作品が2点出品されています。前回の個展では「風の聲」という作品がありましたが、この聲は「こえ」、今回は「きく」と読ませます。「聲」はもともと「声」の旧字で「聲く」とは辞書にも載っていないウソの文字です。

この作品をじっと見つめていると、「きく」を「聞く」「聴く」と書くより、虎落笛(もがりぶえ)のような風の音を自然の聲として「聲く」と書いた方が深さを感じるのではないでしょうか。それほどまでに今展の作品群はじっくりといつまでも浸っていたい佳作ばかりだと思います。

今、写真やコンピューターを利用して実物そっくりに描いた絵画にスポットライトが当たっています。世間ではこれをリアリズム絵画と称していますが、私は写し取っただけの絵画をリアリズムとは呼べないと思います。

スペインが生んだ巨匠アントニオ・ロペスは同じ場所を10年も通い詰めて描き続けました。一見写真と見まがうほどにリアルに風景を再現しているようですが、そこには風景に生命が宿るがごとく時間性を感じさせる存在感があります。これは日々刻々と変わる空気に彼のみが感じたものの集大成であり、ここにリアリズムの原点を感じることができます。

森幸夫画伯も津軽、十三湖付近の風景に魅せられて10年以上になりますが、この何もない荒涼とした砂山を見つめているうちに、この地が変幻する豊かな表情、つまり貌(かお)が追究の虜になっていきました。

「地の貌」。蓋し絵にならないモチーフです。が、ここに何度も佇みスケッチを重ねていくうちに、虎落笛のような風、空の重さ、寂寥感、透明感などの彼のみが感じる空気感が、何とも言えぬ深い気韻に満ちた絵画空間へと醸成されていったのです。

そして何よりも絵が生きています。それはロペスの作品にも見られる時間性=「刻」が描かれているからだと思います。前回の個展でも「ふりつもる刻」という作品がありました。今展でも「刻の忘れもの」という作品が存在感を放っています。彼はこの地の静けさを「迫ってくるような静けさ」と表現しています。

極限の静寂の中に、脈を打ち息をしている自然の圧倒的な重さを感じとる。油絵の具を幾重にも重ねながら、自然の呼吸に自分の呼吸を合わせ、「迫ってくるような静けさ」を描く。

こうして生まれた作品の前で、私たちは地の貌の奥底に流れる時間性を感じ取ることができます。

何となくいつまでも浸っていたい絵とは、深いマチエールで描かれた空気感の中に時間性=「刻」が感じられる絵なのだと思います。そして観る人によっては「刻」の中で風や香り、詩や音楽が漂う、そんなふくよかな絵画をリアリズム絵画と呼べるのではないでしょうか。

絵空事というように絵とはその画家のみが感じた現実とは違う、つまりウソの空間です。でもその感じ方と表現が深ければ深いほど現実や写真よりももっともっと豊かな広がりを見せてくれます。絵の魅力はそれだけではありません。それは画家の人格や生き方を感じさせてくれることです。

時代の潮流に流されず、ぶれず、群れず、観る人に「幸多かれ」と願いを込めて、大人のふくよかな絵画を描き続ける森幸夫画伯にエールを送っていただければ「幸い」です。

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ふりつもる刻

2016-11-05 22:58:12 | 日記

ふりつもる刻 / 森幸夫

今日から森幸夫展がスタートしました。個展は2000年より隔年で開催、9回目となります。

森画伯はここ数年、津軽・十三湖付近の荒涼とした風景に魅せられ、静謐で滋味豊かな空気感を描き続けています。

その画面は説明のないシンプルな空間の中にも、えもいわれぬ温もりを感ずることができます。油絵具を何度も何度も重ねては削り、通常重ねていく段階で色彩は透明感を失っていくものですが、透明感は保ちながら深く温かな色彩を造り上げています。

22点の新傑作の中に「ふりつもる刻」という作品があります。津軽という土地は雪は降りますが、風が非常に強くて厳冬にならないとなかなか雪が降り積もりません。うっすらと白く映る手前の丘陵は、無論深々と降る雪を想像することもできますが、私はこの「ふりつもる刻」は作家自身の画業人生における今の心境を表す心的表現と理解しています。

風景画を究めるということより、油絵の具という重い材料を用い、いかに深く温かく観る人の心の奥底へ浸透する空気を創り出していくのか。この目的に適う場所が彼にとって津軽・十三であり、この広大なアトリエを起点に絵具を重ね、画業を重ね、そして人生を重ねること、という表現が「ふりつもる」に帰結したのではないかと私は思います。

森画伯の利き腕は、ある理由により胸の高さまで上げることはできません。重いものを持ち上げることもできません。絵を描く時はキャンバスやスケッチブックを下に置き、ゆっくりと確かめるように線を引きます。しかしながら裸婦の体の線や砂山の丘陵の線などはとても力強く滑らかでとても不自由な手によるものとは思えません。

