吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

タイム感

2019-07-15 | リコーダー奏法
演奏における最も重要点のひとつ。それは「タイム感」。

テンポとかアーティキュレーション、細部のaccel.あるいはrit.も含めて曲全体をどのように組み立てるのか、ということ。別の言葉で言うと、曲の「構築感」。

曲の構造は楽譜のなかに音符として書いてあるけれども、それを実際に音にするのは演奏者。
テンポの変化やアーティキュレーションが克明に書いてある楽譜であっても、それらを意味のあるものとして演奏できるのか、どうか、というのはまた別の話。

自分の書いた曲であっても、他の作曲家の書いた曲であっても、目の前にある楽譜をどのような「タイム感」を持って、どのように「構築」するのか、ということは演奏者が自分自身で作りだすしかない。

演奏は作曲に劣らぬ創造的な行為と呼ばれる所以。

ということはこれが実現できない演奏は演奏と呼ばれるに価しない。
(愛好家の皆さんはまず楽器に慣れること、書いてある音符を音にすることから始まりますから、この限りではありません)

理想の音と現実の音のギャップはそのまま、ほったらかしにしたまま練習

2019-06-05 | リコーダー奏法
理想の音と現実の音のギャップはそのまま、ほったらかしにしたまま練習する、ということを最近、意識的にやっています。

自分自身の演奏技術と楽器そのものが備える限界があるので、どうしても出したい音が出せないこともあります。

でも、そういう時には「ああ、ダメだな」とか、そういうこと思わないでただ、練習すること、そのことだけを続けるということをやっています。

「自分はまだダメだな」と思っても良いけれど、そんなことは思ってもどうしようもないです。
どうせ思うなら「今はダメだけれど、全部が全部ダメなわけじゃない。今ダメなところも、良くなることもある」と思うほうがラクです。

というか、こんなこと思っても、思わなくても、もうどうでも良くて、要は適切な方法で練習し続けることが出来るか、どうか、ということ。

むしろ、いろいろなことを思ったり、考えたりしないようにする練習。

楽器の練習を通して、日常生活のなかでいろいろなことを考えないで過ごしてゆく練習。

そのためには、とりあえず、出したい音と出すことの出来る音のギャップは、とりあえず、ほったらかす。放置する。

そういうことをやっています。読者の皆さんの、どなたかに少しでも役に立てば良いのですが。

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追伸:
楽器の練習の場合、ある時点を超えると、それまに見えていた風景と全く違う風景が目の前に突然、ひろがるようなそんな体験をすることがあります。

たとえば脱力の方法とか。
あるいはまたバロック期の装飾についてとか(私の場合、自分は学者ではないので、学問的にバロック期の装飾法を追及する、ということを意図的に断念した瞬間、自分自身が奏者として新しく生まれ変わったと思えたことがありました)

こういう時期をいつ頃、迎えるのか、ということはなかなか、自分自身では決めることが出来ないこともあります。

そんな事柄については、もう私自身は、私ではないなにかの流れようなものにまかせてまかせてしまう、という立場をとっています。

ということは、とどのつまりは楽器を学ぶ、ということは人生において、その時々において起こる流れに身をまかせる練習、ということなのかもしれません。(ということは、更に突き詰めてみると、楽器を学ぶ上で習得した事柄はそのかなりの割り合いを実際の生活において活かすことが出来るのでは。。。。

ここまで来て、やっと楽器を学ぶことと、生きる、ということが重なって来るのかも。。。

うまく表現できていれば良いのですが。

上手なひとは「ふっ」とチカラを抜く

2019-03-16 | リコーダー奏法
上手なひとは「ふっ」とチカラを抜くことが出来るのでは、というアイディア。
それは一瞬のことです。

しかしそうでない人は「ぎゅっ、ふっ」、あるいはまた「ぶらぶら、ふっ」という感じであればそれなりにチカラが抜けるのでは。

自分の身体の状態が瞬時に把握できるのは生まれつきの才能のようなものが必要。
しかし、生まれつきの才能がなくとも、例えば「脱力」ということ、ひとつをとってみても、チカラを抜く前にほんの一瞬、わざとチカラをいれてみる、あるいは脱力したい箇所を「ぶらぶら動かしてみる」ということが出来れば、というアイディアです。

弦楽器に限らず、管楽器や鍵盤楽器など、あらゆる楽器を演奏する際に最大の妨げのひとつ、それが「無駄なチカラ」が入ってしまっていることです。

共演者やお客さんに気付かれないほどの小さなアクションで演奏のために必要でないチカラを抜くことが出来ればおおいに助けになるに違いありません。

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■最悪の状態
自分の身体に無駄なチカラが入っているのにそのこと自体を認識できていない

