仏典、聖書、ジョージ・アダムスキー氏により伝えられた宇宙精神文明(空=言葉=天の父=宇宙の英知=真如=法・ダルマ=灯明)

ワクチン薬害、祈りの科学的研究、人体構成分子によるオーソモレキュラー医学、医学の大罪、太陽系惑星文明の科学的証拠

聖書に見られる他の惑星からの宇宙船と宇宙人に関する記事

2018年03月29日 19時47分19秒 | キリスト教 聖母の預言
アダムスキー氏の著作より、聖書に見られる他の惑星からの宇宙船と宇宙人に関する記事を抜粋しました。

新アダムスキー全集6 UFOの謎 単行本 – 1990/11/1
ジョージ アダムスキー (著), 久保田 八郎 (翻訳)

第10章

聖書とUFO (1)


 私が最初に出した二冊の書物『空飛ぶ円盤は着陸した』と『驚異の大母船内部』(訳注=以上の二点を一冊にまとめた日本語版が新全集第一巻『第2惑星からの地球訪問者』)を読んだ多くの人々が次のような質問を寄せてきた。つまり他の惑星に人類が住んでいるとするなら、なぜその人類のことが聖書に記されていないかというのだ。異星人は聖書時代における彼らの来訪について何度も私に語ってくれたので、私はこの問題をかなり研究してきた。
 多年のあいだ哲学と科学の学徒として私は他の惑星にも人類がいると教えてきた。これは私が円盤を見たりその乗員と個人的なコンタクト(接触)の喜びにあずかるよりもかなり以前のことだった。私と異星人との会見をきわめて異常な事だとみなされてはいけない。私と同じタイプのコンタクトを体験した人は他にも多くいるからだ(私は多くの心霊的な自称コンタクトマンのことを言っているのではない。私の言うコンタクトマンたちは自分の体験を公表してはいないのだ)。こうした他のコンタクト事件類は世界のいろいろな政府に知られている。そして現在”UFO”は嘲笑的な考えで見られているために、その正体は明かされないままになっている。一方、政府側はUFOが世界に対して正体を現す日にそなえて研究をし準備をしているのである。彼らはこれまでに得た知識を大衆に伝えはじめるだろう。そして大衆は突然目覚めて、数千年を通じて作り上げられてきた誤った概念に従っていたことや、みずからの閉ざされた心によって隠されていたことに気づくだろう。

ヘブル人への手紙

 聖書を注意深く研究すると、宇宙からの訪問者たちに関する多くの報告が明るみに出てくる。実際、ある牧師が私に語ったところによると、彼はそのような記事を三五〇カ所以上も発見したという。聖書ばかりでなく、他の偉大な記録類もその訪問者たちの来訪に言及している。なぜ訪問者たちのことが記してないのかと質問を寄せた人々のほとんどは、実際の記録に関して知らされていなかったにすぎない。宇宙から来る訪問者が聖書の中でどのように記されているかを私がお伝えしようとし、現代でも異星人がそうしようとしているように、古代でも世界の各種民族に指導の手を差し廷べたことは異星人にとってあたり前の習慣だったということは、以上の考えにもとづくものである。
 そこでいまわれわれに思い出させる最初の数節の一つが『ヘブル人ヘの手紙』1・2に見い出される(訳注=ヘブル人というのはヘブライ人すなわちユダヤ人のこと。ヘブライ人はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であると称する、古代パレスチナに住んでいたセム族の一派。『ヘブル人ヘの手紙』は身許不明の一信徒が紀元八〇年頃にローマ教会の一団体に宛てて書いたといわれるもので、新約聖書に含まれる一篇、一三章から成る論文と勧告文。イエスを『大祭司』と呼、その十字架による贖罪により、旧約の儀式や祭司制度などで象徴される案約は新たな教いの契約に代わったと説き、当時としてはかなり進歩的な思想を示している)。
「この終わりの時には御子によって私たちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また御子によってもろもろの世界を造られた」
 これは一つ以上の多くの惑星に関する明確な引用である。同様の概念が『ヘブル人ヘの手紙』 11・3に示されている。「信仰によって、私たちはこの世界が神の言葉で造られたのであり、したがって目に見える物は現れている物から造られたのではないことを悟るのである」
 ここでもまたわれわれは一つの世界以上の惑星に関する別な引用を見い出すのである。これらの別な世界に人類が住んでいるとは言っていないけれども、しかしそれは聖書時代に他のもろもろの世界が知られていたという証拠となる。
 聖書時代のこれらの人々は、各世界が「現れていない物から造られた」ことに気づいていた。各惑星は不可視な状態から可視的な状態に──すなわち原因から結果に──なったのである。この考えは太陽系の起源に関して今日の最も進歩した概念と一致する。

