『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く⑯

2018年06月09日 | 学ぶ

「自分で知っている」と云うことさえ、知らないんだよ

 MITの学生の頃だったが、みんなを煙に巻くのがおもしろくて、よくやったんだよ。いつだったか、機械製図の授業だったと思うんだが、お調子者が雲形定規―プラスチック製でなめらかな曲線を描くとき使うものだ、曲線ばかりで見かけが珍妙なやつだ―をもちあげていうんだ。「こいつの曲線には、何か特別な定則でもあるんだろうか?」。
 ぼくはしばらく考えて、「もちろん、あるさ。それらの曲線は特別な曲線だよ。見てろよ。」と云って、ぼくは自分の雲形定規を取りあげ、ゆっくり回しはじめた。「雲形定規は、どのように回転させようと、それぞれの曲線の最も低い点で、接線が水平になるようにつくられている」。
 クラスのやつらは自分の雲形定規をさまざまな角度にもち、それぞれの曲線にそって最も低い点に鉛筆をあて、接線が水平であるという事実を確認した。みんなこの「発見」に大興奮だったよ。だれもが既に微積分をかなりなところまでやって、「どんな曲線であっても、極小点(最低点)の導関数(接線)はゼロ(水平である)ということを知っているはずなんだよ。事実から関連を捉え類推することができないんだ。つまり、知っていることだって、実は知らないんだよ。(SURELY  YOU’RE  JOKING MR. FEYNMAN!  RICHARD  P. FEYNMAN  VINTAGE  BOOKS  p36 拙訳)

 
 ファインマンは当たり前のことを言っているだけなのですが、MITに行けるような学生が、自らの学習内容を「現実に即して」理解をしていない。「勉強(学習)はあくまで勉強」で、「日常生活に基本をおいて、つまり学習とはまったく関係のない(と思われる)ところで、その事象のしくみや成り立ちとの相互了解・共通理解がはかれていない、その能力が発達していない」ということです
 つまり「日ごろの生活はあくまで生活」であって勉強ではない。関連がとれない。「学習内容がそれらのあらゆるところから抽象され、そこに端を発していること」がまったく分からない、気づいていない―環覚が育っていない―というところが現在の学習問題の、比喩が適当かどうかわかりませんが、「大きなブラックホール」なのです

 勉強が『絵に描いた餅』にしかならず、その後の発展性がまったく見られず、自らを次のステージの研究や発明・発見に導く『栄養(!)分』にはならない。「とってつけた勉強」なのです。MITに合格できるほど頭脳が優れ、相当勉強した学生が、「抽象論」では分かっていても、「目の前の現象を自らが勉強した、その理論で『解釈』できない、表現できない」ということです
 ファインマンは、こう言います。
 

 みんな、どうしちゃったんだか。かみ砕いて理解して学んだのではない。何かほかのやり方、成り立ちやしくみをよく理解するのではなく、ただ「くり返すやり方」で学んでいるのさ。そんな知識は「絵に描いた餅」さ。(SURELY  YOU’RE  JOKING MR. FEYNMAN!  RICHARD  P. FEYNMAN  VINTAGE  BOOKS  p36~37 拙訳 なお、これらのファインマンの説は、岩波現代文庫の大貫昌子訳で読むことができます)
 
 つまり、地に足のつかない、「現物や対象」をイメージしない「勉強のための勉強」で育ってきた、そして育てようとしていることが、現状の学習指導を見ていると、ファインマンやエジソンの時代から約100年もたって尚、相変わらず続いて(しまって)いるということです
 ファインマンの著書を読む度、ぼくは「学習指導のしくみ」の持論に対する『精神的応援(!)』を得てはいますが、もともと、『環覚』や「学体力」という発想は、小さいころから貧乏な家庭で育ち、本も家庭教師も塾もほとんど関係ない中で、どうして『勉強をそれほど嫌いにならず』スムーズに進学できたか、とくに生物なんか先生を困らせるほどの質問ができたか? という単純な疑問から発したものです。今(もう約二十年前ですが)のこどもたちは、どうしてこんなに勉強(今思えば、ファインマン曰く、絵に描いた餅)をしなくてはならないのだろう。
 そこで得た(感じた―当時)結論は、ぼくは学習内容や学習対象について、特に生物や地学関連については、たいていの「もの」や「こと」に、まず自ら出遭っていることが多かった。なんせ、朝から晩まで裏山や近所の小川で遊びほうけていたので。
 「まず遊びの対象」としてその存在や生育や実態が身近で、工作や遊び(つまり触り、手をかけること)を通じてその性質や特性を知悉していた。教室でそれらが学習として出てきたとき、よく分かるのはもちろん、それらの対象の関連や抽象が即座にイメージできた。理解が行き届き、それが学習をすすめるモチベーションになったのではないか、という想像でした
 さらに成人後、教育界ではなく、まったくちがう仕事をさまざまに経験できたことも、「形」や変な「しがらみ」にとらわれない発想の助けになっているような気がします。