■最悪ではないがかなり悪い状態
無駄なチカラが入っているのはわかるけれども脱力できない

■少しはましな状態
無駄なチカラが入っていたらそれなりの方法で脱力することが出来る

「ぎゅっ、ふっ」「ぶらぶら、ふっ」の2段階で脱力できるのはまあまあの人
「ふっ」の一瞬で脱力できるのは上手な人
「まあまあの人」であっても、脱力の一瞬前の「ぎゅっ」「ぶらぶら」にかける時間を極力短くすることが出来れば上手な人とほぼ変わらないところまでは到達可能。

■良い状態
演奏の際、最初から最後まで無駄なチカラが入ること自体がないという状態
かなり上手な人

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演奏中に脱力するのに一番ラクなのは休符のある箇所と考えてみることにします。

比較的、短い休符の場合でもたった1回だけ身体を「ぎゅっ、ふっ」とするだけで無駄なチカラを抜く効き目があるのだとしたら、試みる価値がありそうです。

もちろん長い休符の場合には時間をかけて「ぎゅ~~~っ、ふわ~~~ん」という感じで自分自身をラクな状態にすることが出来るでしょう。この場合、左手、右手の周辺だけではなく、肩とか頭の付近とか、足先とか、いろいろなところに狙いをつけてみることも出来そうです。

これらのことは共演者や指揮者、お客さんにばれないようにやります。

わざと無駄なチカラを入れて練習してみる

2019-03-16 | リコーダー奏法
わざと無駄なチカラを入れて練習してみる、ということをしてみると本番の演奏にどのようなあるのだろうか、というアイディアが生まれました。

今までの経験を振り返ってみると、練習でうまく行っていことが本番でうまくゆかなくなる大きな原因のひとつは無駄なチカラが入ってしまうということでした。

具体的な練習の方法として以下のようなものをあげてみます。

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今、取り掛かっている曲(練習曲などでも可)を1小節ごとにあるは2拍とか1拍ごとに無駄なチカラがはいった状態と、そうでない状態を交互に意図的にやってみます。

そうすることによって自分自身に無駄なチカラが入っている際にはそれぞれの筋肉の状態などがどのようになっているのかということを練習の際に記憶することが出来ます。

本番の際にそのような状態に陥っていることが認識された場合には「ふっ」という感じでチカラを抜くことが出来ます。

そのような状態に陥っていることが認識できない場合には、がむしゃらに無駄なチカラがはいった状態のまま曲が終わってしまいます。

休符がある箇所などを利用して「ふっ」とチカラを抜くことが出来ればその後がずいぶんラクになるのではというアイディアです。

わざと無駄なチカラを入れてみる、というのがこの練習のコツです。

このような練習では左手も右手もとにかく無駄なチカラを意図的に入れてみるということをやるのですが、チカラがはいった状態だけだとすぐに疲れてしまって練習にならないので、抜いたり、入れたり、ということを繰り返しながらやってみます。

実際の演奏では練習の際に起きないことが起きます。
楽器の調子も変わります。
自分の精神状態や身体も変わってしまうのですが、そのなかでも大きな問題になりやすいのが、この「無駄なチカラが入る」ということです。

「ただチカラを抜いて」と言ってみてもなかなか難しいので、その場合には「チカラが入ってしまっている状態はどのようなものであるのか」ということを意識的に味わってみるという方法です。

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チカラを抜くタイミングとしては休符のある箇所が一番やりやすいです。
比較的長い休符のある場所では左手、右手をみっともなくない程度にほんのすこしだけ「ぶらぶらさせてみる」だけでもずいぶん違います。

楽器の発音場所に近いのは左手、右手なのですが、実は肩とか、喉のあたり、もしかしたら足先や背骨などにもチカラが入ってしまっている可能性があります。

お客さんに気付かれない程度に、ほんの少しだけ肩を上げ下げしてみるだけでも違いが生まれます。

首をほんのちょっとだけ「ふわ~」と回してみるとか。(これもお客さんに気付かれないようにほんの少しだけ)

