福岡西部バプテスト教会

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『説教~教会の宣教』

2012-11-11 | 巻頭言

『説教~教会の宣教』

 本日の礼拝では、教会員の一人の姉妹が宣教のご奉仕をして下さる。いわゆる「説教」は、プロテスタント教会にとって宣教の中心的働きである。
 しばしば、「誰が説教をすべきか」ということが論議される。「牧師のみが説教すべき」と言われることもあれば、極端な例では「女性が説教台にあがるべきでない」という限定を付ける人もいる(実際、アメリカには女性牧師を認めないグループも多数存在している)。後者の男女に区別をするのは論外としても、説教の働きを牧師の働きとイコールで結ぶ捉え方は多い。確かに、牧師に委託されている働きの中心は説教であることは間違いない。しかし、必ずしも牧師でなければ説教が出来ない、或いはしてはならないということでは無いのである。
 教会の宣教、つまり説教や礼典、教育、牧会といった様々な働きは、神が教会に託した働きである。それ故に、そうした宣教の働きは、《教会の働き》なのである。つまり、第一義的には教会がその働きを担うのである。牧師はその働きを教会から委託された者として、専ら宣教の働きを担う者として立てられる。
 それ故に、「誰が説教をすべきか」との問いに対しては、教会員はすべて、その働きを担うことへと招かれており、またその責任を負っていると言われるべきである。とは言え、「説教は誰がしても良いのだ」というのは説教を軽んじた言い方である。神に託された大事な宣教の働きを、その託された教会が、その責任のもとで説教者に委託するのである。
 私たち教会は、神から託された宣教の働きを担うことが求められている。説教は、誰が語ろうとも私たち教会の宣教の言葉なのである。


『裏切られた者に寄り添う、裏切られ続けて来た神』

2012-11-04 | 巻頭言

『裏切られた者に寄り添う、裏切られ続けて来た神』

 空港近くの橋の下で野宿生活をしておられる一人の男性。彼は数年前に、役所からの勧めで生活保護の申請をしに役所まで出掛けた。ところが、野宿生活であることを理由に、その申請すらさせてもらえなかったという。このことが彼の心の傷となっていた。その後、就職するために面接へ出掛けても、住所を訊かれ「友達の所に世話になっている」と言葉を濁すしか無く、連絡先を尋ねられても携帯電話さえ持たない。身綺麗にしようにも風呂に入る環境にさえない。日雇いの仕事で手にしたお金も、食事やお風呂、衣服の洗濯に使うと、ほとんど手元に残らない。缶拾いをしても千円を手にするのがやっとだ。
 その彼が明日、もう一度役所に出掛ける事になっている。「こんな生活しとっても、どうにもならないんですよ。でもね、また断られるんじゃないかと不安で仕方が無いんです。今度断られたら落ち込んじゃいますね」と、地面を見つめながら細々と話す。一度裏切られているという体験は、そう易々と拭いきれるものでは無い。こうした状況に追い込まれているのは彼だけではない。
 ホームレス支援の難しさは、食べ物や衣類、お金や住居といった「不足しているものを満たす」ことではなく、むしろこうした「裏切られた傷」を癒すところにある。以前勤めていた会社の上司や友人、あるいは家族といった人間関係の中に躓きを憶え、人を信じることが出来なくなっている人たちは少なくない。
 神は、人間に裏切られ続けて来た。それでもなお、私たちを赦し、受け入れ、愛し続けて下さると聖書は教えている。その神が、《不信》に陥っている私たちのそばに寄り添っていて下さることを信じたい。


『愛する意志』

2012-10-28 | 巻頭言

『愛する意志』

 仙台北バプテスト教会の金丸真先生をお迎えしての特別集会が終わった。たくさんの人たちが駆けつけて下さり、共に金丸先生のお話に耳を傾けることが出来た。そこに、被災地に寄せる熱い思いが溢れているように感じた。
 震災直後、「被災地に行ってみないと分からないことがある」という言葉がしばしば聞かれた。昨年9月、震災から半年経って、ようやく被災地に足を踏み入れたとき、確かに、被災地でこそ分かるものがあった。でも、「被災地に行かないと分からない」ということではない、ということも思わされた。精神論のようなことになってしまいそうだが、やはり最終的には、「分かろうとする」思いこそが大切だということを、むしろ被災地で思わされた。
 遠く離れた福岡の地で、被災地に熱い思いを寄せている人がいる。その一方で、被災地ではまるで観光地に来たかのように、ガレキの前でVサインで写真を撮る人たちもいる。そうした狭間に、切ない思いを抱かざるを得なかった。一体、被災地に思いを寄せるとはどういうことなのだろう?
 集会では、スクリーンに映し出される被災地の様子を前のめりになって見入る人たち、そして被災者の一言一言が紹介される度に目頭を押さえ、鼻をすする音が聞こえる。想像力と、聴く力を奮い立たせ、被災地に思いを向けようとする意欲のようなものが、そこには広がっていた。
 主イエスは、私たちに「互いに愛し合うこと」を求めた。それは方法論や、手段を問題にしているのではない。愛そうとする意志であり、愛そうとする意欲こそが、私たちに求められているのだと思う。


