新しいリコーダー奏法

吉嶺史晴によるリコーダー奏法解説ブログです。上達してゆくための全般的な考えかた・生き方のヒントについても書いています。

理由がないことはやらない(演奏解釈を行う際の考えかたとして)

2018年10月14日 | 全般的な事柄
演奏解釈を作り上げてゆくのは演奏者の仕事です。

その際に問題になるのが「理由のないことはやらない」という考えかたです。
通常はこのような考えかたが柱となって初心者、中級者の皆さんは練習に取り組むことになるでしょう。

たとえばヴィブラートをつける場所にはそれなりの理由があってしかるべき、という立場があります。
このような立つのであれば、それを行うためにはそのための確かな理由が必要となります。

ただしある程度以上の水準を超える表現ではこのような言説はあてはまらないことがあります。

なぜなら優れた演奏解釈は通常の言葉で表現できるようなものよりも先にあるからです。

例えばバロックの曲を演奏する際に、拍の頭にある不協和音は強調する、と言うようなことが言われます。このこと自体はとてもわかりやすいです。

■拍の頭というものが何を意味するのか
■不協和音とは具体的にどのようなものを指し示しているのか

ということさえ理解できればその意味は理解できます。

それでは不協和音にも様々な不協和の程度がある、ということになるとどうでしょうか?

例えば通常の長短三和音の第2転回位置は不協和な状態として扱われます。

あるいはまた七の和音も不協和な状態であるとして扱われます。

ということはどちらも和音が不協和な状態にあるという点では共通しています。

共通していない点もあります。七の和音は基本位置であっても展開位置であっても、そのなかに必ず7度や2度の音程を含むため転回の状態に関わらず不協和です。

それに対して長短三和音の場合には基本位置と第1転回位置の場合には不協和な状態であるとはみなされません。

このあたりまでは和声や対位法の教科書に書いてあることなので、それらを読んで理解することは不可能ではありません。

しかし、同じ曲のなかの比較的、近い場所に七の和音や第2転回位置の和音が出てくる場合にはどうなるのでしょうか。

こうなってくるともうそれは演奏者が判断するしかありません。
音楽理論の教科書には実際の演奏上における個別の状況をどう判断するのかということは書いてないからです。

あるいは後期バロックの曲でトリルを上の音から始めるのか、あるいは書いてある音から始めるのか、という議論はいまだにそこにあります。

後期バロック作品の演奏の際、のべつまくなしに上の音からトリルを始めることによってその旋律線がおかしな形になってしまうことを私たちは経験しています。

だからといってなかなか個別の状況にまで詳しく解説した文献があるわけでもありません。

そこではもうすでに言葉で説明できる範囲を超えてしまっています。

このような状況において「理由のないことはやらない」という言説にこだわっているのは自ら「理由のないことは平坦な音を並べても良い」と内外に宣言しているように私には思えてなりません。

「理由のないことはやらない」というのはあくまでも初心者、中級者に通用することなのではないでしょうか。

むしろ客観的な理由がすぐにはみつからないようなことを、説得力を持って演奏できるのか、どうか、ということが問われている段階に持って来て「理由のないことはやらない」というようなことを持ち出すのは残念です。

現実では残念ことも起きます。

でもそれらのことにどう向き合うのか、ということも演奏者の器を反映しているのでしょう。

「理由のないことはやらない」というのは一見、立派な題目のように聞こえます。

しかし、その裏には大事なことは考えたくない、あるいは判断したくない、というような態度が隠されているのだとしたら問題です。

音楽は通常の言葉では表現できない何かを表現するものだと考えてみます。

だとしたらある特定の演奏解釈(演奏者にとっての表現)の理由に言葉による説明を拒絶するような何かが入り込むことを拒むことは出来ません。

それを通常の言葉で説明することは絶望的に困難です。

それはもしかしたら他からみると「理由のないことをやっている」という風に映っているかもしれません。

でも、それはそれで仕方ないことなのかもしれないです。

白い御飯に梅干しのっけて、その上から御茶かけて食べるのがこの世で一番、美味しい食べ物である、と思っている人にとっては、それこそがまさに一番ということになります。

ベストを尽くすのはそんなに良いことなのだろうか?