 ファインマンのような天才には足下にもつま先にも及ばない、アメーバーのような「おっさん」が子どもたちの学習と頭脳の成長を何とかできるだけよくしたいと頑張った試行錯誤と紆余曲折。その結果として「周囲のものごとに対する『環覚』が、子どもたちの学習や学習に対するおもしろさ・その発現のきっかけになる可能性が高い」という、「ファインマンやエジソンという実在の成長モデル」に出遭ったということになります。
 ニュートンやファーブルやマクスウェル・エジソンなどの成長過程をたどってみると、すべて自らの環境(多くは自然環境)に対して、その成り立ちやしくみのおもしろさに目覚めたので、それ以降の爆発的な学習量と能力発揮が実現したと想像できました。かく云う発想は、まず抽象から学習(勉強)に入った人には、なかなかなじみがない(わかりにくい)と思いますが・・・。そして大きな問題の根源もそこです。

 MITに入学できるような人たちは相当能力が高く、やがて科学者になったり専門分野で優れた活躍する人なのでしょう。「みんなどうしちゃったんだか。よくかみ砕いて理解して学んだのではない。何かほかのやり方、成り立ちやしくみをよく理解するのではなく、ただ『くり返すやり方(つまり理解ではなく、ほぼ暗記)』で学んでいるのさ。そんな知識は『絵に描いた餅』さ。ファインマンが云うと、一般のエリートは、先述のように、こうなります。
 一方で、一般的な人たちはどうでしょう? 
 
 まあ、みなさんも経験からよくご存じだと思いますが、人々、平均的な人々つまり大多数の人々は哀しいことに、また残念なことですが、自分たちが生きているこの世界の科学というものについてまったく知らないのですが、そんなふうであっても生きていくことができるわけです。(The Pleasure of Finding Things Out RICHARD  P. FEYNMAN p102 拙訳)
 

 そして、
 
 ともあれ、ぼくはどうして人々がそんなにも情けないほど無知なままでいることができ、現代社会の難題の真相を究められなくても生きていけるのか、という質問に答えたいと思います。
 その答えは科学が取るに足りないものだからです。どういう意味かはすぐ説明しますが、「そうであってよい」と言ってるわけではなく、わたしたち科学者が、社会にとって(科学を)取るに足りないものにしてしまっているのです。この問題については後で戻るつもりです。(The Pleasure of Finding Things Out RICHARD  P. FEYNMAN p103 拙訳)
 
 一般人の多くは、科学なんぞに「脇目もふらず」日々の生活に邁進し、一方『勉強をする人たち』は「抽象の教科書で抽象を頭に入れていく」ということでの『上っ面科学の輪廻転生(?)』が延々と続いている、というのは言い過ぎでしょうか。
 科学は決して「とるに足りないもの」ではありません。「(科学は)考えると、おもしろく夢中になれるもの」、MITの学生たちのような「『知っている』という誤解」ではなく、ほんとうに知ること・わかることで「名実ともに」計り知れない恵みを人生に対してもたらしてくれるものなのに・・・というファインマンの裏の気持ちを、彼の発言から読みとらなければなりません
 「一般人」はほとんどテレビ番組のクイズの答えとしての『科学の些末な結果や現象の映像』に驚き、「エリート」は抽象と数字を操作して理解と暗記を進めている。ごく単純に要約すれば、これが科学と科学教育の現状のアウトラインです。いずれにしろ、『社会』では一般人やエリートともども、『現象や現物』とは直接関係のない(関連が読みとれない)科学(指導)に終わっている。
 学習対象や学習内容を周囲や環境のあれこれになぞらえる機会はなく、解釈したり、理解したりすることはほとんどありません(できません)。一部の意識の高い家庭や指導者に恵まれた環境でしか、「科学(教育)が成立していないということなのでしょう。この感覚のギャップをとらえなおし、指導の方法や内容を精査すれば、もっとすごい子どもたちの成長がはじまる(見られる)のではないか。そう考えます

 


「自分で知っている」、「分かる」とはどういうことか

 先の雲形定規のファインマンの説明にもあったように、曲線と接線の関係を机上やテキストや受験問題で知っていても、ふだん実際にその学習内容が内在する現物を見たときにも、学んだ学習内容で対象を解釈・理解できなければ、それでイメージできなければ応用が利かず、発展もありません。
 つまり、「結局はわかっていないし、知らない」ということになります。受験指導で、いくら知識や要領を難関レベルに積みあげても、所詮ファインマン例示のMIT学生の「接線どまり(!)」というわけです。今、多くの子どもたちの学習指導は、この「接線(!)」までで、それ以上の指導や方法論が、教える側の脳裏に浮かぶことはないのではないか?
 ファインマンの曰く「『知っていること』を『知っている』」レベルまであげるにはどうすればよいのか、つまり、どう教えればよいのか? ぼくの実践する立体授業や課外学習も、同種の発想から問題を解決しようとしたものです。