ヨハネによる福音書

『ヨハネによる福音書』 14・2に次のような記事がある。
「私の父の家(大宇宙)には館(惑星)が沢山ある。もしなかったならば、私はあなた方にそう言っておいたであろう。私はあなた方のために場所を用意しに行くのだ」
 これは、もしわれわれが別な世界ヘ行けるほどに進歩して、主が(イエスが)述べたとおりに生きることができるならば、主はそうしてくれるのだということを明確に示すものである。このことは次の第三節にも示されている。
「そして私が行って、あなた方のために場所の用意ができたならば、また帰って来て、あなた方を私の所に迎えよう。私が居る所にあなた方をも居らせるためである」
 キリストが彼の世界の唯一の住人であったと考えるのは不合理である。彼の惑星には無数の幸福な人々がいて、それらが定期的に地球ヘやって来たときは天使とみなされたに違いない。

イエスは現身のままで天空ヘ運び去られたと教えられているが、これこそ大気圏外のどこかに生命を維持することのできる惑星が存在する証拠である。キリスト自身は彼が他の惑星から来たという充分な証拠を示した。『ヨハネによる福音書』8・23 に次のような記事がある。
「イエスは彼らに言われた。『あなた方は下から出た者だが、私は上から(大気圏外から)来た者である。あなた方はこの世の(地球の)者であるが私はこの世の者ではない』」
 これはわれわれはこの世界の者でそこから生まれ出たことを示している。しかしイエスはこの世界で生まれたけれども、この世界の者ではなかった。彼は他の世界から(別な惑星から)ここヘ来たのである。これは程度の高い惑星の人間が志願してこの地球で生まれかわったことを意味する証明の一つである。これは精神的進化の階段をまだ登りつつある人類を導き援助しようという特殊目的のためである。
 われわれはキリストのようになることができ、しかも彼より偉大な物事をなすことさえできると聖書で教えられている。彼は多くの兄弟の長子である、そしていつかわれわれの多くもキリストと同じ状態に達することができるとも教えられている(『ローマ人ヘの手紙』8・29)。
 これは宇宙から来た訪問者が地球は小学校の第一学年のようなものだと言った内容と完全に一致する。われわれが次第に高く進化するにつれて一学年から二学年ヘ、さらに三学年ヘと進級するように、惑星間を次々と進級してゆく(生まれ変わってゆく)のである。われわれは学年から学年ヘ、惑星から惑星ヘと進んで行くのだ。

気づかないで天使をもてなしている

 この地球でなおも進歩しようとしている人々を援助しようとして、地球ヘ帰ることを希望する人々がいる。これはわれわれが外国ヘ宣教師を派遣するのときわめてよく似ている。イエスがやったように地球で生まれ変わることを選ぶ人もあれば、宇宙船でやって来て地球人の一人として生活することを選ぶ人もある。
 他の惑星に人類が住んでいるという直接の証拠が聖書にある。『創世記』6・2と6・4には次のように述べてある。
「神の子たちは人の娘たちのところにはいって、娘たちに子供を生ませた。彼らは昔の勇士であり有名な人々であった」
 この神の子たちは当時地球の婦人たちに子供を生ませた地球の男たちと同様に明らかに人間であった。彼らはわれわれのように肉体と血液を持っていた。霊魂や幽霊の天使が降りてきて女たちと関係を持ったのだと言う人はいないだろう。彼らは読者や私などと同じような人間であったにちがいない。これは他の惑星に現在人間が住んでおり、しかも長いあいだ住んできたという明確な証拠である。

天使に関する聖書の記述はきわめてはっきりしている。彼らはまさしく地球人のように見える。彼らは”人間の堕落”に関係しなかったという点を除いては、全くわれわれと同様なのである。彼らの外観についての確実な証拠は、『ヘブル人ヘの手紙』の中で、地球人は彼らが天使(別な惑星から来た人)であることに気づかないで彼らをもてなすことがあるという個所によって示されている(13・2)。
 われわれは地球上に在住する異星人の男女についてこれまでに多くを聞いている。子供のときから教えられてきた物事から考えると、これは多くの人にとって空想的なバカらしいことに思えるだろうが、しかしかりにだれかが見知らぬ人をもてなして、しかもそれが天使(友星人)であることを知らなかったとしても、「古代にそうであったからといって現代にはもうこれらの男女がわれわれのあいだにいないのだ」と、誰が言えるだろう。読者自身も彼らをもてなしたか、または路上で会ったことがあるかもしれない。私をも含めて多くの人がそうであったろう。多数の人がこの訪問者たちの正体に気づいているけれども、知らない人も多くいる。われわれが歴史は繰り返すと考えるならば、同様に聖書の歴史も繰り返すと考えてよいのだ。

