いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(168)「人の本分に生きる」

2014年04月14日 | 聖書からのメッセージ

 伝道の書12章11節から14節までを朗読。

 

 13節に「すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。

 物事にはそれぞれの目的、役割というものがあります。その役割を果たさなければ役に立たない。同じ言葉の繰り返しのようですけれども、そのように言われます。「役立たない」とは、それぞれ造られたものすべてに目的があるからです。何のために造られ、何によってそれが立っているか。それがいわゆる「本分」と言われるものです。本来、それに与えられた使命、目的、これがすべてのものにあります。私たち人間にもそのようなものが必ずあるのです。学生は勉強をすることが本分だとか、あるいは会社に勤める人はその会社で与えられた勤めをする、役職者ならその役職を果たすことが本分になります。社会で生活するための役割が本分となると、それがどれだけ達成されたかによって、人の値打ちが計られるようになります。どんなことができるか、社会に役立つ、あるいは人々に役立つどういう有益な仕事をしているかどうか、あるいはそのような成果が挙がっているかどうか。そのような業績、成果によって、その人の値打ちを測る、そのような風潮、考え方が極めて一般的になってしまうのです。ですから、元気があって若いときはいろいろな事をすることが出来るので、そうしていることで値打ちがあり、価値があり、存在する理由があると思っています。ところが、最近団塊の世代の退職と言われますが、一線を退いてしまう。会社勤めをして30年40年の長い間、一つのことに精を尽くしてきた。そのような人が仕事をやめてしまったら、途端に行き場を失う、自分を失うのです。何のために生きているのだろうか、自分は何をしたらいいのだろうか。居場所がなくなる、あるいは自分の存在が分からなくなる事態が起こってきます。なぜそうなるかと言うと、何かしている自分、何か役立っていると思う自分が自覚される間、それができている間は充実しているのです。それができなくなったら途端に意味を失ってしまう。いわゆる「粗大ごみ」なんていう言い方をされて嫌われる、邪魔になると言われることにもなる。

 

ところが、本当の人の値打ちはどこにあるのでしょうか。そのような何か人様の役に立っているとか、社会とかあるいは家庭とか会社とか、そこで自分が有益に用いられているから生きている値打ちがある、人間としての値打ちがあるというのとは、ちょっと違うのではないだろうか。人の本当の値打ち、それは肩書きも何もなくなって、なおかつその人が人間として本来あるべき値打ちがなければ意味がないのです。だから年を取っていろいろなことができなくなる。あるいは、人からの介護を受けたり、世話を受けながら生活しなければならなくなる。そうすると、よく肩身が狭いとか、生きていても意味がないとか、こんなんだったら死んだ方がましだとか、居ないほうがいいのだとか、つぶやくようになります。それは何かできる自分、何か役立っている自分があって初めて値打ちがあると思っているからです。そうではなくて、聖書には人が生きるのは決して何かをしているから、役立っているから、業績があるから、何か業をしているから、その人に値打ちがある、と言っているのではない。今お読みいたしました12章13節に「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。人としての本分を尽くすことがその人の値打ちです。では、人の本分は何かと言うと、「神様を恐れて、その命令を守ることだ」と言うのです。人間が造られた時、神様は私たちを尊く造ってくださった。そもそもそこに私たちの値打ちがあるのです。

 

創世記1章26節から28節までを朗読。

 

これは天地創造の記事の一節ですが、神様が森羅万象、ありとあらゆるものを造られたとき、その最後に人を造ってくださった。人はどのように造られたかと言うと、26節に「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」とあります。まず「われわれ」というのは誰か。それは神様のことです。神様は「われわれ」と複数で表します。そんなに神様はたくさんいらっしゃるのか、と思いますが、これは三位一体の神、父なる神・子なるキリスト・聖霊なる神ですから「われわれ」と言っているのです。複数の神かと言われると、そうではなくお一人の御方です。唯一の神でいらっしゃいます。しかし、三つの大きな違いがあるから、それを指して「われわれ」とおっしゃっているのです。万物創世の初めのときに、もう既にイエス様は、父なる神と共にいたことが箴言に語られています。だからイエス様は、ベツレヘムの馬小屋に生まれたときにイエス様になったわけではない。神の位に居給うた御方、天地万物創造の初めの時からイエス様は、父なる神と共にいらっしゃった御方で、神ご自身と言ってもいいと思います。だから、ここで人を造られるときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって」と繰り返しています。ほかの動物や海の中の生き物にしろ、どんなものにしろ、神様のかたちにかたどられたものはない。ただ一つ、人だけです。だから私たちは神様のかたちに似たものとして造られた。これは掛替えのない大切な存在であるという証詞です。神様が全ての被造物、造られたものの中で、いちばん大切なものとして造ってくださったことでもあります。