本人にとって絵を描くということは、労力的にはとてもつらいことであるのに、精神的には濃密で至福の時間なのであり、この歓びこそが生きた線や色彩に昇華していっているのだと思います。
手が不自由であることは、ある意味で守備範囲が狭くなる、つまり大きな作品が描けない、従って公募展に関われないということです。しかし群れることの大嫌いな彼にとって一人でこつこつと描けることは好都合なのです。この濃密で至福の時間は「絵とは何か」と自問自答する生き方に、ひいては本物の絵画制作につながっているのだと思うのです。

画家を生きる。苦悩と歓びを繰り返しながら美を極めるこの生き方が、やがては世界中の人々の心の糧となるよう希求してやみません。

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生命の光

2016-04-17 22:44:31 | 日記
昨日より大原立司展が始まりました。

大原画伯はスペイン・バルセロナに移住して約45年、カタルニアの大地や地中海に浮かぶイビサ、フォルメンテーラ島のまばゆい光に魅せられ、力強い筆致と豊かな色彩で数々の名作を創り続けてきました。今回で9回目を数える個展ですが、まさに円熟の大原ワールドを見せてくれています。

地中海の青、石壁の白、ブーゲンビリアの赤...。その発色の良さと透明感に誰もが心を奪われます。画家本人は「40年以上も住み続け、光のまばゆさを追い求めていると自然にこんな色が出てくるのでしょう。」と言っています。

しかしスペインという情熱の国に永年住み続けていても、画家の持っている資質や考え方、絵の具の重ね方や筆致、ヴァルール(色価)の発揮の仕方など、様々な要因で色彩感に大きな違いが生まれるものです。

彼は専門の美術学校を出ていません(日大・商学部卒)。もともと絵が好きで幼少のころから絵は描いていたそうですが、スペインに渡ってから版画家のロサ・タルエジャ女史の下で本格的に絵画制作に取り組むようになりました。当時スペインにはフランスやイタリアにあるような芸術のアカデミックな教育環境はなく、独力で自らの芸術世界を切り開いていかなけばなりませんでした。

しかし災い転じて福となす。その自由な環境が行動派の彼にとってカタルニアの大地から自然の大いなる恵みを吸収する絶好の舞台になりました。

日本では感じることのできない、まばゆくからっとした光の魅力に取りつかれ、人物を描く上でも極端な光と影の効果を肌の表情に取り入れたり、道や樹木の肌には虫が蠢いているかのような線を描く、そんな独特の表現方法にたどり着きました。

そしてここ数年は地中海のどこまでも青く透き通った海の表情に魅せられ、青の魅力をあますところなく伝え続けています。

彼は雨や曇りの日、夜には絵筆を執りません。スペインの大自然で感じ取った生きた光を描きだすには、陽光の下で一番肝心な自分らしい色彩をキャンバスにぶつける必要があるのでしょう。

10年ほど前、ある末期のガンを患った女性が、彼が描いた浜木綿の咲く海岸風景を購入されました。「この絵を観ていると元気になれる気がする。残された時間を病室でこの絵とともに過ごしたい。」

大原画伯の光はまさしく生命の光。そうです。絵の持つ不思議な力は全身全霊で表現した生きた光、生命の光から湧き出でてくるのだと私は確信しています。ここに絵を描くということの本当の意味があるのかもしれません。
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絵について1

2016-01-15 00:38:41 | 日記
絵。約30年に亘り「絵」というものに携わっている私ですが、その不思議な魅力に驚かされ心を奪われつつも、その魅力を伝え続けていくことは至難の業であると感じています。

「絵」は「糸」へんに「会う」と書きます。糸を手繰り寄せるごとく、心を寄せる人と出会うもの。それが「絵」であるという、この文字を一体誰が考えたのでしょうか。本当に不思議です。画廊を経営していて、ああこういうことなんだなと実感したことは何度もありました。

私の画廊では企画展を年間約20回ほど開催していますが、扱う作品の数は年間1,000点近くになります。私にとってそのどれもが娘だと思う気持ちで大切に扱うことを心がけております。が、過去に扱っていた作品を全て覚えている(記録はしていますが)わけではありません。

或る日展覧会の準備をしていると、ひょっこり訪ねてきたお客様が、「2,3年前の春頃ここでこの辺に展示されていたこういう作品が未だに頭から離れないのですが、売れてもうないでしょうが、もしまだ残っていたら見せていただけませんか」とおっしゃいました。あああの作品かと思い出すのも一苦労なのにその作品をすぐに取り出してお見せすることなど想像もつかないことです。が、不思議なことにすぐ目のつくところにあるではありませんか。その作品を観て彼は「そうそうこの絵です。また会えました。」と感激され、購入されました。私は絵が売れることを「嫁ぐ」といつも呼んでおりますが、本当に大切に思っていただける佳き方のところへ嫁ぐこのような場面がこれまで何度もありました。