『エゼキエル書』の驚くべき物語

 円盤が母船を離れて地上を偵察し、また母船ヘ帰って行くという報告がいかに数多く行なわれてきたことだろう。

この種の活動の完全な描写は『イザヤ書』 60・8に見られる。
「雲のように飛び、ハトがその小屋に飛帰るようにして来る者は誰か」
 これは円盤群が母船に帰投する光景ではないだろうか。当時の語法は今日のそれとは異なっていた。今から五〇〇年先も異なるだろう。しかしわれわれが似たような出来事を同一視し得る基本原理というものは常に存在するのである。
『エゼキエル書』の第一章はあまりに正確で、単なる偶然の一致とは言えないほどの、ありふれたUFO目撃報告に類似した驚くべき物語である。第四節には、周囲に大いなる琥珀色の火の雲をもって北から来た”旋風”として描かれた一個の機械が出て来る。その内部には人間の姿をした四つの生きものがいた(第五節)。
 ここで私はこれら古代の文章の奇妙な特長について注釈を加えたい。昔の原典には句読点が用いられておらず、語や文章のあいだに区切りがなされていなかったという事実である。しかも各節や章の区切りもなされなかった。こんなことはみな後世に校訂者や翻訳者によって加えられたのである。
 エゼキエルは彼の文章の中で物語の筋を急に飛躍させる癖があった事実を学者は指摘している。これが生きものと船体の各部分を区別するのを困難にしているのだ。多くの例において人間を説明した節のあとは船体に関する節が続き、そのすぐ次の節はまた人間のことを語っているといった具合である。

このことを念頭に入れて次を続けることにしよう。
 第五節では人間のように見える生きものが強烈に輝く船体の内部にいたと述べてある。第六節では「おのおの四つの顔を持ち、またそのおのおのに四つの翼があった」と言っている。たしかにその生きものたちが四つの顔と四つの翼を持っていたとすれば、それらは人間のようには見えなかったろう。この第六節は人間のことを言っているのではなく船体そのものを語っているのだ。これは旧約聖書の他の翻訳本でも明らかにされている。これら各種の翻訳本のなかには船体を円盤と述べているものさえある。
 当時の古代の著述家たちはわれわれが持っているような方角をあらわす言葉を持たなかった。たとえば彼らは世界の四隅として東西南北を用いた。第六節には「どれもが四つの顔」と四つの翼を持っていたという言葉を用いて、丸くてあらゆる方向に面していると述べられている。これを言いかえれば、同時に四つの方向に面しているということになる。以上の各節の理解の困難さに加えて、次の節は急に人間の記述に立ち返っている。そこを読むと、その人々はわれわれのようなまっすぐな足を持っていたが、真鍮色の子牛の皮で作られた、見たところ、ある種のサンダルかモカシン(訳注=アメリカインディアンが用いたシカなどの柔らかい一枚皮で作った靴)のような奇妙な靴をはいていたことがわかる。
 第八節は、それら(の物体)が人々の手によって導かれたということ、すなわちパイロットとしての人間がいたことを明らかにしている。第九節では、現代の”円盤”の特長が次のように述べられている。「行くときは回らずに、おのおの顔の向くところにまっすぐに進んだ」
 この古代の記述者は例の人間の特長を述べるために、ライオンの強さを持つと表現して相手の顔に現れた決心、雄牛のような不動さ、ワシのような軽快さなどの表現法を用いている。見たところ、これらの生きものは動物のようには見えても人間のようには見えなかったであろう。この文章の筆者は、われわれがブルドッグのような顎を持つとか、ローマ人のような鼻をしているというように象徴的に表現をしたのだ。
 第一二節は第一一節の”顔”が船体それ自体の一部であり、人間の顔でないことを明らかにしている。そこでわれわれは、”顔”という言葉が船体と人間との両方を意味するのに用いられていることがわかる。この混乱のほとんどはたぶん翻訳者たちが何も知らなかった物事を訳そうとしていたあいだに起こったのだろう。もしわれわれがその言葉を理解して、もとの意味のままに読むことができたとすれば、その筆者が何を伝えようとしたかを正確に理解して用語の混乱は避けられたであろう。
 これらの空飛ぶ機械は着陸した。そのとき起こった出来事は第一五節から二八節にわたって述べられている。停止しているときはこれらの機械は緑柱王の色であった。四つとも同じように作られていて、「あたかも輪のまん中に輪があるように」建造されていた。

第一七節はそれらが円くて船体の向きを変えないで方向転換したことを再度明言している。第一八節ではドームのまわりに高いリングがあることを述べ、四つの丸窓のことまで記している。
 以上の各節はエゼキエルの目を通して目撃された三個の球型着陸装置を持つタイプの円盤に関する正確無比な描写なのである。
 偵察型円盤の円型翼の下部には、これまで何度も報告されたように三個の金属製の回転装置がある。これはジャイロスコープ的な安定性を与えるばかりでなく、超高圧静電気チャージ用の発電機として役立っているが、この静電気は三個の球型着陸装置の内部にあるファンドグラーフ蓄電池の中に貯えられる。この”輪の中の輪”を見た人はだれでもエゼキエルのように正確に言えるだろう。
 第一九節と二〇節は、船体の中に人々が乗っていて、絶えずその運動を完全にコントロールしていたことをたいそう明らかにしている。この第一章の終わりの部分には”会見”のことが述べてある。船体から人間がエゼキエルに話しかけるのを聴いたとき、彼は顔を伏せて、その不思議な機械と出来事とを天使や神のせいにした。エゼキエルは円盤のフォースフィールドの多彩な色光の変化を畏れて、そのことを第二二節から二八節にかけて詳細に述べている。彼の驚きは今日の多数の目撃者の驚きときわめてよく似ている。彼が理解できなかった物の前でひれ伏したとき、彼はそれを神または未知なる物のせいにして、別な惑星から来た他の人間たちと接触しているにすぎないことに気づかなかったのだ。