奏者から出てくる圧力みたいなもの

2019-01-22 | リコーダー奏法
自分でヴィオラ・ダ・ガンバのような楽器を弾きながら思うのは楽器それ自体に備わっている表現力、その幅の広さ。

悔しいけれど多くの点でリコーダーはかなわない。
音量差も音色の変化幅も。

かろうじてアーティキュレーションの明瞭さという点ではリコーダーもガンバ程度にはそれを達成できるだろうとは思う。

しかしそれ以外の点ではガンバにはかなわない。というか、擦弦楽器の持つ果てしない表現能力にはどうしてもかなわない。

それではリコーダー奏者がヴィオラ・ダ・ガンバ奏者と同じ舞台に立った際には、彼は常にヴィオラ・ダ・ガンバに圧倒され続けなければいけないのだろううか。

そんなことはないと思いたい。
現実は難しいかもしれないけれども。

ひとつ可能性があるとしたら、演奏者自体がその空間に発する「圧力」みたいなものでなんとかしてバランスをとることが出来るかもしれない。

それは実際に耳に聴こえる音とか、そういうものも含め、通常は耳に聴こえないような微細なチカラみたいな何か。
生きるチカラみたいな。。。。

悩むチカラでも、稼ぐチカラでも。。。。あるいはまた愛するチカラとか。。。何かに抗うチカラとか。。うまく表現するのは難しいけれども。。。。

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リコーダーのような楽器それ自体が持つ可能性の幅の広さ、というのは、はっきり書いてしまえば「欠点」である。
「特性」などと一見、きれいな表現をされることもあるけれど。

醒めた見方をすればそれはまぎれもなく欠点だ。

でも欠点を多くかかえた楽器は存在してはいけない、という決まりもないはず。
欠点を多くかかえていてもそれはそこに、あって良いはず。

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ここまで書いてひとつ到達できそう。。。

その「圧力」というのは、自分がその時、もっている楽器で表現しきれないほどの何かを、現実的にその楽器の枠のなかに収めようとして苦しみもがく際に発せられる熱量みたいなもの???
(ただし苦しみもがきをそのまま聴き手の皆さんにわかりやすく見せてしまっても良いということではない。もちろん)

こういうように考えてみると、かならずしも「自由自在に」演奏するのが必ずしも望ましいということでもないのでは。

むしろ自由自在でないからこそ実現する表現の方法だってあるのかも。

奏法を伝授するためには

2018-11-22 | リコーダー奏法
奏法を伝授するためにはレッスンは欠かせないものだけれども、レッスンを受ける側も授ける側も変化する。

人間だから、その時々によって大きく変化することもある。

いずれの側であってもその人にとって音楽的なアイディアの割り合いが大きくなればなるほど、相対的にリコーダーの割り合いが低くなる。

音楽は音楽。楽器は単なる表現手段、というような在り方になってくる。
最終型は間違いなく、この方向だと僕自身は確信している。

しかしながら普通のレッスンに安易に、このような立場を持ち込むと弊害もありそうだ。

音楽的に洗練されてゆくことが必ずしも音をよく聴かない方向に進むことも有り得る。こういう時には得てして「ひとりよがりな」演奏になる。自分の技術をそっちのけにして、あるいは自分の出している音を全く聴かなくなってしまい、自分の理想の音を「出しているつもり」に陥ってしまう。

あるいはレッスンを授ける側が「音楽は大事だけれど、リコーダーは単なる手段」というような方向にあまりにも傾きすぎると、リコーダーのレッスンとしての体をなさなくなってしまう。

普通は楽器を操作する、というただ一点だけを見てみても、そこには解決されるべき課題が残されていることが多い。

あまりにも音楽的な側面だけに重きを置くような在り方、あるいは楽器の操作だけに重点がおかれて肝心の曲目をどう表現するのか、ということがおざなりになってしまうこともどうかということになる。

要はバランス、ということになるけれども、これは口で言うのは簡単だけれども、実際は難しい。

何故なら、「バランスをとる」ということが本当に出来るようになるためには、必要とあらばその両極端に振り切れることの出来る振れ幅が必要だから。

生徒諸君が上達するのは嬉しいけれども、でも上達するためには段階ごとにその人なりの壁みたいなものを打ち破ることが必要な場合もあって、それは並大抵なことではない。

なぜならば、それは今まで慣れ親しんだ自分自身の在り方から別れを告げることだから。

追伸:
別の視点。
「出す音が変われば人生が変わる」という言葉。昔、教えてもらった言葉。
とにかく出す音を変えてみる。
それまでと違う音を出してみる。
自分自身がその音を好きか、嫌いか、ということはとりあえず置いといて。

そうしたら人生が変わってくる。

音楽にチカラがあるとすれば、もしかしたらこの辺りなのでは。

追伸の追伸:
「出す音を変えるための方法」:とにかく変えてみる。
それまでの自分の出していた音と違う音を出してみる。
もしかしたら的外れかも。
でもそれはやってみなければわからないこともあるかも。

昔の自分だったら、とても受け入れられなかったような音色とか。
テンポとか。アーティキュレーションとか。ヴィブラートとか。
トリルとか、タンギングとかいろいろ。

アンサンブル仲間や先生に怒られそうな音とか。
昔の自分が「こんな音だしたら人から嫌われるんんじゃないか」と思ってたような音とか。

良い演奏をするために一番必要なこと

2018-11-21 | リコーダー奏法
良い演奏をするために一番必要なことって何だろう?

