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群馬県内の菜の花畑づくり、廃食油回収、バイオディーゼル燃料など菜の花プロジェクトにかかわる情報を発信していきます。

菜の花の沖

2006-02-25 | 参考資料
司馬遼太郎の『菜の花の沖』のハイビジョンドラマ(全5話)をみました。
高田屋嘉兵衛という人物の生きざまを江戸後期の時代を背景に、生き立ちから晩年まで克明に描きあげた「菜の花の沖」は司馬遼太郎作品の中で最も優れた日本人論と言われています。

私は現代NPOでよくいう、行政との協働、指定管理者制度、企業の社会的貢献の場面があり、面白かったです。
嘉兵衛が行ったロシアとの人質交換交渉はNGOとして見たり、
嘉兵衛を援助する豪商北風荘右衛門は投資という視点で考えるとまた楽しめました。
 
 高田嘉兵衛は1769年、淡路島の極貧の長男に生まれました。
裸一貫で神戸に渡り、豪商北風荘右衛門などの援助を受けながら、船乗りを目指します。
 そしてついに5艘の北前舟を所有し、北海の地まで交易を広める大商人となっていく物語です。函館の町づくりにも貢献していきます。

*行政との協働、指定管理者制度*
荘右衛門は幕府とかかわってはならないといいます。時の政権と関わると配下におかれ安く使われ、政権が変われば、次の政権からは冷遇されてしまいます。
そういうことに自分の商売が振り回されてしまうことを嫌いました。
 
*企業の社会貢献*
嘉兵衛は商いだけを考えるのではなく、日本国の行く末を考えながら商いはして行かなくてはいけないと言っていました。
 
 19世紀初頭の北海道や千島列島の時代背景は、松前藩による徳川幕府の”東蝦夷地経営”への乗り出しと、ヨーロッパ列強やロシアによる”大航海時代の地理上最後の発見”という時代の二つの大きなうねりがぶつかりあっていました。

 1812年、嘉兵衛はゴローニン事件(1811年、ロシア艦長ゴローニンが国後島で日本側に捕らえられた事件)の見返り人質としてロシア軍艦に捕らわれ、厳冬のカムチャッカのペテロパブロフスクで幽閉の身となりました。

*NGO*
「こちらが裸の人間として尊厳を持ち、相手も裸の人間として尊重するのだ。」と堂々とそれを政府レベルの問題ではなく、市民レベルの交渉をし、日露の戦争にもなりかねなかったこの事件を解決しました。

妻のおふさは
淡路の裕福な網元の娘として生まれました。貧しい農民の出である嘉兵衛と恋仲になり、神戸まで追いかけていきます。控え目ながらも情熱的な女性で、常に嘉兵衛を支え続けました。
嘉兵衛が北風荘右衛門から廃船同様に捨てられていた船を只でもらう時は、後々に高くついてくると見抜ぬき、本当に援助を受けて大丈夫か夫に進言します。

*投資*
嘉兵衛にとっては大金に値するような援助でも、当時の荘右衛門にとってはたいしたことではありません。しかし嘉兵衛が成長した時は、その援助は何千倍にもなって荘右衛門に返ります。人を育てるための投資はすごいと思いました。
一方投資は受けるときも、するときも慎重にしないと大変だと思いました。

 後年、嘉兵衛がロシア・カムチャッカに連行された時は、病弱の身でありながら夫の無事を祈って四国八十八ヶ所巡りに赴きました。
その時無事に帰ってきたら、夫とは離縁すると願をかけたので、嘉兵衛帰国後は離れて暮らしたとなっていました。

*熟年離婚*
現実はどうなのでしょう?
家庭を顧みず、仕事に生きた夫を支え続けましたが、子供は跡取りに育て上げることには失敗しました。今までは忙しくて留守ばかりの夫が毎日いる生活、子供は跡をついでくれない現実と今後の自分の人生を考えて、熟年離婚を選択したというようなことはなかったのでしょうか?