『終わっていない』

2012-10-21 | 巻頭言

『終わっていない』

 昨日から、仙台北バプテスト教会から金丸真牧師をお迎えして、特別集会を行っている。昨日は、唐津で集会を行うことが出来、たくさんの方々と金丸牧師の口を通して語られる、被災地の様子、そこでの苦悩、またそこで迫ってくる聖書のみことばに触れる事が出来た。
 130名程が入るホールで、51名の方々がその場に集まった。会場の大きさからすると少し寂しい感じもしたが、大変豊かな時間であった。帰りの車中で、金丸牧師と伝道委員長とで、その日の集会を振り返った。チラシ配りの際には「被災地」の言葉に反応してチラシを手に取ってくださる方の多さが印象的であった。だからこそ、さらに多くの人たちが来てくれると期待していた。車中で、九州ではひょっとすると震災の出来事がもはや“終わってしまった”出来事となっているのではないか…、そんな問いが出た。テレビを見ていると、まるで復興が進んでいるという印象が与えられ、震災の苦しみや痛みも、“あの時を振り返る”描き方となっている。
 しかしそれでも、昨日の集会に集った一人ひとりは金丸牧師の語られる一言一言に、今なお被災地に漂っている様々な、複雑で拭おうにも拭いきれない思いがあることを分かち合うことが出来た。被災地の悲しみ、痛み、苦しみは、今なお終わっていないのだ。今なお、“あの時”の悲しみを背負いながら生きている方々がおられ、被災地は今なお“被災地”であり続けている。
 歴史は“あの時”の出来事という「点」ではない。そこから始まる「線」なのだ。だからこそ私たちは、常にその時々の「今」という時を見る視点を持っていたいと思う。そして同時に、そこから生み出されていく歴史という「線」を作り出す主体となることが、私たちに求められているのだろう。《私たち》の、《これから》の課題として、今日も金丸牧師のお話を伺う。たくさんの方々と分かち合われることを期待して。


『分かち合われてこその福音』

2012-10-14 | 巻頭言

『分かち合われてこその福音』

 いよいよ、今週土曜日から特別集会が始まる。今年は土曜日の集会を唐津の会場を借りて行うことにしており、チラシを配ったり、下見や会場打合せなどで何度も唐津に出掛けてきた。唐津での集会は初めての試みで、どれくらいの方々が集まって下さるか見当も付かない。確かに不安はある。しかし、それがチャレンジともなる。
 今回は、被災地から金丸牧師が来てくださる。被災地の様子、被災地での取り組みは、私たちにとって大きな関心事である。昨年6月の特別集会に向けたチラシ配りは、震災直後だったということもあり、いつもより多くの人たちがチラシを手にしてくださった。その背後に、「こうした震災を教会はどう捉えているのか?」「聖書はどう語っているのか?」という多くの人たちの問いがあるように感じさせられた。その問いに応える形で、今回の集会が多くの人たちに聖書の言葉の持つ力と、福音の豊かさが伝わることを期待している。それだけでなく、金丸牧師が被災地での出来事を通して読み直されてきた聖書の言葉や、福音からの問い直しを通じて、私たち自身も聖書の言葉や福音に出会い直され、被災地の人々に向ける思いを新たに出来ればと願う。
 イエスは町々村々を巡り歩き、神の国の福音を宣べ伝えていった。さらにパウロもまた、ユダヤを出てローマに至るまで世界に向けてイエス・キリストの福音を宣べ伝えていった。福音は、留まることなく広がっていく。なぜなら福音は、分かち合われてこそ、そこに福音の目指す本質があるのだから。
 前原だけでなく、唐津の地でも、たくさんの方々と福音を分かち合っていきたいと願っている。福音が、分かち合われることを私たちに求めているからだ。