 

子供が与えられると、誰に似ている、というようなことをよく言います。親御さんは自分に似た子供が可愛い、ということをよく言いますが、私はよく分かりませんが、若いお母さんたちの話を聞きますと、よくそのような話にぶつかってびっくりするのです。「この下の子は私に似てなんだか気が合う。やっぱり可愛いですね」と言われる。「じゃ、上の子は?」「いや、主人に似ましてね」と言う。「どうしていけないのですか」、「いや、だって主人、格好悪いでしょう」と言う。「でも、あなたが愛しているご主人でしょう?」と言うのですが、そんなことはとうの昔に忘れているようで、やはり自分に似たものが可愛いという。神様はそうだかどうか知りませんが、神様はすべて造ったものを愛しているでしょうが、しかし、その中でも特に自分に似たものとして私たちを造ってくださった。これは本当に素晴らしい恵みです。どうぞ、私たちはいつもこのことを心に留めておきたい。私たちは尊い天地万物の創造者でいらっしゃる神様のかたちにかたどられたものだということです。そのように大切なものとして造られた。ここに私たちの存在意義がある。だから、自分勝手に役に立つとか、立たないとか、あるいはこういうことができるとか、できないということで、自分を駄目だとか言うことはできない。それは神様を恐れない仕業というほかはありません。

 

よく人間の尊厳ということを言います。家内の両親が今施設に入るためにあちらこちらの介護施設、老人ホームとかケアハウスというのを見て回ります。大分知識ができましたから、将来皆さんのお役に立てるかもしれませんが、このような施設もピン・キリです。ケアマネジャーの方が「とにかく、いろいろなところを見てください。足で歩けば歩くほど役に立ちます」と言われました。初め、私は「そうかな」と思って、「まぁ、パンフレットぐらい見ておればいいかな」と思っていましたが、ところが案外そうではない。行ってみると、パンフレットに書かれているように設備は整ってはいても、そこで働いている人の雰囲気であるとか、その応対であるとか、これはガラッと違います。やはりそこへ行ってみて話をし、あるいはそれは通り一遍に過ぎませんが、取り敢えず施設の内部を見せてもらう。その間に、働いている人たちの様子、その応対している姿を瞬時にしてパッパと見る。そうすると、時々、表向きは本当に優しそうにしているけれども、陰の所で、人の見えない所、洗濯場であるとか、トイレであるとか、そういう所で激しい声で叱っている声が聞こえてくる。だから、あまりそういうのは見せたくない、聞かせたくない人たちもいる。それでここはちょっとねと、「あそこにお父さんを入れるとしたら、涙が出てくる」と家内が言う。でもそこに住んでいる人がいないわけではない、いるのです。私は「まぁ、住んでいるのだから殺されるわけはなかろう」と言うのですが、やはり肉親としてはもう少し人間的に扱ってほしい。でも入った玄関の正面に、誰が書いたか知らないが筆文字で、大きく『人間の尊厳』なんて書いてある。「ほう、ここは人間を尊ぶ所か」と思ったら、あにはからんやそれは口先だけ、どこに尊厳があるかというのを見ていますと、「人間の尊厳」とは何なのだろうか?と考えます。口先だけ、言葉だけで、その尊厳ということの意味内容を具体的に知っているのだろうか、と思うのです。

 