 ファインマンが小さいころ、森での散歩で一羽の鳥を見てその生態を考えさせるお父さんが言った問いかけ、『名前を知ったからと言って、おまえは何も知ったわけじゃない』『それより、もっとよく見てみようや』から、子どもたちへの指導のヒントを読みとりましょう。
 ファインマン一家はよくニューヨーク近郊の人たちの避暑地になっているキャッツキル山地に出かけたようです。家族連れの大賑わいで、お父さんたちはウィークデイには勤めに戻り、週末にまた家族と合流するというパターンでした。  以下、拙訳で紹介します。

 親父はやってくると、ぼくを森での散歩に連れだし、森で起こるさまざまな興味深いできごとを教えてくれるんだ。それを見ていた他の母親連中は、もちろんすばらしいことだと思うわけだ。だから父親たちに子どもたちを散歩に連れ出すよう働きかけるのだが、どうも協力的ではない。だから、ぼくの親父にみんなを一緒に連れて行ってくれるように頼みにきたんだ。だけど、親父はぼくと特別な関係を続けたかったので、ウンと言わない。ぼくと親父の個人的なやりとり(質疑応答・注南淵)があったからね。(The Pleasure of Finding Things Out  by Richard P. Feynman PENGUIN BOOKS  p4  拙訳)
 ファインマンのお父さんに子どもたちの同行を断られた母親たちは、結局父親たちを説得して子どもたちを連れ出させます。そして翌月曜日、子どもたちみんなが野原で遊んでいると、その中のひとりが、見つけた鳥を指さしファインマンに、「何という鳥か答えてみろ」とたずねます。
 ファインマンは「いやまったくわからない」と答えます。すると、彼は「茶首ツグミだ」とか何とかいいながら、「何だよ、お前の親父は何にも教えてないんだな」と毒づきました。
 だけど、実際はまったく逆だったんだよ。ぼくの親父はちゃんと教えてくれていた。
 何が「逆!」だったのか? どう教えていたのか? そこがたいせつです。
 以下、“What Do You Care What Other People Think?”(Richard P Feynman as told to Ralph Leighton  W.W.Norton & Company,Incp13~)の拙訳で紹介します。
 

 ファインマンのお父さんは鳥を見て、あの鳥は「スペンサー虫食い」(ここでファインマンはお父さんが実際の名前を知らなかったのだろうが、とコメントしています)っていうんだ、まぁイタリア語で何とか、ポルトガル語で、中国語で、そして何と日本語まで持ち出して「でたらめの名前」を並べて、最後にファインマンに言います。
 これでお前は、あの鳥の名前を世界中のことばで知ったわけだ。だけどそれが済んだからといって、お前はまだあの鳥について何にも知っちゃいない。ただ世界のあちこちに人がいて、あの鳥のことを何て呼んでいるのかがわかっただけだろう。だから、まずあいつをよく見ようや、奴が何をしているのかを見よう。たいせつなことは、そのことなんだよ。
 親父は言うんだ。「たとえばだ、見ろよあの鳥を(例のスペンサー虫食いが、しきりに羽をつついていたんだよ)。あの鳥、歩きまわって、羽をつついているだろう?」
 「あぁ」
 「どうして羽をつついていると思う?」(前掲書・14p 拙訳)

 お父さんに鳥が羽をつついている理由を聞かれたファインマンは、
 
 「そうだね、たぶん、飛んだとき羽がぐちゃぐちゃになったんだよ、だからまっすぐに整えるためにつっついてるんだよ」
 「わかった、もしそうなら、飛んでいたすぐ後、何度もつっつくはずだな。それに、しばらく地面にいた後は、そんなにつつかないことになるな・・・言ってることはわかるだろう?」
 「わかるよ」                            
 「じゃあ、着地したときに、何度もつつくかどうか、よく見てみよう」
 言うまでもないことだが、歩きまわった後と、着地したすぐ後では、たいしたちがいがなかった。 だから、ぼくは言ったんだ。
 「まいったするよ。どうしてあの鳥は羽をつつくんだい?」(前掲書14p 拙訳)