その他のUFO関係記録

 予言者エレミヤは雲のように見える空飛ぶ戦車のことを記している(『エレミヤ書』4・13)。空飛ぶ円盤の出現以来、何度も人々は雲のように見える物を白昼に見たことを報告している。突然その雲の内部から円盤が飛出ると、その雲はゆっくりと消滅して見えなくなるというのだ。この現象は船体のフォースフィールドによって起こる。それは空気を凝縮させて雲を作るが、この雲は船体の周囲かまたは真上にしばしば観測されている。
 イスラエルの民は夜の火の柱で、昼は雲の柱で導かれた(『出エジプト記』 13・21)。彼らがエジプト人によって追跡されたとき、この雲と火の柱が、そのような現象についてよく知らなかった追跡者どもを”悩ませた”と記されている。
『出エジプト記』第一三章と一四章に用いられている”主”という言葉に注目する必要がある。われわれが思い出し得る時代からずっと人類は地球こそ人間の住む唯一の惑星であるとさまざまの宗教団体から教えられてきたことを私は明らかにしたい。地面の上──すなわち空──のあらゆる物は神々や天使たちや主たちの住み家であった。この人々が観察した上空から地上ヘ来るものは何でも神か天使か主であった。彼ら自身がこのような輸送手段を持たなかったからである。

会見だけでなく同乗の実例が『列王紀下』に記録されている。
「彼らが進みながら語っていたとき、火の戦車と火の馬が現れて二人を隔てた。そしてエリヤは旋風に乗って天に昇った」(『列王紀下』2・11)。
 まず火の戦車が見られた──大抵の円盤目撃報告によると、船体がオレンジ色か琥珀色の火球現象で囲まれていると述べてある──そしてそのすさまじい力は火の馬によって象徴化されている。それが近くヘ来た時、旋風として感じられたのであろう。

古代のコンタクトの真実

 エリヤは神の人であると考えられていた。そしておそらく彼は異星人であって、その地域で自分の仕事が終わったことを知って、そこを離れて他の場所ヘ行くことに決めたのである。彼は連れて行かれることに気づいたので、出発するときにエリシャヘ魔力を持つマントをやろうと約束していた。だからこの出来事は彼をおどろかさなかった。とにかくエリヤを地上から拾い上げて別な地点ヘ連れて行ったのはエリヤ自身に似た人々であった。
 当時彼は地球から離れなかった。というのは、数年後にエリヤは別な土地からヨラムに手紙を出して、ヨラムの父の教えを歩まなかったこと、その王座を危うくしようとした兄弟たちを殺したことなどを諌めていることがわかるからだ。これについてはエリヤが拾い去られてから(少なくとも)一〇年以上経過している点で学者たちの意見が一致している。エリヤは自分が学んだことを他の人々に教えるために、地上の他の場所ヘ連れ返されたのである。
 このことは多数の人が不思議がっている現代の謎の失跡事件のいくつかに対する解答になるかもしれない。こうした事件の中心人物の中には、おそらく地球人のあいだに混じって生活していた”訪問者(友星人)”がいたのだろう。彼らは自分の惑星に帰ることに決めて、この人々を集めるために派遣された宇宙船に乗ってわれわれの中から姿を消しただけなのだ。
 モーゼはしばしば火の球または光る雲から語りかける人物とまじわった(『出エジプト記』 33・9)。宇宙船に乗った一人の友星人は幾度も幕屋の前に降り立ってモーゼと話した。それに続く節はすべての人々がこの事件を目撃したことを示すものである。
 類似の事件が『詩篇』第九九篇に記録されている。次のようなくだりだ。
「主は雲の柱のうちで彼らに語られた。彼らはそのあかしと、彼らに賜わった定めとを守った」(99・7)。
 聖書を通じて注目しなければならないのは、地球人が軌道をはずれ過ぎた時に、これらの使節、すなわち宇宙船に乗った異星人たちがやって来て、指導者かまたは地域社会のだれかに話しかけたという点である。いずれのたも彼らは宇宙の法則のいくばくかを伝えようとし、地球人の道を正そうとした。友星人たちは地球人の直面した困難を克服する方法を伝えただけにすぎないという点に留意すべきである。人々は受け入れて自分自身の道を変えねばならなかった。彼らがこれを拒んでみずから苦難を招いても、起こった事にたいして他のだれも非難することはできなかったのである。
『ルカによる福音書』9・34 と 35 に、雲に包まれた船体と、その雲から出てくる声の記事がある。船体が接近したとき弟子たちは恐れた。同じような事件が起こると今日の多数の人々が恐れるのと全く同じことである。船体から声が出てきたという事実は、異星人によって地球人に教訓が与えられたより大きな証拠である。
『使徒行伝』1・9はキリストの昇天の物語である。これは復活の後のことであり、キリストは四〇日間以上も肉体を持って現れていた。われわれはキリストが肉体を持ったまま昇天したといつも教えられてきた。彼が宇宙船に入ったとき、「雲に迎えられてその姿が見えなくなった」のである。続く二つの節はこの事件の目撃証人がいたことを示している。また、この同じキリストが昇天の際と同じ有様でふたたび天すなわち空中から帰って来るだろうという約束がある。この特殊な部分に関してはまだ多くの参考例があるけれども、以上の記事だけでも充分に乗船の光景をあらわしている。


