『説教~教会の宣教』
本日の礼拝では、教会員の一人の姉妹が宣教のご奉仕をして下さる。いわゆる「説教」は、プロテスタント教会にとって宣教の中心的働きである。
しばしば、「誰が説教をすべきか」ということが論議される。「牧師のみが説教すべき」と言われることもあれば、極端な例では「女性が説教台にあがるべきでない」という限定を付ける人もいる(実際、アメリカには女性牧師を認めないグループも多数存在している)。後者の男女に区別をするのは論外としても、説教の働きを牧師の働きとイコールで結ぶ捉え方は多い。確かに、牧師に委託されている働きの中心は説教であることは間違いない。しかし、必ずしも牧師でなければ説教が出来ない、或いはしてはならないということでは無いのである。
教会の宣教、つまり説教や礼典、教育、牧会といった様々な働きは、神が教会に託した働きである。それ故に、そうした宣教の働きは、《教会の働き》なのである。つまり、第一義的には教会がその働きを担うのである。牧師はその働きを教会から委託された者として、専ら宣教の働きを担う者として立てられる。
それ故に、「誰が説教をすべきか」との問いに対しては、教会員はすべて、その働きを担うことへと招かれており、またその責任を負っていると言われるべきである。とは言え、「説教は誰がしても良いのだ」というのは説教を軽んじた言い方である。神に託された大事な宣教の働きを、その託された教会が、その責任のもとで説教者に委託するのである。
私たち教会は、神から託された宣教の働きを担うことが求められている。説教は、誰が語ろうとも私たち教会の宣教の言葉なのである。