観自在菩薩冥應集、連體。巻5/6・13/39
十三六波羅蜜寺十一面観音幷空也上人事
山城國京東山六波羅蜜寺十一面観音は御長一丈空也上人の作にして三十三所第十七番の霊像なり。村上天皇の天暦五年(951年)に洛中疫癘流行して万人死すること多し。上人是を憐みて自ら十一面大悲の像を造りて祈り玉へば其の疫疾即ち止みぬ。即ち四衆を勧めて一宇の堂を建立して安置し玉ふ。今の六波羅蜜寺なり。方丈普門院は寺領七十石(七百万円)あり。昔平清盛の邸宅此の邊にありければ清盛も特に此の尊像を信仰せられし故に清盛の肖像も今も寺にあり。仏師運慶湛慶が肖像も此の寺にあり何ゆえにかありけん。又此の寺の総門は北向なり。是希なる事にや。御堂関白摂政太政大臣道長公平等院を建て玉ひけるに総門の便宜をおぼしめし煩はせ玉ひけるをりふし、四條大納言公任卿(平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流、関白太政大臣・藤原頼忠の長男。官位は正二位・権大納言。中古三十六歌仙の一人、百人一首では大納言公任、『和漢朗詠集』の撰者)参りたりけるに東は河、南は山、西は後ろなり。北より外へ総門建つべき便りなし。北に総門ある寺や候と尋玉ひけるにさしもの英才智嚢も覚へなかりけるにや。江の中納言(大江匡房)未だ弱冠の時車の後ろに相乗て同じく参られたりけるに左様の寺ありけりやと問きれば、匡房卿答て曰く、先ず吾朝には六波羅蜜寺空也上人の寺、漢土には西明寺圓測国師(えんじき。新羅出身の法相宗学僧。新羅王の孫とも伝えられる。唐に入り法常・僧弁に唯識を学び、645年の玄奘帰唐後はその門下として経典の翻訳・注釈に従事し、長安西明寺に住した。)の寺、天竺にては大那爛陀寺戒賢論師(護法に師事して唯識を極め、ナーランダ僧院の学長となり、「正法蔵」と尊称される。晩年に留学して来た玄奘に唯識を伝える)の寺也ともうされけるに子細にや及ぶとて北に総門を建て玉ふとかや。(「十訓抄 第一 人に恵を施すべき事」に「宇治関白、平等院を建立の時、地形の事など示し合せられむために、土御門右府をあひともなはせ給ひたりけるに、「大門の四足、北向きならずはその便なし。大門の北向きの寺や侍る」と問はせ給ひければ、右府、覚えざるよし、答へ申されけり。ただし、匡房卿、いまだ無官にて江冠者(がうくわんじや)とてありけるを、車の尻に乗せて具せられたりけるを、「彼こそ、さるごときことは、うるせく覚えて候へ」とて、召し出だして問はれければ、申していはく、「天竺には那蘭陀寺、戒賢論師の住所、震旦には西明寺、円側法師の道場、日本には六波羅蜜寺、空也上人の建立、みなこれ北向なり」とぞ申しける。宇治殿、ことに御感ありけり。」)凡そ大江匡房卿は和漢の才人、儒佛の達者なりければかやうのことまでを能く記憶し玉へり。空也上人諱は光勝といふ。仁明天皇の第六の王子常康親王の子なり。二十ばかりの時、尾州国分寺にて剃髪して沙弥となり自ら弘也と称す。若き時は佚遊を好みて天下を遍く遊行して多く利済をなし、嶮しき道をば鋤を以て作り、湿る處には土を荷ひ、大河に橋を架け、破壊せる伽藍を修復し、水に乏しき地には多く井を掘るに水必ず甘冷なれば人是を阿弥陀井と云。又市中に薦を張りて念仏を唱へて普く人を勧め玉へば市の上人とも云へり。