2018年10月14日 | 全般的な事柄
ベストを尽くすのはそんなに良いことなのだろうか?

というアイディアが浮かんだので少し書いてみます。

私たちの価値観のなかには「ベストを尽くすのは美しい、素晴らしい」というものがあります。

それは本当にそうなのでしょうか?

そのようなものは時代が変われば簡単に変わってしまう可能性があるとしたらどうでしょうか?

このような価値観があると私たちは、ベストを尽くすことのできない状況に居る時、「ああ、自分はベストを尽くせていないからダメだ」と思うかもしれません。

でもこのような価値観から自由ならば「ああ、自分はベストを尽くせていないけど、別にいいや」で終わりです(笑)

ベストが尽くせている時には「ああ、自分はベストを尽くせているから素晴らしくて美しい」と思えばよくて、そうでない時には、「別にいいや」で終わっても何の差支えもありません。

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楽器の上達のためには世の中の様々な価値観めいたものが影響します。

あなた自身は無意識であっても、今まで受けてきたマスコミの言説や、読んだ本や、あるいはまた先生や親の言ったこと、友達同士で語ったことなど様々です。

きれいな言葉は共感を生みやすいです。

私たちはそういう言葉に無抵抗な面があります。

ベストを尽くせる時には尽くしたら良いです。

でもベストを尽くせるような環境が整っていても、尽くすのか尽くさないのかはあなたが決めることなので、「自分はベストを尽くしていないからダメだ」と思う必要はないです。

スポーツでベストを尽くしている選手は美しいですが、誰もが一流のスポーツ選手になれるわけではありません。

ほとんどの人は普通に生まれて、歳をとって死ぬだけです。

芸術的な分野に関心があれば一生懸命そのことをやったりもしますが、それはその人の趣味みたいなものなので世の中を大きく変えるような影響力を持つようなことはほとんど有りません。

世の中の大多数は数少ない人々の暇つぶしのような活動には興味を示さないからです。

大多数からは単なる趣味や暇つぶしのように見える活動であっても本人たちにとっては大事なことであります。
もちろん、このような記事を読んでくださっている方々にとってはリコーダー演奏は意味のあることです。

でも一年じゅう、朝から晩までそのことだけにベストを尽くすというようなことは出来ません。

体調とか、精神状態とか、経済状況とか、時間の余裕とか、子供の世話とか親の介護とか、いろいろあります。

ベストを尽くしていない時には450万年くらい何もしないでいた昔の人のことを思い出せば良いです。

火が使えるようになるまで昔の人は食べて、寝て、子供を作るだけの生活だったのだろうと思いますが、それでも立派に人だったわけです。

「ベストを尽くすことは美しい」とかそのような言説がその頃、あったかどうか私たちにはわかりません。

それでもすでに500万年くらい前(考古学者ではありませんので間違いがあったら失礼します)から、人類は人類としての暮らしを立派にやって来たわけです。

500万年くらい前に人類が出現してから、火が使えるようになるまで450万年たっているとします。

450万年もの間、少なくともその点においては全く進歩のないまま人類は生きていたわけです。

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あなたが少しくらい、リコーダーが上手になったからと言って、世間の大多数の人々にとってはそれはどうでも良いことです。

どうでも良いこと、というのはすなわち無意味であるということです。

ということは、少しでもリコーダーが上手になろうとして、一生懸命、練習したり、レッスンに通ったり、発表会に参加している人々は世間からすると無意味なことをしている人ということになるわけです。

ということは、この世の中には無意味なことをする人々であふれていることになります。

サーフィンをする人々がいます。
ただ海辺で波に乗っているだけにみえます。

リコーダーを吹く人々がいます。
木の笛で何かぴろぴろ吹いているだけです。

サッカーをする人々がいます。
ただ皆でボールを蹴っているだけです。
大きなスタジアムに何万人もの人が集まってシーンと静まり返ったかと思うと、ワーワー声を出したりしています。