それを知るためには、どうしてもこの聖書の言葉に返らなければならない。人間の尊厳、人は尊い、大切なものだ。なぜ?どうして? これはなぜ人を殺してはいけないか、という問いにも通じてくるのです。かつてはやった歌に「人はそれぞれ個性があって、その人一人しかいないから大切だ」とありましたが、世に一つしかないから大切だと言うなら、いくらでもあります。石ころだって形といい、姿といい、これは世に一つしかない。どれほど大切か。たった一つだから大切だとはならない。人が人として尊ばれるべき理由はどこにあるか。それはまさにここです。今お読みいたしました1章26節に「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」と、私たち一人一人が神様の尊いかたちとして造られたものである。これが私たち人間の尊厳の始まりです。だからお互いに相手を尊ばなければならない。自分が神のかたちにかたどられた尊いものであることを自覚すると同時に、目の前に立っているこの人もまた神様のかたちに造られた人なのだと認める。神様を恐れるということがなければ、人間の尊厳は成り立ちません。

 

そのような施設をみるたびに、職員を集めて人間の尊厳について教えてやろうかと思います。「分かっているの、あなたたちは!」と言いたくなりますが、本当に大切なのはそこなのです。だから、介護するほうも、されるほうも共に神様にかたどられた尊いかたちとして、神に似た者として造られた者であることをしっかりと自覚することによって初めて、そこでお互いが謙そんになれます。神様を恐れる者となるのです。それがなくては人が本来の人となることができない。

それからもう一つは2章4節の後半から7節までを朗読。

 

7節に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とあります。私たちが神のかたちに尊く造られた者であると同時に、ただ肉体的な生命を生きる存在ではなくて、もう一つ7節にありますように、神様の命の息を私たちに吹き入れてくださる。この神様の命の息を受けることによって、そこで人は生きた者となる。初めて人は生きることができるのです。これは私たちにとって大切な命です。だから、これを欠いては人が人として生きることができません。私たちの住んでいる世の中は、まさにその神のかたちとして造られた人が、神を忘れ、神様の命の息で生かされるべき人が、それを抜きにして、肉の塊として、肉の力、いわゆる肉体的なエネルギーとして、肉によって生きる世の中になって、神を恐れるものが一つもなくなっている。これが今の世の中でしょう。言い換えると、人が本分を捨ててしまった。ただ単なる動物的な存在、神様から造られた者でありながら神様を離れてしまった姿であることはご存じのとおりです。かつては私たちもそのような中に生きていたのです。

 

もう一度初めの伝道の書12章13節。

事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。神様を恐れること、その命令を守ること。「神様を恐れる」とは、神様がいらっしゃること、神様がすべてのものの造り主であり、私たちを造り生かしてくださることを認めていく。神様を恐れかしこみ、尊ぶことです。もちろん神様は私たちに対して報い給う御方、その後の14節に「すべての隠れた事を善悪ともにさばかれる」、裁き主でいらっしゃいますから、これを恐れるべきだという事も、もちろんそのとおりです。そればかりでなく神様をもっと大切にし、それを尊び敬う者となること、これが私たちの命です。というのは、この「伝道の書」はそのことを語ろうとしているのです。ご存じのように「伝道の書」の初めの方を読みますと、すべてのものは空の空なるかな、風を捕らえるようなもの、すべてむなしい事だ、とあります。これは日本人の無常観に相通じるものがあります。「ああ、そうか。むなしいことやな。どんなに生きて汗水たらして働いても何の役に立つか」と書いてあるでしょう。初めの方を読みますと、ある人が大邸宅を設けて、そこに雇い人を大勢雇って、庭には船でも浮かべられるくらいの泉水を造り、果樹園を設けて、思いっきりぜいたく三昧を尽くした人のことが書かれていますが、その最後に空の空なるかな、こんな事をしてみたけれどもむなしかったと語っています。

 

そうやってすべてのものがむなしいと言って、じゃ、どうなのかと言いますと、その結論が今読みました13節に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ」。神様を恐れ、その命令を守るのでなければ、空しいという意味なのです。どんなに恵まれた境遇にあろうと、どんなことをしてみても、そこに神を恐れ、人としての本分が失われていたならば、それはむなしいことである。私はそのように思うのです。こうやって私たちは幸いに神様の憐(あわ)れみにあずかり、この救いに引き入れられて、今神様を知ることができます。神様を恐れて、神様の御言葉に生かされる幸いな命を頂いています。そうしますと、それが当たり前のように思いますね。皆さん、何十年と教会に来て、聖書も何度となく読み、そして神様に祈り、またその御言葉によって励まされ、命を与えられて生きる生活が当然のように思っている。ところが世の人々、多くの人々はそんなことを何も知らないで生きている。神様を知らないで生きる生き方と、神様を知って、恐れ敬い神様のお言葉によって生かされていく生涯と、どこがどう違うか。案外私どもは、似たようなもの、あまり差はない。かえって、神様を信じた私のほうが窮屈かも知れないぐらいに思っているかも知れませんが、それはとんでもない大きな大間違いです。私たちは本当に幸いな生涯だと思います。

