心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語5

2005-03-03 09:38:09 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月2日)を要約します。
1「高校に見学」
 1994年、中学生になった川崎は、現れた天才イチローの活躍を食い入るようなまなざしで見つめていた。小3で本格的に野球を始めた川崎は、重富中に入学後も当然のように野球部を選択。
 どんな環境に置かれてもどん欲だった。重富少年野球時代、監督にあらゆる基本を徹底的にたたきこまれた川崎だが、中学校の野球部の顧問は残念ながら素人。県大会でさえ、ほとんど出場経験のない弱小校では仕方のないことだった。が視線の先にプロを見据えていた少年にのんびり構えている時間はない。小学校からの仲間が大部分を占めたナインと一つの「作戦」に打ってでた。
 「学習塾の先生に頼みこんで、あちこちの高校を見て回ったんです。うまくなるにはどんな練習をやったらいいのだろうか」と、同級生の村原貞芳は語る。鹿児島実、樟南など、もともと鹿児島は全国的にも野球のレベルの高い土地。指導者が分からないなら、自分たちで探せというわけで、数人で先生の車に乗りこんで、フェンス越しに練習方法をチェックしたのだという。村原が思い出すのは、その時の川崎の真剣な目だ。人一倍の吸収欲を映していた。
 小柄で細身の体がハンディとなったのか、レギュラーにはなれなかった2年間。努力を怠ることはなかったものの、何かしらの刺激がなければ前に進むのも難しくなっていたころだった。そんな時だ。イチローが鹿児島にやってきた。あこがれの人が、鴨池球場に舞い降りた。
2「自宅で黙々」
 95年5月。全国でフィーバーを巻き起こしていたイチローは、鹿児島でも当然のように主役だった。「オープン戦を見に行ったんです。その時イチローがホームランを打って。そりゃもう、すごい、すごいって興奮しっぱなしでした」。村原も観戦したゲーム中、隣では川崎が感激しながら白球の行方を追っていた。あこがれのイチローが目の前で打っている。まるで探していた人に会えたかのような喜びの中で、あることがひらめいた。
 イチローと「対面」した翌年、中3に進級したばかりの春のこと。ある日川崎はキャプテンでもある村原のもとに寄ってきた。「あのさ、左で打つことにしたから」。体が小さくても、やれる自信はある。特に走ることは誰にも負けない。足を生かすには左打ちがいい。
 イチローにあこがれた左打ち。目指す頂がはっきりしているから、時間をかける努力は惜しまない。父から自宅にネットを用意してもらった。ティー打撃で黙々と打ちこんだ。それは幼い頃、家の前で飽きもせず、ひたすら壁当てを繰り返した時と同じ、純粋な野球少年の姿だった。「よく遅くまでやってました。そりゃ、左打ちにして失敗したくないから本人も必死だったでしょう」と父。
 3「楽器も器用」
 中3の文化祭でバンドをやろうという話になった。野球部の仲間と共に、川崎はベース。練習を始めたのは9月末。それから1ヶ月後にはもうステージが待っている。たかが文化祭でも真剣だった。器用さを発揮した川崎は、友達に見よう見真似で必死の指導。やると決めたからには投げ出すわけにはいかなかった。本番大成功。違う一面をのぞかせ、先生や生徒はため息を漏らした。
 左打者に取り組み始めてからの進化はめざましかった。素質に努力を重ね、競争を勝ち抜いて遊撃のレギュラーの座を手に入れた。身長162センチは、当時の同級生たちと比較しても決して大きくはない。それでも前に進もうとする姿勢は相変わらず。生まれたころから川崎を知る脇田重雄は、成功を確信していた。「小さい頃ね、よくカブト虫を捕りに連れていったんです。捕れないときでも、あの子はずっと辛抱して待つ。勉強でもそう。あの素直さがあれば、きっと伸びていくだろう」と。 
 中学最後の大会、姶良地区代表として20数年ぶりに県大会に出場した重富中は、ベスト4入りの快挙を成し遂げた。左打者として再スタートを切ってから半年後、川崎はサヨナラ打を放つなどの活躍で、ナインを引っ張った。(山本泰明氏の記事より)