何が面白いのでしょうか?(笑)

上達のための前提条件

2018年10月14日 | 全般的な事柄
いくら練習しても、良い先生についていても前提条件が整っていなければなかなか上達できません。

ここで言うところの条件とは心身ともに健康であることです。

ちゃんと身体が動く、とか、気持ちが安定してていて、ひねくれてない、とか(笑)、そういうようなことです。

肉体的に健康であっても精神的に不健康なところがあったり、その逆の状態であっても着実に上達してゆくのは難しいです。それは想像に難くありません。

ただし考えておきたいことは健康と不健康は白と黒というようにはっきり分けられるものでもないことです。

同じ人がある時は良い状態であったり、別な時は調子がいまひとつであったりするのはよくあることです。

人間なので、ひねくれたい時だってあるわけです。

多かれ、少なかれ、そういうことは誰にでも起きます。

当然のことながらいろいろな点で停滞してしまいます。

ひねくれたい時にはひねくれてても良いのですが、それがあまりにも度を超えてしまうと、周りが迷惑を被るだけではなく、本人自身も損します。

例えば、精神的に調子の悪い時にいくら良いレッスンを受けてても上達することは難しいですし、そもそもそのような時には何らかの形で表面的な現象が起きて来てレッスンを継続すること自体が困難になります。

当然のことながら本来、期待されていたはずの進歩はそこで停滞します。

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さて、ここで視点を変えてみましょう。

「停滞するのは悪いことなのだろうか?」という問いを持ってみましょうか。

世の中では「無限の可能性」とか「努力すれば夢はかなう」とか、そのようなことが言われることもありますが、実際にはそれぞれの人の可能性は有限ですし、努力してもかなわない夢は沢山あります。

私たちはどんどん進歩してゆくことがあたかも当然であり、それこそが良いことである、と錯覚させられているかもしれません。

でも少なくとも楽器の演奏というようなことで言うならば、確かにある時期にはどんどん進歩するように見えても、ある時点で進歩する速度は遅くなり、やがて進歩はとまり、その後には衰えてゆきます。

楽器をやる以上は上達するほうがしないよりは楽しいでしょう。

でも上達しないでいることも、さほど楽しくないかもしれませんが、それほど捨てたものじゃない、という考えかたはどうでしょう?

ひねくれたい時にはひねくれたい必然的な理由があって、そうなっているわけなので、その人にとってそのような状況になることは必要なことであるとも言えます。

自分自身の気持ちを自分自身で思うようにコントロールするのはよほど出来た人でもない限り難しいです。普通は自分で自分自身の気持ちがイヤになってしまうことだってあります。

凡人なので時としてそういうことは避けられません。

人間なので、うぬぼれたりします。

あるいはまた「自分なんてダメだ」と必要以上に自分の評価を低くしてみたりします。

「自分自身についてそんな極端な評価しなくても良いんじゃないの」と自分でわかっていても、それを自分で変えることが出来ないからこそ苦しいわけです。

自分自身で自分にほどほどの現実的な評価が与えられなくなる時は苦しいです。
とても不安定になります。

他の人のちょっとした言葉にひどく傷ついたりします。
で、本人は「こんなことで傷つく自分はヤダな」って思っていたりするわけです。

でも本人なりに、少しでも前向きに生きたいという気持ちもあるわけです。

楽器をやる以上は少しずつでも良いから上達したいし、ドキドキ、ワクワクした気持ちだって味わってみたいわけです。

至らないところも多いわけですが、それでもやっぱり今よりは上手にいろいろなことが出来るようになりたいと願う気持ちだってあるわけです。

上達のための前提条件は申し分なく整っているということは非現実的です。
この現実社会で生きている以上、様々な条件は整っていないことのほうが多いです。

でも、それでも本人としては恵まれない条件のなかであっても、それでも上達したいという気持ちがあるわけです。

自分自身でもコントロールできないような、いろいろな気持ちを抱えていながら生きていたりもします。


それでは 条件を改善するためにはどうしたら良いでしょうか?