こういう問いが浮かんだ。

その時によっても違うだろうし、それぞれの奏者にとっても違うだろう。こういう問いには断定的な答えはふさわしくない。

でも今の僕にとっては「リズム」。それは狭い意味だと音楽を演奏する上での文字通りの「リズム」。

広い意味だとその人自身がどんな言葉を使いながら、どんな暮らしぶりをしているのかということ。それも「リズム」。

「リズム」って言葉なのではないだろうか?

そんな問いが浮かぶ。

言葉の使い方(無意識であれ意思的的であれ)がその人の人生を決めてゆくのだとしたら、演奏よりも何よりも、その人がどんな言葉を使いながら生きているのかということこそが一番大事なことなのではないだろうか。

でも朝から晩まで良い人みたいな風に居ることは出来ない。人間だから人に言えないようなこと考えたりもする。けしからんことも。だらしないこととか。いろいろ。

でも、それでもやっぱりどういう方向を目指して生きているのか、そういうところがその人のリズムを作っている。

それはもう演奏会の1週間前になってからあわてて修正できるようなそんなものではなく、その人がそれまで生きて来た時間をかけて作って来たものだ。

(だからと言って、演奏会前に練習するのは意味がないということではなくて)

追伸:
最近、自分自身で取りくんでいるのは目を閉じて片足立ちしながらスケールとアルペジオの練習。少しずつ長い時間できるようになって来た。


あまりにも普通でなさすぎるし、転倒する危険もあるから生徒諸君には決して勧められないけれども。

これは身体全体を鍛えて少しでも研ぎ澄ませた状態に持ってゆきたいという意図で。
でも、もう残念ながら若い頃みたいな上達は望めない。

音色とかピッチを制御する技術は昔よりも上達している実感はあるけれど、難しい技術は依然として難しいままだ。でもそれでも進むしかないし、進みたい。

今度、FRQの演奏会で

2018-11-07 | リコーダー奏法
今度、FRQ演奏会でJ.S.バッハの「シャコンヌ」BWVを演奏するのに合わせて今年の初め頃、パリサンダーのテナーリコーダー(A=442Hz)を買った。
練習を沢山することを予想して2本買った。

いずれにしてもヴォイシングや音程は自分の好みの状態に変えてしまうので買った時のオリジナルの状態とは異なるものになってしまうけれども、その楽器本来の音色はある程度保たれている。

本番前まであと1ヶ月弱。だんだん日が迫って来た。

これから沢山、練習してもさほど劇的な変化はないけれども、それでも少しずつ調子を上げてゆくのが大事なことで、教室の生徒の皆さんには全くお勧めできない練習法だけれども目をつぶって片足で立ちながらスケールとアルペジオの練習とか、そういうようなものも引き続きやっているのだ。

でも、これはもう自分の今の水準をかろうじて保つ、あるいはほんの少しずつで良いから上向きにしてゆくという意図があるだけなので、スケールとアルペジオやってるから良い演奏が出来る、とかそうようなものではないのだけれども。

リコーダーの練習というと、とかく歴史的に忠実な演奏法というようなことに焦点がゆくことが多いけれども、現代の管楽器であることに違いはないわけで、とりあえずそういうことは置いておいて、自分自身と楽器が少しずつでも良いから一体化することを目指そう。

でもその一方で演奏している自分と、それを別の場所から冷静に見ている自分の存在も大事。
さもなければ、あまりにも音楽的な側面からのみ演奏に走ってしまう。

現実は音楽は音楽だけで成り立っているわけではなくて、実際、その時に音を出してる楽器そのものの物理的特性を考慮することも必要。

場合によっては物理的特性がその奏者自身が本来やりたい表現を変更せざるを得ないという局面もあり。特に幅の広い跳躍のある音型、あるいは低音域が関与している音型の場合には物理的特性を優先したほうがうまくゆく場合が多い。