第11章

聖書とUFO (2)


太古は超長寿だった

 さて、ここで新全集第一巻『第2惑星からの地球訪問者』の第Ⅱ部『驚異の大母船内部』(三三〇頁)で金星人オーソンが次のように言っている点をもっと明らかにすることにしよう。
「地球の聖書に出ているある記録について、あなたの関心をうながしたいと思います。聖書を注意深く研究されますと、地球上の寿命は、雲が滅ってきて、人間が初めて宇宙の星々を見たときに短くなりはじめたという個所に気づかれるはずです」
 これは現在のわれわれが大空と呼んでいるもののことを言っているのである。ここで私は彼の言葉によって彼ら異星人がわれわれよりも聖書をよく知っているという証拠になることを確証しよう。
『創世記』9・29 はノアが九五〇歳まで生きたと記している。人間が星を見たことに関する聖書中の最初の説明は『創世記』 15・5にアプラム(アブラハム)が天を仰いで星を数えるようにと命じられる個所である。たえまなく覆っていた雲が地球をいつ去ったのかはよくわからない。しかしこの雲の中に含まれた水分がノアの洪水のあいだに雨となって落ちたことを知っている。その洪水の後、空は次第に澄んできて、ノアとアブラハムの時代のあいだのある時期に星々が初めて見られた。そして雲の覆いが消滅したときに恐ろしい宇宙線が地上に降りそそぎ、人類の寿命は急速に縮まったのである。アブラハムは一七五歳で死んだ(『創世記』 25・7~8)。
 ノアからアブラハムまでの系図をたどってみると、われわれは一一代の世代を思い出す。この世代のあいだに人間の寿命はノアの九五〇歳からアブラハムの一七五歳に落ちたのだ。そしてそれ以来、六五歳という平均寿命になってしまった。
 スペースピープル(異星人)がこの時代のことを思い出したり『第2惑星からの地球訪問者』に述べてあるように、現在起こっている物事やその理由などをわれわれに語ることができるというのは驚くべきことである。私の右の書は現代に実際に起こっている出来事を詳細に伝えたものである。

聖書は大気圏の様子を伝えたもの

 聖書の研究家である一文通者が私に次のようなインフォメーションを送ってくれた。これは一般の人にとって何かの役に立つかもしれない。しかし私は個人的にこの件を調べたわけではない。
「例の車輪に関する予言的な描写は紀元前五九五年になされました。その後、黙示者のヨハネは紀元九六年に”生きもの”についてもっと詳細に書くようにと、どうやら霊感を受けたようです。
”爆発の力”の現象については(見たところこれは宇宙のまたは核エネルギーの形で表現されているようですが)、この記事は紀元前約一四九一年から七一二年にかけて記録されたものです」
 このような説明は聖書の全体を通じて見い出される。
 現代においてわれわれは、この世界の宗教的な指導者層がきわめてまじめに注意を払わねばならない生命の一段階を通過しつつある。われわれはこれらの指導者によってイエスが地球人と同様に肉体や血液を持って生まれたと教えられてきた。またイエスはその肉体を天に持って行ったとも教えられている(当時、空は常に天と称されていたので、これは空の意味である)。
 数年前、ローマ・カトリックがイエスの母マリアも同様に連れて行かれたと声明したことをわれわれは聞いている。多数の教会はエリヤとエノクも生きたままで天空ヘ運ばれたと教えている。この人たちは生きたままでどこか他の惑星ヘ行ったのであり、そこでたしかに安楽に暮らしたのである。

以上の事柄でわかるのは、われわれも異星人と同様に宇宙船を持てば彼らの惑星ヘ旅行できて、そこで生き続けることができるかもしないということだ。われわれは宗教的な思想でこのことを教えられてきた。われわれはイエスによる「多くの住まい」という言葉を支持しているし(訳注=これは人間の住める多くの惑星の意)、また「みこころが天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように」という祈りの言葉もわれわれはもっている。”天空”からだれかが降りて来てわれわれに教えてくれない限り、右の言葉にどうして従うことができるだろう。こんなことはわれわれに予言されてきたし、空中に奇妙な出来事が発生するであろうことも知らされてきたのだ。しかもその出来事は実現しているではないか。

