ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

形振り構わぬ主張

2015年07月10日 | 通信-沖縄関連

 私は、生業としている畑からの収入がほとんど無く、たまにやるアルバイトも年間で数万円の稼ぎしかないので「貧乏人である」といっていい。この先も細々とした暮らしを続け、大病や大怪我などで長期入院を要するようなこと、あるいは、不注意から交通事故などで他人を怪我させるようなことが無ければ、生命保険を解約した金で、あと数年は生活できる。なので、「貧乏人である」の前に「日本人の中では」と入れ、「貧乏人である」を「貧乏人の方である」と言い換えた方がいいかもしれない。こんな貧乏でも生きていける、日本は良い国だとつくづく思う。これからも良い国であってくれと願う。

 「こんな私でも」と書いたが、私はけして(自己評価だが)怠け者では無い。どちらかと言うと、むしろ働き者である。働き者だが、金稼ぎ者では無いだけである。「細々とした暮らし」と書いたが、外へ飲みに行かない、食いにも行かない、1日の内の1食は畑の芋で、畑の野菜も大いに利用しているなどといった点では「細々」言えるが、家賃、光熱費、通信費、ガソリン代などに毎月5~6万円は使っているし、食料も肉魚、豆腐、お菓子などに1~2万円、発泡酒や泡盛、煙草といった嗜好品にも1万円は使っている。なので、「細々とした暮らし」も「日本人の中では細々とした暮らし」となる。
 衣食住の内、衣の方は今のところ最も「細々」である。実家にあった父や弟、甥達の衣類を持ち帰り、その内のいくつかはもう既に利用している。そのお陰もあって、ここ数年では作業ズボンと作業着も兼ねたTシャツをいくつか購入したのみで、普段着のジーンズも滅多に買わないが、アウターなど他の衣類はもう何年も購入していない。

 穴の開いた、またはヨレヨレとなったパンツや靴下をはくのは、それらは外から見えるものでは無いので私は元々平気である。穴の開いた、または襟や袖がヨレヨレとなったTシャツも着ている。「浮浪者のようだ」と見られても平気になっている。収入のほとんど無いオジサンは形振り構っていられない、「浮浪者でもいいよ」と諦めている。
          

 形振り構わないといえば、家から畑への通勤途中、交差点の角に気持ち悪い内容の宣伝幕がしばらく前から掲げられている。「米軍を撤退させ、沖縄を中国領にする」と大きな文字で書かれている。その文の上に「翁長知事、驚きのホンネ暴露」とある。翁長知事がそんなこと言ったのかと思ったが、「翁長知事へのスピリチュアルインタビュー」と下段にあり、翁長知事が実際に言ったことでは無いようだ。「霊的手法でホンネを引き出したぞ!」と罰当りな輩の戯言のようだ。どこぞの宗教団体が掲げたもののようだが、スピリチュアルなんて言葉を使って相手を誹謗するなんて、恥ずかしいし、見っとも無いし、神を冒涜するものだし、形振り構わぬ自己主張、形振り構わぬ攻撃だと思う。
 「沖縄を中国領にする」については、実は、数ヶ月前に友人のFからもそのようなことを聞いている。Fは信頼できる人だが、私は「沖縄を中国領にする」は荒唐無稽な話だと思った。そんなこと米国が絶対許さない、日本国も許さない、国連も許さない、それより何よりウチナーンチュが絶対許さないこと。ボロを着て農作業をし、ボロを着たまま買い物にも行く形振り構わぬ新米農夫は、知事の狙いが「中国領」では無いことを確信している。彼を動かしている情熱は他にある。字数も尽きたので、それはまたいつか。
          

 記:2015.7.10 島乃ガジ丸


千年生きる細胞

2015年07月10日 | ガジ丸のお話

 畑の駐車場は1台分しかなく、そこには私の車を停めている。よって、畑を訪れる人達は路上駐車となる。近所の先輩農夫Nさんは私の畑をちょっと過ぎた場所に車を停め、従姉のTや知人のK社長は私の車の前に停め、北側通路を通って小屋にやってくる。時々暇つぶしにやってくる友人のMや、まれにやってくるその他の友人達は畑の北側通路と南側通路の中間辺りに車を停め、彼らも北側通路を通って小屋にやってくる。
 畑への訪問者のほぼ全てが北側通路を使うのだが、時々顔を出す友人のKだけは畑の南寄りに路上駐車し、南側通路を使う。ところがある日、南側通路の扉を誰かが開けるのに気付き、作業の手を休め、顔を上げた。Kでは無い。K以外にその扉を開ける人はこれまでいなかったので、「おや、珍しいこと。誰だ?」と立ち上がって、そこに目をやると、若い男女2人が扉の傍にいた。見慣れぬ車が南側通路の近くに停まっていた。
 「すみませーん、入っていいですかー?」と、男が私の方に手を振って、大きな声で言った。「もう、入っているじゃねーか」と思いつつ、私は大きく肯き、手招きした。

