「地域と障害―しがらみを編みなおす」について、語った。 座を組んで、各自の語りやパフォーマンスを含めて、「しがらみ」を伝えようとした。 聴いてくれる人々がいたから、伝えようとすることができた。 それが、「編みなおす」ということだ。 ボランティア学会で、初めて会った山口力男さん(阿蘇・百姓村)に好感がもてたのは、 餌の高騰で、牛が「伏し目がちになっている」といった物言い。 思い込みである、しがらみである。と同時に、それらを突き放して、 聴いている人々と一緒に面白がれる彼がいる。 交流会で、面川くん(風の学校)が話しかけてきた。 角田市の生家に帰省した時、民生委員をやっている母親がちょうど留守で、 彼が母親にかかってきた電話を受けたという。 はじめは「お腹がいたい」という訴えだったが、 しばらく話を聞いているうちに「買い物に行きたいので、 連れて行ってほしい」という話に変わっていったという。 父親に相談すると、そこまで話を聞いてしまったのなら、車で送ってやるから、 あとはお前が責任を持てということになり、けっきょくその人の買い物に付き添ったという話。 母親の日常を垣間見たと、とても楽しそうに話す面川くん。 彼とこんなに話したのは、初めて。いま農大の4年生で、やがて角田へ戻るそうだ。 もう「しがらみ」を編みなおし始めている。 恩間新田の新坂姉妹や父ちゃんたちは、初め、自分達の「遅れた生活」を恥じていた。 だが、ぼくも含めた新住民たちが、彼らの生きざまにびっくりし、 話をせがむので、もしかたら自分達のくらしぶりは面白いのかもと感じるようになった。 上の写真は、はばたく家活動初期の故・新坂姉妹) 母ちゃんがボケたのでトンガラシでいぶしたとか、 父ちゃんが娘の首を絞めたとか、あけすけに語るようになった。 あまりにも無知な僕らに、年間のモノビに食べるものは何かとか、 鍬は掘るもんじゃなくて、さくるもんだとか、教育するのが楽しみになった。 橋本画伯、初めから画伯だったのではない。 ずっと家でこもって暮らしてきたから、外に出始めるとあちこちでトラブルにあう。 よその家の前で小便をする。 その家の人がうしろから怒鳴るが、聞こえないので素知らぬふりに見える。 なぐられる、犬をけしかけられる。 当惑した彼は、仲介をしてほしいので、 折り込み広告の裏に絵を描いて、ぼくらのところへ急行する。 その絵がうまいので、月刊わらじに載せる。 初めは「困りごと」と感じていた出来事が、しだいに冒険談のように感じられてくる。 読者が増えるにつれ、今月は何を描こうかと、事件を待つ気持も芽生えてくる。 上の写真は、 ボランティア学会当日の明治学院大学チャペルで、 パイプオルガンを無音の楽として鑑賞する画伯 面白がる人がいてくれることで、口がほぐれる、災難が冒険になる。生ざまが伝え合われる。 障害者とその家族、被保護者と保護者、本人と援助者、本人とその被害者、 本人と本人……これらはいわば1対1の関係。 面白さは、ここに、この関係の外の第三者が加わらないと、ひらかれない。 出合って、一緒にいることで、歴史が書き換えられる。by山下浩志(わらじの会) (獅子の舞うボランティア学会交流会) |