UFOの出現は予言されていた

 聖職者たちは何をしようとしているのだろう。彼らはずっとわれわれに童話を教えてきたと言うつもりなのだろうか。それとも右の事柄は現代においても真実であり、彼らがずっと教えてきたことも真実で、今日われわれはその真実の現象を見ているのだということを彼らは認めるつもりなのだろうか。彼らがこのことを考えているか否かはきわめて重要である。聖書は古代のこのような現象を多数あげているからだ。

もしこのことが起こるならば、空飛ぶ円盤として知られるあの宇宙船はわれわれの教訓を支持し、聖書の記録を支持していることを意味することになる。もしわれわれが聖書や聖職者の教えを真実として認めるとすれば、今はそれを実証すべき時代である。空飛ぶ円盤の出現は予言を成就しつつあるのだ。しかもわれわれが認めねばならないのは──われわれ自身をバカにしてもはじまらないが──今の若い世代は古い世代のようには教会ヘ行こうとしないという事実である。現在は各国が大気圏外ヘ打ち出す人工衛星の建造に懸命になっているために特にそうである。私が感じるところでは、比較的短期間内に地球人は地球製の宇宙船に乗って別な惑星ヘ宇宙旅行をするだろう。
 地球人が宇宙ヘ向かって遠く旅をするたびに、宇宙的な精神を持つこの若者たちは──そのような若者は無数にいるのだが──大気圏外のこの開発が、彼らが精神面で受けてきた教えとあまりにくい違うことに気づくだろう。現代の精神的な指導者が人類の進歩を宇宙空間に融合させない限り、一九七〇年までに彼らの教会はからっぽになり、仕事を失うことになるだろう。現代の若者たちは事実や現実を見てそれに従うだろう。彼らは今まさにそうなろうとしているのだ。
 われわれはそのような時代に生きている。「わたしたちの戦いは肉体に対するものではなく、この世のもろもろの支配、権力、闇の統治者、高い位置にある精神的な邪悪に対する戦いである」(『エペソ人ヘの手紙』6・12)。

 これを現代の世の中にあてはめるとよい。人間は何を持っているというのか。われわれは実際に発生しつつあることや、予言類が実際に実現しつつあるかどうかを知ることはできる。しかしこのためにいかなる恐怖も起こしてはならない。これは理解、すなわちいま存在している物事をありのままに認めることによって受け入れられねばならない。
 聖書には後の時代に人間が恐怖のために心臓をマヒさせるだろうと述べてある(『ルカによる福音書』 21・26)。私は説教という意味での説教者になりたくはないが、真実を無視することはできない。現在、世界中の人々が心臓病で死んでいる様子に注目する必要がある。まさに予言で示すとおりだ。なぜか? 地球上の世界の諸国民が悩み苦しんでいるからだ。われわれは海と波がとどろくのを見る(『ルカによる福音書』 21・25)。われわれはかつてないほどの地震や津波に襲われている。従来なら二年半で起こる数の大地震が一四週間で発生している。目覚めようではないか。もっと自我を謙虚にしよう。そうすればわれわれは発生しつつある物事をはっきりと知ることになるだろう。

異星人は地球人を救いに来ている

 UFOは人々を傷つけたりおやかしたりするために来ているのではない。円盤の飛来目的を理解していない人々から非難されてきたけれども、UFOはだれをも傷つけたことはない。地球の航空機に対して敵対行為に出たりその乗員をさらったりしたこともなかった。エリヤがそうであったように、連れて行かれて、後になってから、知っていることを教えるために帰って来た人もいるかもしれない。たぶんこの例はまだ起こるだろう。そして蒸発した人はそのようなメッセージをたずさえて帰って来るだろう。ただしその人たちを精神病院に投げ込んだりしなければだ。
 われわれは罪人ということになるのだろうか。ルッペルト大尉の著書は地球の軍隊が円盤を攻撃したことを認めている。もしこの円盤なるものが空軍が主張しているとおりのものであるとするならば、なぜ撃つのだろう。円盤が惑星間航行用の宇宙船であるとすれば、なぜ撃つのか? 後者の場合、宇宙航行ができるほどのすごい技術を持つ人ならば、当然撃ち返すことはできるだろう。
 しかし撃ち返していないという事実は、この訪問者たちが友好的であって、地球を征服する欲望を持たないことを決定的に証拠づけるものである。もし異星人がわれわれを征服しようとしたなら、われわれは全く自分で防ぐことはできなかったであろう。われわれは彼らの科学的能力を絶対に凌駕することはできないだろう。そして最も確かなことは、われわれはいかなる最高のロケット類や航空機をもってしてもUFOに追いつくことはできないのである。
 彼らは地球人に対してどんな敵意をも示したことはなかった。空(天)から来るものは何でも常に天使、神または主とみなされてきたのなら、われわれは天使や神を撃っていることになるのではないか。このことは、最後の時代において地球の諸国民にとって必要な時に地球人を援助するためにやって来る天使たちに対して地球人は抵抗するであろうという聖書の予言を実現させることにならないだろうか。

