二人の2200枚ほどの写真をだーっと見ていて気がついたことがあります。
それは、彼女が彼の方を見つめている写真がとても多いこと。
そして、その視線には、なんというかな、陰りがない感じがします。そこには、信頼感とか
安心とか、もっと単純に「好き」という気持ちとか「嬉しい」という気持ちが出ている。
反対に、彼の方は、そんなにまっすぐに彼女の方を見ている写真は少ない。ないことはないですが。
で、その表情には、なにかしら照れとか気恥ずかしさみたいなものが混ざっているものが多い。もちろん、
嬉しそうではあるのですが。
写真には関係性が写り込みます。それは、写真の中の二人の関係性であったり、あるいは写真を撮る人
と撮られる人の関係性だったりします。
彼女は彼のことを、名前の最初の一文字から「○ー君」と読んでました。あんた、20以上も年の離れた
おっちゃんに「○ー君」はないだろうとか思ったりもするのだけれど、別に二人にとってはそれは「普通」
なのね。「普通」とは何かっていうことにもよるのですが。
つまり、人と人との一対一の関係、それも深いつながりのある人の一対一の関係というのは、実はそれ
ぞれ「個別特殊」なのですね。吉本隆明の言う「対幻想」という概念とこれは関係があるのかな、ないのかな。
で、その個別特殊性というのは一般化できないというか、一般化する意味がないというか・・。
他人から見れば「アホくさ」とか「なんでそういうことになるねん」とか「こだわりすぎやろ」とか
「そこまで気にする必要ない」とか、つまりおかしく見えることであっても、その「個別特殊」の関係の中で
は、そういうおかしく見えることも「普通」なのです。で、他の人からの見え方とかは、あまり重要ではな
くなったりします。
ただ、この「個別特殊性」が強く意識される時というのは、その二人の関係というのは、なんというかな、
課題がその中に内包されている場合が多いかもしれない。
それは、例えば、強いコンプレックスだったり、依存・被依存とか支配・被支配の関係だったり、
社会通念上の不適切さを含んでいたり、一方的な思いとか願いが中心になっている関係だったり。
様々な経過の中でそういった関係性ができあがってしまうと、それを突き崩すのは、あるいはそこを超えていく
のはなかなか難しくなったりします。例えば、私自身と父親の関係の個別特殊性なんかもそれに含まれる。
だけど、それは変わらないことはない、変えられる。あまりに遅い場合もあるかもしれない。でも変えられる。
私は彼が彼女と一緒にいることを選んだ理由の一つ、というか、その大きな部分は「支えたい」「守りたい」
という思いだったのではないかと思います。
反対に言うと、彼女から信頼されているということを強く感じたのでしょう。
それは「支えてあげたい」「守ってあげたい」とはちょっと違う。どういうことかというと、これだと、ちょっと
無理して「してあげる」というニュアンスがある。そうじゃなくて、彼自身がそうしたい、そうすること、
彼女を守ることを自分はしたいんだという、そういう思いがあったのではないかなと。
これは、一方的になると、依存・被依存の関係、あまりよくない関係に陥ることがある。でも、双方向的にう
まく機能すればとてもいい支え合う関係にも発展する。そして、その支え方や守り方にはいろんなスタイルがある
のだろうなと思うし、それでいいのだと思う。「こうでなければいけない」というものはない。でも、課題は何か
ということはいつも意識していたいです。
「一緒にいられること」をさらにすすめて「支え合える」ことができたら、それはもう「人としての幸せ」の
かなりレベルの高いところにいることになるのではないかと思います。
また、まとまらんね。まあ、このテーマはこのへんにしておきます。
それは、彼女が彼の方を見つめている写真がとても多いこと。
そして、その視線には、なんというかな、陰りがない感じがします。そこには、信頼感とか
安心とか、もっと単純に「好き」という気持ちとか「嬉しい」という気持ちが出ている。
反対に、彼の方は、そんなにまっすぐに彼女の方を見ている写真は少ない。ないことはないですが。
で、その表情には、なにかしら照れとか気恥ずかしさみたいなものが混ざっているものが多い。もちろん、
嬉しそうではあるのですが。
写真には関係性が写り込みます。それは、写真の中の二人の関係性であったり、あるいは写真を撮る人
と撮られる人の関係性だったりします。
彼女は彼のことを、名前の最初の一文字から「○ー君」と読んでました。あんた、20以上も年の離れた
おっちゃんに「○ー君」はないだろうとか思ったりもするのだけれど、別に二人にとってはそれは「普通」
なのね。「普通」とは何かっていうことにもよるのですが。
つまり、人と人との一対一の関係、それも深いつながりのある人の一対一の関係というのは、実はそれ
ぞれ「個別特殊」なのですね。吉本隆明の言う「対幻想」という概念とこれは関係があるのかな、ないのかな。
で、その個別特殊性というのは一般化できないというか、一般化する意味がないというか・・。
他人から見れば「アホくさ」とか「なんでそういうことになるねん」とか「こだわりすぎやろ」とか
「そこまで気にする必要ない」とか、つまりおかしく見えることであっても、その「個別特殊」の関係の中で
は、そういうおかしく見えることも「普通」なのです。で、他の人からの見え方とかは、あまり重要ではな
くなったりします。
ただ、この「個別特殊性」が強く意識される時というのは、その二人の関係というのは、なんというかな、
課題がその中に内包されている場合が多いかもしれない。
それは、例えば、強いコンプレックスだったり、依存・被依存とか支配・被支配の関係だったり、
社会通念上の不適切さを含んでいたり、一方的な思いとか願いが中心になっている関係だったり。
様々な経過の中でそういった関係性ができあがってしまうと、それを突き崩すのは、あるいはそこを超えていく
のはなかなか難しくなったりします。例えば、私自身と父親の関係の個別特殊性なんかもそれに含まれる。
だけど、それは変わらないことはない、変えられる。あまりに遅い場合もあるかもしれない。でも変えられる。
私は彼が彼女と一緒にいることを選んだ理由の一つ、というか、その大きな部分は「支えたい」「守りたい」
という思いだったのではないかと思います。
反対に言うと、彼女から信頼されているということを強く感じたのでしょう。
それは「支えてあげたい」「守ってあげたい」とはちょっと違う。どういうことかというと、これだと、ちょっと
無理して「してあげる」というニュアンスがある。そうじゃなくて、彼自身がそうしたい、そうすること、
彼女を守ることを自分はしたいんだという、そういう思いがあったのではないかなと。
これは、一方的になると、依存・被依存の関係、あまりよくない関係に陥ることがある。でも、双方向的にう
まく機能すればとてもいい支え合う関係にも発展する。そして、その支え方や守り方にはいろんなスタイルがある
のだろうなと思うし、それでいいのだと思う。「こうでなければいけない」というものはない。でも、課題は何か
ということはいつも意識していたいです。
「一緒にいられること」をさらにすすめて「支え合える」ことができたら、それはもう「人としての幸せ」の
かなりレベルの高いところにいることになるのではないかと思います。
また、まとまらんね。まあ、このテーマはこのへんにしておきます。