AD2300の未来、ウラスとアナレスの物語。ウラスという惑星からオドー主義者たちが脱出し、アナレスに暮らすようになった。それから150年が経過し、アナレスで生まれ育ったシュヴェックは物理学者としてウラスへと向かう。
「所有せざる人々」アーシュラ・K・ル・グィン 早川書房 1986年 訳者 佐藤高子
The Dispossessed, Ursula K.Le Guin 1974
幼少期からを描く章と現在を描く章が交互に来る。アナレスではオドー主義という共産主義のようなものによって人々の生活はコントロールされているらしい。らしいというのは、これは共産主義ですというような直接的な描写を避けて、少しずつ現象を描いているだけだから。こんな風に読者の想像力に大きく働きかけてくれていてその様がとても良い。最近は報道も小説も分かりやす過ぎるものが多い。本来分かりにくいものを無理して分かりやすくしてしまうことで誤った印象を与えてしまっているように思うことが多い。
そうそう。アナレスという共産主義的でアナーキーな世界。れに比較すればウラスは資本主義的世界。オドーという人物はマルクスを連想する。本書が書かれた1974年はまだ共産主義という壮大な実験によってその欠陥が判明する前(共産主義そのものの欠陥というより、共産主義を扱う人間の問題かと思うんだけれども。原子力そのものに欠陥があるというより原子力を扱う人間に問題があるのと同じで)(いやそんなことはどうでもいいか)
そんな1974年に書かれたのに全く色あせず古びていない。SF食わず嫌いが食わない理由の一つは、宇宙的ドンパチかと思う。私も宇宙的ドンパチにはあまり興味がない。本書では宇宙戦艦が出てくるでもなく、ビームで戦うこともない。自由主義と共産主義/アナーキズムというイデオロギーの対比がメインテーマだ。
アナレス人には、囚人に労働を強制することが理解できない(50頁)、労働の真の動機は経済的なものではない、好きで仕事をするのだ(196頁)というようなSFらしくない表現が多い。一番好きな部分を以下に引用。
「物事というのは、全体的に見ることさえできれば、いつだってきれいに見えるものなんだよ。惑星でも、人生でも……。けど、近くから見ると、世の中なんて汚物と石ころだらけさ。人は毎日の暮しに身をすりへらし、疲れ切って方向を見失ってしまう。距離が必要なんだ - 間隔が。地球がどんなに美しいか鑑賞しようと思うなら、それを月と見ることだ。人生の美しさを鑑賞するには、死という、見晴らしのきく場所から眺めることだな」(247頁より引用)
ル・グィンは必ずしも共産主義/アナーキズムが理想的な世界だとしているわけじゃないあ。じゃあどうなのか、それは読んでのお楽しみ。
では、また。