横浜、石川町駅近くの中高一貫女子校フランチェスカ。野々原茜は牧田はなに出会う。仲が良く、毎日のように手紙をやり取りしている。そして気づく。お互いの恋心に。昭和の終わりから平成にかけての女性同士の恋の結末は・・・手紙とメールだけで描く。
なかなか面白かった。長者町5丁目とか扇町など馴染みのある地名がよく出て来る。(長者町5丁目の交差点で待ち合わせて、扇町のラブホテルへ行くという表現が出て来るけれど、結構遠いので、なぜそこで待ち合わせる?)
二人のキャラクターやストーリー。卒業後の進路が別々になる二人のその後。おばさんになった彼女たちの人生。意外なものになる。
必ずしも同性愛小説というわけではなく、人間を表現する道具の一つとして使われているだけ。最大の難点は長いこと。特に第3章が長い。それだけが残念。
今日の一曲
Paul McCartneyで、"No More Lonely Nights"
では、また。
なかなか面白かった。長者町5丁目とか扇町など馴染みのある地名がよく出て来る。(長者町5丁目の交差点で待ち合わせて、扇町のラブホテルへ行くという表現が出て来るけれど、結構遠いので、なぜそこで待ち合わせる?)
二人のキャラクターやストーリー。卒業後の進路が別々になる二人のその後。おばさんになった彼女たちの人生。意外なものになる。
ドラマ『白い巨塔』で描かれたような教授夫人会が、いや~な感じなのは、そこに男性社会の地位や立場が、そのまま持ち込まれているからたという気がするの。夫の出世は私の出世。夫の地位はすなわち私の地位、といったような。また、夫を含めた周囲のひとも、同じ論法で「内助の功」を暗黙裡に期待し要求する感じ。それは実は、女子高的な単性の世界とはまったくちがうものだと思える。
私は幼いころからずっと、自分の親とどうもしっくりいかないと感じてきました。けれど、両親が私を愛していたとは思わない。私の求める愛と、親から注がれた愛とが、少しずつずれていただけで。子どものころの私が、大きな植木鉢に植わったひょろひょろした苗木だとしたら、両親は鉢の端っこ、しかも片側の隅だけに、豊富に水を注いだようなものです。「ああ、まだそこまでは根がのびていないのに」、「少し根がのびたけど、そこだけにそんなに水をもらっても根腐れしてしまうのに」という感じ
夫は、「べつにそんなことどうでもいいと思って」と言うんだけど、どうでもよくないよね?これが男女のちがいってものなのかも、と愕然としたわ。女だったら、ひとつのお葬式に参加しただけで、八百ぐらいの情報を集めてくるわよ。先生のお孫さんの人数から、友だちのだれが不倫してるかまで、観察と会話からぬかりなく把握してくるわよ。
必ずしも同性愛小説というわけではなく、人間を表現する道具の一つとして使われているだけ。最大の難点は長いこと。特に第3章が長い。それだけが残念。
今日の一曲
Paul McCartneyで、"No More Lonely Nights"
では、また。