バッハのシャコンヌをパワーアップする

2018-11-01 | リコーダー奏法
2018年の5月に東京でバッハのシャコンヌを演奏した。
それを聴いてくださったある方が僕にこんな言葉をくれた。

「今度、バッハのシャコンヌが聴ける時にはよりパワーアップした演奏を期待します」というような意味合いの言葉。

それを聴いた僕は「無理」と思った。

「無理」と思った僕はそれ以上パワーアップできた状態のシャコンヌを想像できなかったのだ。
だから「無理」と思ったのだろう。

でも今はもしかしたらそれは可能なのではないかと思える。

そのひとつの方法は意識的に推進力を抑える箇所を作ること。もっと大胆に言えば、推進力が大幅に犠牲になっても良いから、とにかく音が音として聴こえるための方策をとるということ。

具体的に言うと低音域にダブルホールの音と同じく低音域における立ち上がりの強いタンギングの音。

ダブルホールで立ち上がりの強い音にする場合にはまるで二重苦がそこにあるような状況になってしまうので大幅にそこで時間をとっても良いことにする。その結果としてその箇所における推進力は犠牲になる。

そこでは「傷のない演奏」であることによる平凡なきれいさ、ではなく敢えて「推進力を犠牲にする」というチカラの働き具合がその場の空間に大きなうねりみたいな何かを作ってくれるかもしれない。

あと1ヶ月。

「パワーアップ」なんてどこにでもありそうな言葉でバッハのシャコンヌについてそんな言葉を使うのはどうか、とも思うけれど、要は5月に僕が演奏したシャコンヌは今の僕からみるとあまりにも推進力に重きを置きすぎてある特定の箇所に細部が犠牲になった演奏だった。

楽譜に書いてある音をしっかり出そうとしてそのためのその箇所のテンポを遅くする、あるいはその音の直前で時間をとる、これは皆、必要であれば演奏者なら皆行うことであって、何も新しいことはない。

ただし、今まで推進力ということがあまりにも僕のなかで強く僕自身を支配し過ぎていたのなら、いったんそこから離れてみたいと思う。

僕が一番きらいなタイプの演奏がある。

「上手な人がただ上手に音出しているだけの演奏」こういうものに接するのは時間の無駄なのだと僕は思う。

でも、僕自身がこのように受け取られかねないような演奏をして来てしまったのだとしたらどうだろう。
あまりにも自分に厳し過ぎるのはどうか、とも思うけれども、でもやっと「パワーアップ」できるだけのきっかけが見つかりそうなのだ。

で、それは何と「難しい箇所はゆっくりやる」というあまりにも単純な策だった。

でも僕は「難しい箇所はゆっくりやる」というような態度で演奏した経験がない。というか、そのような考えかた自体、僕のなかにはなかった。

難しい箇所は沢山、練習して思うがままに吹く、という態度でずっと通して来てしまった。
でも、もうそういうやりかただけでは通用しなくなってしまったのだろうと思う。

楽器の特性と自分の限界

2018-11-01 | リコーダー奏法
自分の頭のなかで鳴っている理想の音楽は僕の場合、残念だけれど実際の音になりそうもない、ということがわかって来た。

楽器の特性だけではなく自分の限界がある。

たとえば人間なので息を吸わなくてはいけないということ。これひとつとってみても、もう、これだけで自分の理想とする箇所で息を吸えるというようなことは夢物語のようなものだ。

こういう条件はまだある。口のなかに唾液がたまって来たり、そんなこともある。どこかで飲み込むということをしなければ演奏できなくなってしまうので、仕方なく飲み込む。

無伴奏の曲で休符があまりない曲の場合だと、ほとんどチカラづくでそういう箇所を作り出して息を吸ったり、つばを飲み込んだりする。

肺活量には限界があるから、いくらでも長い音が出せるというようなことは有り得ない。

ということは、頭のなかにある理想の音楽というようなものはどんなに練習しても永遠に現実になることはない、ということなのだろうと思う。

でも理想とは多少、異なる形になっているけれども、それでもそれが聴いてくれる人のココロに触れないとは限らない。もしかしたら触れるだけの何かを備えているかもしれない。

でもそれは僕にはもうわからない。
いったん空間に放たれた音がどんな働きをするのか、ということは僕には制御できない。

でも、どんな音を出すのか、ということについてはある程度までなら制御できるけれども。
でもそれはあくまでも自分の限界の枠のなかでしか出来ない。
そのなかで表現するしかない。

たとえばバッハのシャコンヌのような曲があるとする。

曲に位負けするくらいだったら演奏しないほうが良いのではないかと思う。
でも理想の音が出ないことと、位負けすることとは別のこととして捉えても良いはず。

理想の音が出ないなら、そういう状況のなかで何が出来るのか、ということをもう一度、考え直して、それを実際の音にする、そういう仕事が出来るはず。