blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

乱開発の動きが止まった1987年春

2019-06-19 | 農作業

http://minumafarm.la.coocan.jp/rekisi3.htm

 乱開発の動きが止まった1987年春

開発か、保全か。
 バブルが膨らみ始め、ゴルフ場開発などを迫る開発派と、大規模緑地空間として遊水機能を保持しつつ全域を整備しようとする保全派との間で埼玉県庁内部で攻防が続いていました。
 1986年3月。県企画財政部地域政策課の見沼担当は、見沼保全に大きく踏み込んだ「見沼田圃土地利用基本計画策定調査報告書」をまとめますが、積極開発派だった当時の県地域政策監は「報告書」を県のロッカーにしまい込んでしまいました。
 「報告書」の存在を知った「見沼田んぼを愛る会」は、県に開示を迫ります。これが「開発」か、「保全」かをめぐって、マスコミと県民世論を巻き込んで行われた見沼をめぐる論争の始まりです。
 当時、知事(畑和)は「見沼を全部守るのは無理。ゴルフ場も緑だ。見沼の真ん中にゴルフ場を造って林で囲んだらいい」と口にしていた。畑知事の借地方式による運動公園=県民ゴルフ場を作るという案が浮上したときは、後にバブルと言われる時期だった。
 バブルの流れに乗り遅れまいと地権者の一部にはそうした話に飛びついた人もいた。
 「見沼田んぼを愛する会」は地権者の固定資産税の負担が増加する事を試算し、地権者に提示して回った。
 地権者は、固定資産税や相続税の負担が増加することに気づいて、運動公園=県民ゴルフ場を作るという話は急速にしぼんでいきました。
 そして、1987年2月。ゴルフ場開発をめぐる汚職容疑で地域政策監は警視庁に逮捕されます。
見沼の開発に積極的に動いた地域政策監の逮捕で開発派は旗頭を失い、開発の動きは呆気ない終わりをむかえたのです。

野焼き
1987年春、見沼田んぼ片柳
福祉農園の模索が始まる
篠竹の根を掘り起こすことから
農園作りは始まった。
1987年
 
見沼田んぼの片柳に約一反の谷地田を借り、現在の福祉農園の代表が家族や友人と共に農園の実験を始めます
 野を焼き、篠竹の根を掘り起こし、枯葉を集め堆肥づくり、そこから農場作りは始まった。

 農家資格のない市民は農地法上、農地を買ったり、長期的に安定して借り受けることができない不法耕作者です。片柳の試みは圃場整備事業が入り、わずか4年で終わる。
ここでの体験が現在の見沼田んぼ福祉農園の農園作りに活かされています。
1991年。土地利用協議会が始まる。
1995年。

見沼3原則に代わる新たな「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」が決定される。

見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」の方向として
①人間の営みと自然との調和
②緑豊かな空間 
③効率的、、安定的に農業が行える場 
④ライフステージに応じた自然とのふれあえる場 
⑤治水機能の保持に配慮しながら農地、公園、緑地などとして土地利用を図っていくことが掲げられた。

1998年。「基本方針」の柱に見沼田圃公有地化推進事業が位置づけられた。
見沼田圃公有地化推進事業とは
厳しい開発規制と引き換えに県が農地を買い取ったり、借り受けたりして活用する。
基本方針に沿って98年に始まり、約14ヘクタールが公有地化された。
公有地事業で福祉農園や市民農園、体験水田などが生まれた

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