 世界中のことばで鳥の名前を知ったからといって何もわかったことにならない、といったお父さんは、まず「対象」に注目することを教えます。「(ちゃんと)見たこともないものの名前や名辞、つまり「抽象」を子どもたちに詰め込んでも、興味が立ちあがり、おもしろさが始まることは期待できない」ということをお父さんはよく知っていたのです。
 ここからがお父さんの真価です。お父さんは、こう「なぞ解き」をします。

 「それはなあ、毛ジラミが悩ますからさ」。親父はいうんだ、「毛ジラミたちが羽からはがれ落ちる蛋白質のクズを食べるんだ」。親父はつづけて「毛ジラミたちは脚にロウのようなものがついてるから、今度は小さなダニたちがそれを食べるんだ。ダニたちはそれを消化しきれないので、ケツから糖のような物質を出す。それでバクテリアが育つんだ」。
 そして、最後に、「これでわかっただろうが、食べ物になるものがあるところには、それを見つけ出す何らかの生きものがいるんだよ」なんて、付け加える。
 まあ今思えば、ほんとうは毛ジラミなんかではなかったかもしれないし、毛ジラミが脚にダニを飼っているなんてこともないかもしれない。あの話は細部にこだわれば正しくなかったかもわからんが、話していたことの原理は正しいんだよ」。(前掲書14~15p 拙訳)

 「食物連鎖」が先にあるのではありません。子どもたちが動物園を喜ぶのはなぜですか? 鳥たちの生態が先にあるのです。生物たちの弱肉強食の姿が先にあるのです。子どもたちにはクワガタやカブト虫の戦いやカマキリがバッタを捕まえるようすが先にあるのです。光の三原色や色の三原色が先にあるのではありません。虹や夕焼けが先なのです
 また、ファインマンのお父さんの子どもに対する問いかけは、子どもの思考や関連をとらえるはたらき、イメージを導入する頭のはたらきに大きなアドバンテージをもたらします。
 「なぜ」「どうして」という不思議の喚起は、子どもたちの「考える」という行動を促します。質問をぶつけることで、相手の考えるきっかけを育みます。問題や観察に対して、主体的・能動的・積極的になります
 しかし、こうした問いかけは、中・高になってしまうとうまく機能しなくなって(しま)います。現状中高生を「良心的に」指導している先生方には同時に悩みの種でしょう。
 そうです、こういう習慣は経験上少なくとも4・5年生までの学習指導で身につけておかなければなりません。だから小学校中学年前の体験授業や立体授業が、とても大切なのです。そういう学習姿勢は、年齢を重ねる度に形成されにくくなります。鉄は熱いうちに打て、です。
 問題を提示し、相手の答え(考え)を要求すること(「なんでやとおもう?」)で主体的・積極的な頭のはたらきを促します(何も科学者への道筋ではありません。頭のはたらきの強化という意味です)。
 発言や発表を求めることは、自分の考えをまとめる、つまり考えを整理するので、理解が整います。さらに、その発言や発表に対して、謎や疑問点を問いかけることで、考察の深化がともない関連の拡大イメージが広がります。
 考える、ということはこういう経緯を経て発達するはずで、ファインマンのお父さんは、自然現象や周囲の事象に対して、こういう「意識せぬ(おそらく)」強化指導を日々繰り返していたことになるわけです。 
 雲形定規に対するMITの(一見)エリート学生の反応とは全く異なる、ファインマンの現実に即した超天才は、実は、これらの「何気ない(!)日々のトレーニング」に拠って築きあげられたものだと考えられます。
 「自分で知っている」、「分かる」とはどういうことか。ファインマンは、それこそ「知らない間に」「知っているということ」が身をもってわかっていたということです。そういう発想・学習・研究スタイルの人として育っていたのです。
 ぼくは子どもたちに、日々「それは結局どういうことなん?」「なんでや?」と問いかけることを「日課(?)」としています。

 さいごに、ファインマンの妹、物理学者のジョーン・ファインマンのことばを紹介しておきます。
 
 わたしは長い間、物理学の世界では誰もが物理学を兄のように理解しているものだと思っていたの、わたし以外はね。リチャードは、何といったらいいか、物理学がからだの一部になっているの。ちょうどわたしたちがここに椅子があるってわかるのと同じように、物理法則やそのはたらきがわかっていたのね。そう、からだの底からの、総合的で深いわかり方なのよ。他の人たちもそうだと思っていたんだけど、今までそんな人にあったことがないわ。他の人にもこのことについて話してみたの。電気とか磁気の方程式のように、何かを説明する方程式のことはわかるのよ。でも何かがどう振る舞うかを理解するために彼らにはその解が必要なの。リチャードは直観力が発達していたので、解が何であるのかすぐわかったの。("No Ordinary Genius" Christopher  Sykes  W・W・NORTON p126拙訳)
 
 リトルファインマンをたくさん育てましょうね、みなさん。


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