 

ですから、伝道の書5章10節から17節までを朗読。

 

どうですか皆さん、これを読んで「そのとおり、なるほどそうだな」と思われるに違いないと思います。「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない」。お金がある人はますますほしくなる。“金持ほどケチだ”とよく言いますが、私達はケチにならないで済みますので良かったと思います。「財産が増せば、これを食う者も増す」と。まぁ、幸いに無いから良かったと思います。「富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼす」と。われわれは害を及ぼされないで良かったと思いますね、富は無いですから。ところがこの17節に「人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある」。こればかりはなんだか全部あてはまるような気がしますが、それは神様を知らないからです。神様のことを知らない、神様のことを認めない、恐れない生涯はまさにこのとおりだ、という意味です。

 

ところが、その後18節から読みます。ここにもう一つ違った生き方、「見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである」。素晴らしい生き方が語られています。「わたしが見たところの善かつ美なる事」、この伝道の書を書いたソロモンですか、知者、いわゆる伝道者と言われる人は、素晴らしい「善かつ美なる事」を知っていると言っています。それは「神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である」。素晴らしいですね。ここにいちばん大切なことが書いてあります。「神から賜わった」と表現しています。まずもって、私の今生きているのは神様から頂いたもので、神様が私を造ってここに置いてくださったのだと認めること。そしてその短い一生の間を「食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦」、言うならば人生のさまざまな労苦、それはあるのだけれども、神様によって賜った生涯、神様を恐れて神様に従っていくならば、その労苦によって楽しみを得るという。そんな馬鹿な、労苦がないことが楽しいはずじゃないかと、世間では言います。しかし、神様を恐れ敬い、神様のお言葉に従っていくときに、労苦こそ私たちの楽しみなのです。だからローマ人への手紙5章に「それだけではなく、患難をも喜んでいる」と、「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。5 そして、希望は失望に終ることはない」。言うならば、私たちが神様の救いにあずかって、神を恐れる者となり、神様のお言葉によって命を頂いて生きる生涯は、どんなに労苦が多くても、その労苦はすべて私たちの楽しみのためなのです。だからどうぞ、皆さん、私たちは今イエス様を信じてこの救いにあずかったけれども、なお次から次へといろいろな困難や悩みが押し寄せてくるとするならば、それは神様があなたを楽しませようとしてくださるのです。その先19節に「また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である」という。私たちの生活に必要な富も宝も、どんなものもちゃんと与えてくださる。「その分を取らせ」とあります。それぞれに必要な分を神様は備えてくださるのですから、何の心配もなく与えられる労苦を楽しみなさい。これは神様の賜物なのだよと。私達はもう一度考え方を変えようじゃありませんか。年を取って、自分は労苦がいよいよ身にしみる、骨身にしみると、そんなことで逃げないで、そういうことを嘆かないで、「これは神様が私を楽しませようとしていらっしゃる」。年を取ればとるほど、あそこが痛くなる、ここがどうなる、家庭的にも、人間関係でもいろいろな事柄で今までのようにスムーズに行かないことが多くなります。「労苦が多くて」、しかしそれは晩年を楽しみに満たそうとする神様の賜物、ここにそのように記されています。「これが神の賜物である」と。私たちは神様の賜物と言うと、事もなく遊園地にでも遊んでいるような生活を考えますが、そうではない。神様は労苦を楽しみとして、賜物として与えてくださる。そして最後に20節に素晴らしい事が記されていますよ。「このような人は自分の生きる日のことを多く思わない」。そのような神様の与えてくださる素晴らしい賜物、労苦を楽しんで生きる生涯を送る人は、果てしなく長生きをしようなんて、そのような浅はかな願いは持たないという。「生きる日のことを多く思わない」、長く生きたいなんて思わない。と言って早く死ぬわけではないでしょう。神様が「よし」とおっしゃったときに、喜んで帰っていく。なぜならば「神は喜びをもって彼の心を満たされるからである」。心が満ち足りているから、これ以上生きようと死のうと、そんなことはもうどうでもいい。ここで主が「人の子よ。帰れ」と召されたときに「はい、感謝です。もう私は十分満足しました」と言える生き方を、神様はさせてくださいます。これが人の本分に生きる生き方です。神様を信じる生きかたと、神様を知らないで、人の知恵と、人の肉の力で生きる行き方と、ここに二つの生き方の違いがピタッと出ている。皆さんはどちらを選びますか。「いや、たとえ一生が労苦と悲しみと悩みと苦しみの連続であってもいいから、自分のしたいように、思うように生きたい」と言うのでしたら、それもいいかもしれませんが、その後は滅びです。しかし、神様を恐れて、神様が与えられたこの地上の命、この一日一日を「神を恐れ、その命令を守って」与えられる労苦すらも楽しみとして、喜んで、神の賜物として感謝して生きるとき、その生涯の心は満ち足りて、終わりのときが来たならば喜んで神様の所へ帰る。これが人に与えられた神様の本分を尽くす生き方です。

