即身成仏義
色即ち心、心すなわち色、無障無碍なり。智すなわち境、境すなわち智。智すなわち理、理すなわち智。無碍自在なり。能所の二性ありといえどもすべて能所を絶せり。・・かくのごとく六大法界体性所成の身は無障無碍にして互相に渉入相応し、常住不変にして同じく実際に住せり。ゆえに頌に「六大無碍常瑜伽」といふ。無碍とは渉入自在の義なり。常とは不動不壊の義なり。瑜伽とは翻じて相応といふ。相応渉入はすなわちこれ即の義なり
(物質は即ち心、心はすなわち物質であり、相互に無障無碍である。主観たる智は同時に客観たる対象でり、対象はすなわち同時に智・主観でもある。主観たる智はすなわち客観たる道理であり、道理はすなわち主観たる智である。・・このように地水火風空識の六大により造られている宇宙そのものよりなる身体は全てとの間で無障無碍であり、永久不変であり、そのままで真実究極の姿である。それゆえに「宇宙の命である六大は相互に遮るものはなく永遠に結びついており融合している」というのである。遮るものはなく、とは、『六大』が自由自在に相互に交渉しあうということであり、『常』とは動かない・壊れない等のいみである。『瑜伽』 とは漢語で相応というが、「相応渉入」とは即身成仏の「即」のいみになる。)
再度「即身成仏偈」を出しておきます。
「 六大無礙にして常に瑜伽なり 体 (地水火風空識の六つの法身が有情非情すべてにいきわたっているという宇宙の本質がある)
四種曼荼 各々離れず 相 (宇宙の一切は大曼荼羅(有情)三摩耶曼荼羅(非情)法曼荼羅(教法)羯磨曼荼羅(作用)という現象をしめし ている)
三密加持すれば速疾に顕わる 用 (密教修法により行者の身口意を仏が加持してくださり仏の身口意と一体に出来るので望むところがすぐに成就 する)
重重帝網なるを即身と名づく 無礙 (仏と衆生は帝釈天の網の珠が相互に映しあっているように一体となれるので即身と名く)
法然に薩般若を具足して (衆生の心中にはもとから無尽の仏智をそなえているので)
心数心王刹塵に過ぎたり (衆生も無数の大日如来とその他の仏の仏智を持っており)
各々五智無際智を具す (法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智など無辺の佛智を具えている)
円鏡力の故に実覚智なり 成仏」 (三世の有情非情有為無為すべてについてのことをあきらかにする智慧の鏡を得て覚りの位にはいることが できる)
色即ち心、心すなわち色、無障無碍なり。智すなわち境、境すなわち智。智すなわち理、理すなわち智。無碍自在なり。能所の二性ありといえどもすべて能所を絶せり。・・かくのごとく六大法界体性所成の身は無障無碍にして互相に渉入相応し、常住不変にして同じく実際に住せり。ゆえに頌に「六大無碍常瑜伽」といふ。無碍とは渉入自在の義なり。常とは不動不壊の義なり。瑜伽とは翻じて相応といふ。相応渉入はすなわちこれ即の義なり
(物質は即ち心、心はすなわち物質であり、相互に無障無碍である。主観たる智は同時に客観たる対象でり、対象はすなわち同時に智・主観でもある。主観たる智はすなわち客観たる道理であり、道理はすなわち主観たる智である。・・このように地水火風空識の六大により造られている宇宙そのものよりなる身体は全てとの間で無障無碍であり、永久不変であり、そのままで真実究極の姿である。それゆえに「宇宙の命である六大は相互に遮るものはなく永遠に結びついており融合している」というのである。遮るものはなく、とは、『六大』が自由自在に相互に交渉しあうということであり、『常』とは動かない・壊れない等のいみである。『瑜伽』 とは漢語で相応というが、「相応渉入」とは即身成仏の「即」のいみになる。)
再度「即身成仏偈」を出しておきます。
「 六大無礙にして常に瑜伽なり 体 (地水火風空識の六つの法身が有情非情すべてにいきわたっているという宇宙の本質がある)
四種曼荼 各々離れず 相 (宇宙の一切は大曼荼羅(有情)三摩耶曼荼羅(非情)法曼荼羅(教法)羯磨曼荼羅(作用)という現象をしめし ている)
三密加持すれば速疾に顕わる 用 (密教修法により行者の身口意を仏が加持してくださり仏の身口意と一体に出来るので望むところがすぐに成就 する)
重重帝網なるを即身と名づく 無礙 (仏と衆生は帝釈天の網の珠が相互に映しあっているように一体となれるので即身と名く)
法然に薩般若を具足して (衆生の心中にはもとから無尽の仏智をそなえているので)
心数心王刹塵に過ぎたり (衆生も無数の大日如来とその他の仏の仏智を持っており)
各々五智無際智を具す (法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智など無辺の佛智を具えている)
円鏡力の故に実覚智なり 成仏」 (三世の有情非情有為無為すべてについてのことをあきらかにする智慧の鏡を得て覚りの位にはいることが できる)