 若い二人は笑顔を見せながら小屋まで来て、私に会釈をし、
 「少し話をしたいんですが、よろしいでしょうか?」と男が訊いた。
 「うん、何でしょうか?宗教関係なら時間の無駄だと思うけど。」と私は答える。
 「率直に言いますが、我々は、地球人が言う所の宇宙人です。」
 「本物の?宇宙人?アンドロメダからやってきたとかの?」
 「本物です。地球と同じ銀河系に我々の星はあります。」
 「まあ、とにかく、そこへ腰掛けて」と私はベンチを指差し、彼らが腰掛けると、「宇宙人はコーヒー飲む?インスタントだけど。」と訊いた。
 「ありがとう。頂きます。地球の食べ物や飲物、ほとんど摂らないのですが、慣れてはいます。地球に来て永い・・・何年になるかなぁ?」と、男が女を振り向いた。
 「地球の時間で言えば20年位になるはずよ。」と、女が答える。
 「えっ!2人ともまだ30にならない若さでしょう?子供の頃に来たんだ?」
 「いえ、我々の時間では2年しか経っていないんです。」と男。
 「そうなんです、地球の時間で言えば、我々は300歳近いんですよ。」と女。
 「??????????」と、しばらく私。
     
 ?????しながら私はお湯を沸かし、紙コップにホットコーヒーを3つ作り、それぞれの前に置きながら、「砂糖要る?」と2人に訊いて、「要らないです」という男の顔と首を横に振る女の顔を交互に見ながら、やっと言葉が見つかった。
 「時間の流れるのが遅いんだ、10倍も遅いということなんだ?」
 「そういうことです。何故そうなのかはよく解っていないです。」
 「いないですって、さっきから2人は敬語を使っているけど、私よりずっとシージャ(年上という意の沖縄語)じゃないですか、シージャというか、遥か遠くのご先祖様じゃないですか、私にはタメ口でいいんでしょう、私が敬語でしょう?」
 「いや、言葉使いはそのままにしましょう、見た目若いですし、実際にも我々の世界ではまだ若輩者の2人です。それに、地球ではあなたが人生の熟練者です。」
 「そうですか、なら、お言葉に甘えさせて貰うけど、ところでさ、時間の流れが10倍遅い所でさ、いったい何歳位まで生きるの?」
 「寿命は地球人とほぼ同じで、だいたい100歳です。」
 「地球の時間で言えば、1000歳ということ?」
 「そうなりますね。」
 「1年が3650日ということ?」
 「そういうことでは無いと思います。我々の細胞の老化が10倍遅いみたいです。」
 「何故そうなのか?を調べるために私たちは地球に来たのです。」と横から女が言い、 「一人でのんびり生きて、自然のものを食べているとそうなるのかと思って、今回、あなたを訪ねたという訳です。」と、ニッコリ笑った。その時、美人だと気付いた。

 「のんびり生きてりゃ長生きするかもしれないが、それでも100歳だよ。」
 「他にもあります。空気です。この辺りは良い空気が流れていると私は感じます。良い空気が元気を与えるのではないかとも考えています。」と美人が言い、
 「実は、我々は地球人ほど消化器官を使いません。地球人が1回で食べる量は我々の10回分以上にもなります。何でそんなに食べたり飲んだりしなきゃいけないんだと考えた時、空気のせいかもと想像したのです。呼吸する空気の中に、我々の星には多くあるけど地球には少ない物質があるのではないかと。その物質は呼吸で体内に入るとエネルギーになり、その分、我々は消化器官をそう使わずに済んでいるのではないかと。」と男が続けた。
 「はぁ、それ、何かに似ている・・・何だっけ?・・・そうだ、仙人の霞だ。」
 「仙人の霞ですか、私も何かの本で読んで知っていますが、なぁ?」と男は女を見る。
 「アニメの亀仙人とか鶴仙人とか面白いですが、実際の仙人っているのでしょうか?我々もずっと探しているんですが、まだ見つからないです。」
 「そうなの、探しているんだ。さすが仙人、人目に付かない所にいるんだろうな。」
      