方法としては環境を変えてみる、ということがあります。

この場合、変化が大きければ大きいほど自分自身に対する刺激も大きくなります。

■先生を変えてみる
■一緒に演奏する仲間を変えてみる
■住む場所を変えてみる
■仕事を変えてみる
などなど

これらは自分以外の外的な環境を変えてみる、というやりかたです。

これらが何らかの事情でなかなか実現できない時にはどうしたら良いのでしょうか。

周りを変えることが出来ない場合には自分自身が変われば良いとも言えます。

なぜならばあなたの存在は、周りの人々にとってはその人々を取り巻く環境の一部なので、あなたが変わればその影響の結果として周りも変わり、あなたも変わるからです。

自分自身が変わる手間のかからない方法としては自分自身が発する言葉を変えるという方法があります。

これについてはまた後で書きます。

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ここでまた視点を変えてみましょうか。

人類が誕生したのは500万年前だとします。

その中で火を使えるようになったのは5万年前からだとします。

ということはそれまでの450万年の間、人類は火も使えないまま、そのあたりのものを生で食べたりしていたわけです。

もちろん、人間らしい業績を残すことは出来なかったわけです。

鉄とか、そういうものを造りだすことも出来ませんでしたから、精密な構造の木管楽器を作り出して演奏する、というようなことは出来なかったわけです。

スマートフォンとかコンピューターもなかったわけです。
美味しい料理もありませんでした。

何しろ火が使えなかったわけですから(笑)

平均寿命も短かったでしょうから30歳くらいになると、もう老人ということになっていたかもしれません。

年金問題もありませんでした。

その辺りにあるものを生で適当に食べたり、石や木で作った簡単な道具で獲物をとったりしながら450万年くら暮らして来たわけです。

でも一応、学問的にはそれでも人類ということになっているようなので、今、私たちが思っている「人間らしい」とか、そういう定義って一体、何なの?

450万年くらい、何もしないまま生きていたんでしょ?

ということになってしまいそうです。

なんだか話が大きく脱線してしまって恐縮です。

楽器を演奏する上での進歩、あるいは上達、ということについて考えるならば、一方的な方向でそういうことが起きることはないわけです。

考古学的な人類の歴史ほどではないにしても停滞する時期はあって当然なわけです。

ある時、上達した、と思えるようなことがあっても、少したったら、「ああ、下手になっちゃったかも」と言うようなことがしょっちゅう起きます。「ここ10年くらい全然、進歩してなさそう」というようなことだって起こり得るわけです。

450万年も停滞していた人類の暮らしぶりからすると、たかだか10年や20年、あなたのリコーダー演奏が停滞していても世の中には何の支障もありません(笑)

心身の健康などというと立派な言葉に聞こえますが、少なくとも身体が申し分なく健康で居られる期間など若いうちだけですから、そんなものは歳をとってしまえば、ナンセンスです(笑)

でも歳をとってもそれなりの進歩が見られることだってもしかしたらあるかもしれないわけです。

ですから上達のための前提条件というのは考えかたとしてはそれなりに整っているように見えるのですが、実際は白黒はっきり出来るものでもありません。

むしろ前提条件が完璧な形で整っているというようなアイディアそれ自体が非現実的なものだと考えることも出来るわけです。

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追伸:

前提条件を改善するための方法として環境を変えることが有効であると書きました。

外的な環境をすぐに変えるのは難しいかもしれませんが、あなた自身を変えるための簡単な方法を紹介します。

あなたの言葉の使い方を変えてみるのです。使う言葉そのものを変えるだけではなく、話す時の速度とか、相手から何か言われたりした時の反応の方法とか。いろいろありそうです。