個展では毎度のように、一番の傑作と思う作品が会期の最後の方や終了後に売れたりします。そのお客様の100%が佳い絵を見抜く確かな眼と豊かな絵心の持ち主であることに驚かされます。ああやはりこの絵はこの方のところへ嫁ぐ運命にあったのだと。

16年前の開廊の折、ある老舗の画廊の社長に御挨拶に伺った時、「金井さん、佳い絵を扱い続けなさい。佳い絵は時間がかかるかもしれないが必ず佳い方に売れるよ。」と言われましたが、今本当にそれを実感しています。

また或る日私が最も尊敬していた画家のひとりが他界され、新作がもういただけないことにうなだれていたところ、先生と昔から交流を続けていた方から先生の作品が手元にあるので金井さんどうぞ扱ってください、と画廊に6点程持ち込まれました。箱から出してやはり佳い絵だなあと繁々と観ていましたところ、その時は展覧会など開催していませんので誰も来店するはずもないのに、ひとりふたり3人とお客様が入ってこられる。それも3人ともその先生の作品を私の画廊で購入されている方です。「えっ、どうして先生の作品がここにあるの」「えっ、どうして皆さんがいらっしゃったの」と狐に包まれた空気をはっきり覚えています。

この時、絵には不思議なパワーがある、絵は生きている、息をしていると感じました。その魅力を心底から感じる人と出会い、繋がるのです。

中島みゆきの名曲「糸」に「逢うべき糸に出逢えることを人は仕合わせとよびます。」とあります。佳い絵と絵をじっくり味わう人とが互いに出会い、紡ぐ。この仕合わせを作り続けることが私の使命であると思っています。
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こころの画家

2015-11-04 21:11:47 | 日記
企画展が多くその間に貸画廊を入れているので、休みが取れず多忙な毎日です。ブログもなかなか書けず情けない限りです。もう少し余裕をもって仕事をしなければいけないとは思っています。忙しいの「忙」は「こころをなくす」と書きます。絵を扱っている私が「こころ」のこもった仕事ができなくては芸術をサポートすることなど無理なことです。

近ごろマンションの杭打ちでデータを改ざんした事件が話題になっていますが、どんな大手のブランド企業であっても過密工程が人間の心理に及ぼすことをしっかりとコントロールできなければ、安全神話などいとも簡単に崩れてしまうのです。問題が発生した時点でそこにこれから住み続けるひとりひとりの生活と命を優先にする精神が確立されることが必要だと思います。急がばまわれ。経済やスピードより「こころ」なのです。

今日から「浅見哲一展-夜の終わりに-」がスタートしました。星・月・雲・樹・家といった愛しいものたちが繰り広げる、静かで澄み切った心象世界を描いた新作油絵を展示。

ナイーヴで詩的な画面には不思議な、人を惹きつける魅力があります。決してデッサンが上手いとは言えません。
華やかさも感じさせません。しかし良い絵とはデッサン力、上手いとうならせるよりも、いつまでも眺めていたいと思わせる「何か」が必要なのだ、と彼の絵は教えてくれます。その「何か」とはそれぞれの画家が持つそれぞれの「こころ」だと私は思います。

彼が40歳(22年前)の時に出版した詩画集「独想曲」のあとがきに「大気汚染、森林伐採、オゾン層の破壊さては薬物汚染、飢餓、核の脅威、エイズ等、地球的規模で我々の前にジワジワ忍びよる環境悪化、さらに経済至上主義、物的思考、人心荒廃etc...。東京が、あるいは日本が、何かによってメチャメチャになってもそれほど不思議ではないかもしれない。すこしだけ考えてもずい分他人事ではない上にボクたちは生きているのだ。」と書いています。純粋に詩や絵に取り組み、自己と社会を見つめ続けていくうちに抱く不安や苦悩。

50代には武甲山の麓、石灰石精製工場でのつらい三交代の仕事を終え、満天の星空を眺めながら静寂の夜を絵筆に託す日々。自己と社会との狭間で悩みながらも、孤独と正面から向き合い絵を描き続けることで今日まで生きてこられた、と彼は振り返ります。

ここに絵を描くことの本物の歓びがあり、浅見絵画に漂う得も言われぬ不思議な透明感の源を感じることができるのです。透明感とは画面に漂う空気の透明感と作家自身の「こころ」の透明感です。これこそが浅見ワールドの最高の魅力だと私は思います。

「こころ」の画家、浅見哲一の澄み切った世界に一人でも多くの方がじっくりと浸って欲しいと願っています。
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