 以上、若い2人が訪ねてきた以降は私の作り話、「宇宙人の若い2人が畑に来て、自分たちの寿命が1000歳であるなどといった話をした」という夢を先日見て、「呼吸する空気の中に、我々の星には多くあるけど地球には少ない物質がある。それが長生きの源かも」と宇宙人の男が語ったところで目が覚めている。目が覚めて、ベッドの上でぼんやりと今見た夢を反芻し、続きを妄想し、それを文章にしながら細かい所を脚色した。


 この夢について後日思ったことがある。ガジ丸通信の記事にしようと思ったが、夢の説明が必要だし、私の妄想に過ぎないので止す。また、「千年生きる細胞前編」、「千年生きる細胞後編」と分けるほどの内容でもないので、長くなるが、以下に掲載。


 私は「旅こそ人生」と思うくらい旅が好きで、2006年までは年に2~3回の旅をしていた。旅したい場所は県外の国内で、沖縄とは違う景色、匂い、食べ物、土地の人との会話(日本語のみ)が好きで、よって、旅先はほとんど県外の国内であった。3~40年の間に他府県の多くを訪れている。まだ行っていない県は青森、秋田、三重、和歌山、徳島など数えるほどしか無い。そこらもいつかは訪れたいと願っている。
 まだ行っていない地域はもちろん、数多くある。もちろん、未踏の市町村をくまなく巡りたいなどと大それた野望は持っていない。ただ、ここだけは死ぬまでに訪れてみたいと思う場所はいくつかある。いくつか・・・すぐには出てこないが、例えば三重県熊野、宮崎県高千穂、・・・不信心の罰当り者の私は、神が人間を造ったのでは無く、人間が神を造ったと考えているので、何故神は造られたかに少々興味があるのだ。
 死ぬまでに訪れてみたいと思う場所で、すぐに出てくる場所が一ヶ所ある。それは鹿児島県屋久島。特に、そこにある縄文杉に会いたい、会って、触れてみたい。
     
 私の家系は長生きでは無い。父方では伯母の1人が90歳を超えた今でも健在だが、父は79歳、父の他の姉たちも日本人の平均寿命は生きていない。父の生母は若くして亡くなり、祖父は73歳で亡くなっている。私も長生きしたいとは思っていない。長生きしたいとは思っていないが、生きていることの不思議には常々畏敬している。
 縄文杉、推定樹齢3000年とのこと。大地と空気と雨と太陽という自然の恵のみをエネルギーにして3000年も生きている生命体である。3000年も生きていたらこの世はどう見えるんだろうか?もしも、縄文杉に触れて、その幹に耳を当てて、彼が生きているという証拠である音を聴いたなら、私は何かを感じられるであろうか?

 以下は科学的根拠のない私の妄想だが、おそらく植物は、大地と空気と雨と太陽という自然の恵のみをエネルギーにしているから長生きなのであろう。自然の恵から生まれた植物は生きる力を持っている。その力は大きい、それをエネルギーにするためにはある特別の犠牲を要する。植物をエネルギーにしている動物の生きる力はさらに大きい、その動物をエネルギーにしている動物の力はもっと大きい、それらをエネルギーとして消費するためにはさらに大きな犠牲を要する。犠牲とは、細胞の老化ということである。
 と考えると、人間も大地と空気と雨と太陽という自然の恵のみをエネルギーにして暮らしたら千年ほど生きるかもしれない。人間の細胞そのものは、じつは、千年ほどは生き延びるようにできているかもしれない。モノを食っては細胞の力を弱め、恋をしたり、セックスしたり、子供育てたり、汗流して働いたり、憎んだり傷付けたり、笑ったり泣いたりなどしては自分の細胞の力を弱め、寿命を縮めているのかもしれない。

 不老不死とも言われている仙人は霞を食って生きているらしい。霞は空気と言い換えても良かろう、空気を食べて生きているのだ、ならば、不老不死とまでいかないにしても千年くらいは生きるかもしれない。長生きしたいとは思わない私だが、千年なら生きてみてもいいかなと思う。何しろ食べなくていいのだ、雲子もしないのでトイレも不要だ、楽である。でも、それで楽しいのかどうかは疑問、酒が飲めなけりゃ何の人生とも思う。
     
 記:2015.7.10 島乃ガジ丸 →ガジ丸のお話目次