 

もう一度初めの伝道の書12章13節に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。「命令」と言われると、何のことかなと思いますが、これは神様の言葉です。聖書の言葉を私たちが心に抱いて……。なぜ「命令を守れ」と言われるか。それは神様のお言葉は命だからです。神様を恐れるだけでいいのではないか。なぜ命令を守らなければいけないのかしら。「神様の命令」は、聖書のお言葉ですが、そのお言葉は命です。ヨハネによる福音書1章4節以下に「その言(ことば)に命があった。そしてその命は人の光であった。5光はやみの中に輝いている。そしてやみはこれに勝たなかった」とあります。

もう一つ読んでおきたい。ヨハネによる福音書6章63節を朗読。

 

63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」とあります。人を生かす命はどこからくるか?健康であることが命ではありません。イエス様が言われたように「人の生くるはパンのみに由るにあらず、の口より出(い)づる凡ての言(ことば)に由る」(文語訳)と、神様のお言葉によって、初めて人は生きる者となることができる。そして、そのお言葉はどこにあるか。「わたしがあなたがたに話した言葉」とあります。イエス様のお言葉、神の御言葉は「霊であり、また命である」。神様の言葉の中にこそ生きる命が隠されている。

 

イエス様は種まきの例えを語っていますが、御言葉をまくのであると、マルコやルカによる福音書に記されています。「種」は、その中に命があります。それが土に埋められ、そして時を経ると、やがてそれから新しい芽が出て成長し、根が生え、実を結びます。種自体は何の変哲もない、どこにそんなエネルギーが秘められているだろうかと思うような小さなものです。ところが、そこから何万倍と実が実る。なぜなら、その中に命があるからです。単なる石粒であったら、それは変わらない、命がない。神様のお言葉、イエス様のお言葉も同じで、私たちが一つのお言葉に「そうだった。神様がそのようにおっしゃるのだったら、はい、従います」と信じて、御言葉を握って立ったとき、私たちの暗く失望していた心に命があふれてきます。元気が出てきて、顔が輝いて、喜びにあふれてきます。事情、境遇、事柄が何一つ変わらなくても、御言葉によって望みを得、力を得、エネルギーがあふれてくる。だから人はパンだけではなく御言葉によって、神様の口から出る一つ一つのお言葉で生きる。「その命令を守れ」とは、そのためです。

 

ですから、神様を恐れ、命令を守ることは、私たちの命の源だからです。そうやって神様の命に結びついて生きるとき、人が人たる生き方が初めて全うされるのです。私たちの救いの恵みがどんな大きなものであるか、感謝して、いよいよ熱心になって、神様をまず第一にし、恐れ敬い、尊んで、御言葉の命をくみ取っていきたい。素直な従いやすい従順な心になって、へりくだって、「神様、あなたがそうおっしゃいますから、神様、あなたのお言葉ですから」と、折に触れて心に思いを起こしてくださるお言葉、神様がうながして背中を押してくださるとき、ペテロのように「主よ、お言葉ですから」と、信じて踏み出していきたい。この命をたとえ短くても、最後まで生き抜いて、そしてやがてのとき本当に心に満足を与えられて主の御許に帰りたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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