忘れてならないのは、天使はいつも普通の人間として描かれていたという点である。聖書のどこにも天使は翼を持っているとは言っていない。『創世記』 18・2には、アブラハムに現れた三人の天使が全く人間のように見えると述べてある。聖書中の多数の個所で、人々と一緒に道を歩いた天使たちが人々の食物を一緒に食べたり家に泊まったりして、あとで自分たちが地球の人間ではなくて天使であることを洩らしたことが出ている(『ヘブル人ヘの手紙』 13・2。『ルカによる福音書』 16・5など)。
 他の惑星の人々が古代において地球ヘ派遣されていたというのに、現代は派遣されていないとだれが言えるだろう。人類が苦難におちいるたびごとに彼らは出現して、それを切り抜ける方法を教えるらしいのだ。人類がそれを聞きいれるならば大抵は最少の努力で苦難をのがれるのであるが、その忠告を無視すれば人間は稼いで得たものだけを受けとるのである。今日ほどに世界が大きな苦難に直面しているときはないだろう。
 多数の人がスペースブラザーズはクリスチャンなのかどうかを知りたがっている。私ならば彼らは地球人以上にすぐれたクリスチャンだと言いたい(訳注=これはキリスト教徒という意味ではなく、宇宙の法則を生かしている人の意)。地球人はイエスの教えを信じたのではなく、ただそれを復誦していただけのことなのだ。地球人は人々の前で”クリスチャン”というレッテルとイエスの名を飾っておくためにそうしてきたのである。ただそれだけのことなのだ。人間は信ずることは何でもそのとおりに生きているが、キリストの教えを生かしてはこなかったのである。
 われわれがキリストの教えを生かしてきたならば、苦痛、悲哀、または今日さしせまっている滅亡の脅威などはなかったであろう。イエスの教えがわれわれの日常生活に応用されたならば、以上の状態は存在しなかったであろう。地上に事実上の天国が出現していたであろう。
 ときおりわれわれは日曜、クリスマス、復活祭などの日にキリストの教えを復誦する。それから外ヘ出て、次に思い出すまではすっかり忘れてしまうのである。その教えを生かすほどに把握していないのだ。ここでふたたび宇宙の使者たちがわれわれに警告している例をあげよう。
『第2惑星からの地球訪問者』で述べたことだが「もし地球人があなたがたを撃ったり、撃ち落とせる射程距離内に近づいたりしたら、あなたがたは自分の持つ力で自衛しますか」と私がその”男たち”に(異星人たちに)尋ねたとき、彼らは答えた。
「いいえ、私たちは死ななければならないでしょう。理解をしていない兄弟を利用することはできないからです」
 イエスも十字架にかけられたとき同じことを言ったではないか。
「父よ、彼らを許してやって下さい。彼らは自分たちが何をやっているのか知ないからです」
 地球人なら復讐を頼んだことだろう。

見知らぬ”旅人”をもてなそう

 次の点を私は特に強調したい。各国政府の要人で、その理解力がどの程度にせよ、宗教的教育を受けていない人や”至上なるもの(神)”に敬意を払わない人を私は知らない。ところが、そのような要人たちが地球ヘやって来る人々を攻撃するということになれば、そんな人はいったい何を考えているのだろう。もしその人々が自分の聖書や宗教教育を正しいと信じているとすれば、地球人を導くために天空から天使たちがやって来ていること、最後の時代にふたたび来ることになっていることなどを当然彼らは知っているはずである。異星人たちが予言を遂行するためにかつて地球を離れたのなら、また地球ヘやって来なければならないということを彼らは知っているはずだ。
 そうなると、結局異星人を撃つことによって神の御手に挑戦していることにならないだろうか。現在われわれを援助するために派遺された使者たちをなぜ殺そうとするのか。われわれはクリスチャンであると自称するのならば、われわれの救援者になるかもしれない天使たちを撃つのをやめて、キリストの法則(宇宙の法則)に従おうではないか。
 ルッペルト大尉は地球人がUFOを攻撃した例(複数)を述べている。彼は多くの例をあげていないけれども、UFOは何度も攻撃されたのだ。ある噂によると、円盤のなかには撃ち落とされたものもあって、地球人の無知のために生命が犠牲にされたということである。

神ご自身の英知に照らして、また名ばかりのクリスチャンとしてではなく真実のクリスチャンに照らして、状況全体を再検討してみようではないか。そうするとわれわれは現に生きている時代や、何のために準備しなければならないかということなどを理解するだろう。理解をする時にわれわれは自分たちにとって役立つことをなし、創造主とその目的のために奉仕することになるのだ。その時こそわれわれは自分を真実のクリスチャンとみなすことができるのである。
 異星人たちは真理を知りたがっている人々を援助するために来ているのである。だから彼らを無視しないことにしよう。救われるためにできる限りの事を学ぼうではないか。ただし何らかの救いがなされるとするならばだ。このことはまた、人間性を救うことによってこの真理が宗教を救い、さらに教会を救うことをも意味するのである。
 天空から来るあの人々にたいして友好的な感情を促進することによって、われわれは彼らを仲間として歓迎し、各家庭は彼らとの対面の栄に浴し得るのである。『ヘブル人ヘの手紙』 13・2にも次のように述べてある。
「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにしてある人々は気づかないで御使いたち(異星人)をもてなした」
 多数の人が確かにすでにこのことをやっているし、多くの人は知っていて彼らをもてなした。しかし、われわれが彼らにたいして正しい態度をもてるようにならば、だれもが彼らをもてなすことができるのだ。