人間は自分の発信する言葉に左右される生き物なので、このあたりのことは探求しがいのある分野です。

出す音が変われば、その演奏者の人生が変わると、教わったことがあります。ここには「音色」というものがそれほど大事なものである、という戒めがあります。

ここで「音」を「言葉」に変えてみるとどうなるでしょうか。

話す言葉、書く言葉を意識的に変えてみるのです。

あなたから出る言葉はあなたとは別のものである、と捉えてみることにしましょうか。

すると、その言葉はすでに、その言葉が出た時点であなたの環境となり、あなたに影響を与える、と考えることも出来るわけです。

住む場所を変えたり、転職したり、そんなおおげさなことしなくても環境を変えられるとしたら、なんだかドキドキ、ワクワクして来ませんか。

感受性のことなど

2018年10月13日 | 全般的な事柄
周りを見てみると、何人かにひとりは桁外れに感受性の強い演奏者が居ることに気がつきます。

感受性が鋭いと良いことのようですが、それは結果としておかしな方向に進むためのきっかけになってしまうことがあることを今までにかなり多く、見聞きして来ました。

その人自身の感受性を基準として考えると、的外れな結果に終わることがあります。

そのような人は演奏の最中であっても自分自身の感受性を制御することが必要になります。

感受性が全開バリバリで働くことは必ずしも良いことではありません。

全くの無伴奏の際には問題にならないようなことがアンサンブルでは様々な形で起きて来ます。

アンサンブルは楽しいです。

何故、楽しいかというと予想外のことが他の奏者によって行われるからです。

それは他の奏者によって行われた何らかのアクションがあなたにとって「面白い!」と感じられるから面白いわけです。

しかしそのアクションは面白い時ばかりではありません。

それはは時としてあなた自身の音楽的な感じ方を全く無視したものであったり、あなたのやりたい表現について全く無理解なものであったりすることもあります。

それはそのような音を出した奏者は必ずしも、「無神経な音を出してやろう」とか、そのような思いで音を出したということでなく、あくまでも、あなたにとって、そのようなものとして聴こえて来てしまったということです。

あなたにとっては明らかに「間違い」であるような音が他の奏者にとってもそうであるか、どうか、それは必ずしもそうではなかったりします。

しかし、あなたにとっては明らかな間違いであって、それはその楽曲の基本的な構造に傷をつけてしまうほど重大、かつ致命的なものであったりするかもしれません。

例えばあるフレーズがこのように終わったから次のフレーズが始まるタイミングはこのようになるだろう、というようなことを感受性の強い奏者はかなり速い時点で予測します。

それはその曲を全体としてどのように構築するのか、というイメージ(それは演奏するという営みの最も根本的な目的のひとつ)から来るところの必然なのでそう簡単にブレるものではありません。

しかしながらアンサンブルの場合には得てしてそのようなものは簡単に裏切られます。

感受性の鋭い奏者は、そこでずっこける感じになります。

自分自身が否定されてしまったように感じてしまいかねません。(実際はそうではないのですが)

その時点で自分自身がアンサンブルをやりながら音楽を作り上げてゆくという感覚は一瞬にして叩きのめされてしまったように思ってしまいます。

そこから先、演奏する気力がそがれるようなことにもなりかねません。

このようなことはなかなか他の奏者に理解されないことも多いので、多くの場合、感受性の鋭い奏者は「わがままな人」とか「ちょっと変わった人」というに思われることもあります。

音楽そのものに対する感受性を下げる、というのは現実的には不可能です。
それはその奏者の、ひとりの表現者としての在り方そのものを否定することと同じだからです。

ではどのようにしたら良いのだろうか?

ここでも私が提唱したいこともやはり「自分自身を他人として捉えてみる」ということです。

例えば「ああ、自分は今、がっかりしてるんだなあ」とか「ああ、今、気力がそがれてるなあ」とか、そのような現象を、自分自身からちょっと距離をおいてもうひとりの自分が見ている感じにします。

そうすると更に「ああ、ちょっとがっかりしてるけど、自分がここでがっかりしたような音出したら、ますますおかしなことになるかもなあ」とか、「気力がそがれてるけど、全然、なくなったわけじゃないもんね」というように思えて来ます。

問題は自分が自分自身とあまりにも一体化してしまっていると、自分の感じていることと、自分自身の区別がつかなくなるということです。

でも他の人より多少するどい感受性があっても、そのうち歳をとっていろいろなことに諦めがついてゆきますので(笑)。。。

諦めがつくといろいろなことがラクになって来ます。

音楽史上に輝くような音楽家には絶対なれそうもないな。。。とか

音楽史上に輝く音楽家たちだって、この地球が滅亡するときは皆いっしょに終わっちゃうもんね。。。とかいろいろあります(笑)

