ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

無用の優しさ

2016年01月22日 | 通信-その他・雑感

 近所の大先輩農夫、N爺様の姿が見えない。去年12月の初め頃久々に会って、ユンタク(おしゃべり)したが、それ以前の一ヶ月余り、爺様は畑に来なかった。
 「久しぶりですね、体の調子でも悪いのかと心配していましたよ。」
 「体は歳相応に傷んでいる、左肩が上がらないよ。」
 「大丈夫ですか?」
 「うん、畑仕事に支障はない。むしろ、畑仕事をやっていると気分がいいし、元気になる。毎日でもやりたいんだが、息子に止められている。」
 その日以来また、爺様は畑に来ていない。先日、近所の先輩農夫Nさん(N爺様の隣の畑の持主)とユンタクした時そのことを話すと、「それは私も聞いたよ、息子は父親の事を心配してからかもしれないが、年寄りは引き籠っているより、外に出て体を動かしている方が健康になるし、幸せだと思うんだがなぁ」と語った。父親の身を案じての優しさなら、他人が文句を言えるものではないが、監禁では無いことを祈っている。

 優しさが却ってあだになるってことは、よくあることだと思う。と思って、その実例が無いかと私の過去を振り返ってみたが、何も思い出せない。子供の頃周りの大人たちに優しくされたけど、それはあだにはならず、私に優しさを教えてくれた。優しさがあだになる、大雑把に言えば、過保護な子供が我が儘に育つってことだろうか。
 私の子供の(私に子供はいないが、いたとしての一般的な)世代には、ナイフで鉛筆を削ることを「危ないから」とさせてもらえなかった人もいると聞いている。そういった過保護が過ぎて、まさかとは思うが、例えば、「外は交通事故や誘拐など危ないから、家の中で遊びなさい」と言う母親がいたりして、そのせいで子供がオタクになるかも。
 「外は危ないから」というのは、果たして優しさなのだろうかと疑う。90歳のN爺様が片道40分を歩く。車が危ないかもしれない、心筋梗塞で倒れるかもしれない。でも、楽しくない10年を長生きするより、楽しい5年を生きて死んだ方が増しではないだろうか?息子による老父への外出禁止令は、要らぬお節介、無用の優しさだと私は思う。
          

 話変わって、先週月曜日に帰郷した弟は、金曜日に千葉へ帰った。その間、会ったのは火曜日と木曜日だけ。生まれ育った沖縄だ、行きたいところがあればレンタカーを借りるなり、バスに乗るなり自身でできるだろうと判断したからだが、弟はその間、ホテルの近く、平和通りや国際通り、そして、実家の周辺を散歩しただけと後で聞いた。
 そう聞いたのは木曜日の夜、飲み屋で一緒に飲んでいる時。無口な弟は、他人とはほとんど口をきかない。私とはまあまあしゃべるが、それでも口数は少ない。
 そんな口数の少ない弟が珍しく自分から話を切り出した。端折って書くと、「定年後沖縄に住む計画は無し、女房が千葉を離れたくないと言う。なので、土地探しはしなくていい。俺が死んでも困らないよう千葉にマンションを買って、それを女房に残したい」とのこと。今回の帰郷の目的はそれを伝えるためだったようだ。
 自分から土地探しを頼んでおいて、それを止めるなんて言い辛い、という弟の優しさなんだろうが、それは無用の優しさである。「早よ言えよ、土地探しにはまあまあの時間をかけたぞ」と私は思った。でも、女房想いの価値ある優しさに免じて許した。
          
 
 記:2016.1.22 島乃ガジ丸