キリストの教えにためらうことはない。その教えを説き、そのとおりに生き、その知識を万人の心に近づけようではないか。地球的な角度からではなく、また教会や宗派的な角度からでもなく、普遍的宇宙的な角度からだ。イエスは言ったではないか。
「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らもわたしの声に聞き従うであろう。そしてついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう」(『ヨハネ』 10・16)。

一二使徒も別な惑星から転生してきた

 各惑星は間違いなく人類が住むように作られたという確実な証拠が聖書にあげてある。生命は自然の偶然ではない。
『イザヤ書』 45・18に次の個所がある。
「天を創造された主、すなわち神であって、また地をも作り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人の住み家に作られた主はこう言われる。『わたしは主である。わたしのほかに神はない』」(訳注=この部分はある日本語訳聖書の引用)。
 神がこの世界(地球)を人間が住むように作られたとするならば、他の惑星群をも人間が住めるように作られたに違いないと考えるのは合理的である。
 この世界の者でない人たちがわれわれのあいだに混じって住んでいるという私のこれまでの声明を聖書は裏付けている。
『ヨハネによる福音書』 17・14 に次のような言葉がある。
「わたしは彼らに御言葉を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らも世のものではないからです」
『ヨハネによる福音書』 17・16 もこの言葉を繰り返している。これら各節は使徒たちのことを言っているのであって、地球人の中に住んでいる異星人のことを意味するのではないと考えている人もあるが、この場合はそうではないことがわかる。なぜなら語り手のイエスは「私が世のものでないように」という言葉に重点をおいているからだ。
 以上は、イエスとともに働くという特殊な目的のために、一二使徒も別な惑星から来て地球で生まれ変わったことを意味することになる。彼らは前生の体験の記憶を一部分かまたは全部失ったままこの世界に転生する人々の先駆者であったのだろう。

聖書に現われるUFOと天使

 母船でさえも聖書中に”飛んでいる巻物”と記されている(『ゼカリヤ書』5・1~2)。その時代において
葉巻型宇宙船にたとえることができるありふれた物としては、羊皮紙の巻物ぐらいのものであった。『ゼカリヤ書』6・1には、四両の戦車が二つの山のあいだから出て来たとある。これらは『エレミヤ書』4・13 の戦車と同じものではないだろうか。ここでもそれらが雲のようにやって来て、つむじ風のような戦車とワシよりも速い馬を従えていることがわかる。ワシとか雲とかを引用しているのはその戦車が飛んでいたことを示すものである。
 ここで聖書のケルビムについて注釈を加えてもよいだろう。前に述べたようにエゼキエルの見た不居議な飛ぶ機械はケルビムであった。これはある聖書学者達によると、ある種の天使であると考えられている。しかしこれは輸送の手段として用いられたもので、数例ではそれが何かの船であることを示している。エゼキエルのケルビムはやはり円盤なのである。
 ケルビム(第二階級の天使)の別な例は『サムエル記下』 22・11 に見い出される。
「彼はケルビムに乗って飛、風の翼に乗っているのが見られた」
 これに似た例は『詩篇』 18・10 に記録されている。ここではダビデ王が主に助けを求め、主はケルビムに乗って到着する。
「主はケルビムに乗って飛び、風の翼に乗って飛んだ」
 その特長ある火の雲は主に付き添っている。明らかに古代の教会はケルビムとは天使であると信ずるようになったらしい。それが翼に乗って飛ぶと述べられているからだ。古代人は宇宙旅行者の

性質について知識を持たず、宇宙船をある種の火を吐く動物だと思っていた。彼らは天空を航行するために作られた機械的建造物のことなどを考えることはできなかったのである。現代の自動車でさえも古代人にとっては別な種類の天使かケルビム、またはおそらく悪魔として記述されたことだろう。
 肩から翼の生えた、長く白い衣服を着た天使の概念が、そんなふうな絵を描いた大画家たちによって現代人の心に吹き込まれたのである。しかし聖書はいつもそれらを他の世界から来た普通の人間として述べてきた。
 われわれが望むならばわれわれも宇宙から来る訪問者と同じようになれると確言されている。
『詩篇』 82・6と『ヨハネによる福音書』 10・34 の両方に「あなたがたは(人間はすべて)神々である」と記してある。だからわれわれは堕落した位置から登り返す力を持っているのだ。その宿命の遂行のため力強く努力しようではないか。

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