ひとりの時は感受性全開バリバリでも良いかもしれません。(それも程度問題ですが)

でもアンサンブルの時にもそうである必要はありません。むしろそうでないほうがうまく行く確率は高いかもしれません。あえて自分自身の感受性を低く出来ないならば、高いままで、良いですから、いろいろなことが起きてもそれはそれとして、とりあえず最後まで演奏する、という立場で居られれば、もうそれだけで良いとも言えます。

しかし無伴奏の曲ではその奏者ならではの表現が問われるわけなので、その奏者らしい感性のヒラメキはあればあるほど良いとも言えます。

考えかたのポイントは「自分を他人と捉えてみること」です。

これは全くの無伴奏の時でさえも役に立つかもしれません。
例えば、長い曲では口のなかに唾液がたまって来ます。

そんな時には「ああ、唾液がたまって来てるねえ・・・どうする?どこかで飲みこまなきゃねえ・・・・どこにする?休符のところまで待つ?それとも適当に間を作る?」みたいな感じです。

いずれにしても音楽史に輝くような演奏が出来る確率はあまり高くありません。
もしまぐれで(!?)歴史の片隅にちょっとだけ残るような演奏が出来たとしても、地球が滅亡してしまえば終わります。

そもそも演奏者自身が「音楽史に輝く」とか、そんなこと思っているヒマがあったら、練習してるほうが良いです。

それはどうでも良いことだからです(笑)

音楽史よりもその時に口のなかの唾液をなんとかしたりするほうがずっと大事です。

感受性が多少、鋭くても、鈍くてもなんとか演奏は出来ますが、口のなかに唾液がたまってくると演奏できないからです。


追伸:
経験が重なってゆくと、それなりに感性が磨かれてゆきます。
演奏そのものについても、身体の使い方とか、いろいろな点で。

で、感性が磨かれてゆく、ということはこの記事で書いたような危険も高まりかねない、ということなわけです(ある一部の奏者たちにとってはということですが)

そのためにどのような構えが役に立つのか、ということになります。

ひとつの考えかたとしては「良い演奏をすることに意味があるのか?」というような問いを持つことです。

「良い演奏をすることには意味がある」と考えるならば、そのためには良い演奏をするために必死になります。

しかし「良い演奏を目指して勉強したり、練習したり、音楽大学に行ったり、ヨーロッパに行ったり、CD作ったり、そんなことは単なる趣味であって無意味」と考えることも出来ます。

そのような無意味なことをするのにそこまで一生懸命やって、何なの?

という考えかたです。

ここまで極端でなくとも良いのですが、必要な際に、いろいろと視点を変えて見ると、今、目の前のことがずいぶんラクになるかもしれません。

低音域をうまく出したい時には

2018年10月13日 | 低音域をうまく出したい
例えばアルトリコーダーで低いラの音まではうまく出るのに、ソやファになったら出たり出なかったりする悩みのある方。

この場合、息が強過ぎるという原因もさることながら指に隙間が出来てしまうということが原因になっていることが多いです。

低いラの音まではうまく出ており、ソの音になると音がちゃんと出る確率がとたんに落ちてしまうというのは、多くの場合右手の薬指が原因です。

これを解消するためには以下のような方法を試してみることが出来ます。

■ラの音を出す

■ラの音が出た後、ゆっくり右手薬指を穴に持ってゆく

■すぐに音は出さないで右手薬指をもにょもにょ動かしてみる

■もにょもにょ動かしながら「ここだ!」と思える状態を感じてみる

■その後、確認の意味で息を吹き込む

このような流れとなります。ファの音でも同じことをやってみます。
要は指をセットしてすぐに息を入れない、ということ、そしてセットしただけで終わりなのではなく、セットしてからもにょもにょと動かしてみることです。

少しずつ慣れて来たら、もにょもにょする時間を次第に短くしてゆきます。

よかったらやってみてください。