常に野原に人の屍骸あれば拾聚めて火葬し名号を唱へて回向し玉へり。天歴二年(948年)四月天台山に登って座主延昌(平安中期天台僧。内供奉十禅師・天台座主。祈祷をよくし,朱雀・村上天皇の帰依のを受ける)に従って比丘となり、五年に六波羅蜜寺を建立あり。播州揖穂郡の峯合寺(兵庫県姫路市西北部の峰相山にかつて存在した寺院、鶏足寺)に大蔵経を閲するに通ぜざる處あれば夢中に金人来たりて説通す。又阿州の海中に島あり、湯隝といふ。観自在感応の地なり。上人香を臂の上に焚て七日七夜動かず睡らず。大悲の真身を見んと願ふに其の像光明を放ち玉へり。又雲林院(京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。かつて天台宗の大寺院として知られた、平安時代の史跡)に住し玉ふ時に京に出玉へば老翁あり、垣に倚りかかりて其の形はなはだ寒げにて歯をがちがちと叩く。上人曰く、尊老甚だ寒きに何ぞ此処に立玉へるや。翁の曰く、我は是松尾明神なり。この頃般若の法味を受くれども未だ大白牛車に登らず、故に貪瞋の風邪我が膚に逼る。師法華を善くす、願はくは意あれやと。上人即ち衣を脱で與へて曰く、我この衣を着て法華を誦すること四十年其の妙香此の衣に薫染す。今是を献ぜん、可ならんやと。神悦び受け著玉ふに身相暖なる粧ひにて寒気なし。又一人の老鍛冶あり、上人に白して言さく、日暮れ道遠し、生死を如何せんと。上人教へて曰く、専ら弥陀を念ぜよと。鍛冶辞して還る中道にて賊に遭ふ。鍛冶即ち念仏するに賊の曰く、空也上人也とて捨て去りぬ。又応和三年(963年)八月名徳六百人を請じて六波羅蜜寺に於て紺紙金泥の大般若経を慶讃し玉ふ。時に門前に乞丐の人多し。此の中に比丘の形の者あり。浄蔵貴所(平安時代中期の天台僧。葛城山、大峯山等で修験道の修行、その法力・神通力で京の人々を驚嘆させる。平将門の乱の調伏、菅原道真公の祟りに悩む藤原時平への護持祈念(時平の耳から青竜に化した道真が現れ、中止すると時平は死去)等伝説は数知れず)見玉ひて大に驚きて是を上座に延ひて坐せしむるに此の人も辞せず、又言いはず。蔵(浄蔵貴所)一孟の飯を與ふ。四斗(約 60kg)ばかりありしを皆食し盡す。蔵又飯を薦るに又悉く食せしかば衆人大に怪しむ。蔵慇懃に送り去らしむ。後に見れば與ふる米元の如くにして少しも減らずありければ諸人怪しみて浄蔵に問ふに、是文殊師利菩薩の応化なりと宣へば諸衆大に驚き空也上人にあらずんば文殊の来現を感じ玉はじ、浄蔵貴所にあらずんば妙吉祥を見知る事あたはじといへり。初め経を書写して水晶を軸とせんことを求め玉ふに長谷寺の観音のお告げにて得玉へり事は長谷寺の下にあり。奥州出羽の二國は夷狄の地にして佛法を信ずる者少なし。上人像と経とを負て彼に往て説法化導し玉へば風に靡く草木の如くに教化に随ひけり。和州の別駕(「介」の事)伴の典蔵が妻老ひて尼となり常に上人の教化を受く。平生の教訓に曰く、夫れ仏道を得んと思へば唯此の身を捨つべし、身を捨てざるが故に法を得ず。身を捨つれば法あり、身あれば法なし、と。天禄二年(971年)九月上人、破れたる袈裟を尼の方に送りて綴らしむ。十一日尼補緝畢て婢を馳せて曰く、早く獻れやがて往生し玉ふべしと。急に馳せて上り復れば上人入滅し玉ふ。尼亦驚かず。臨終の時浄衣を著、香炉を執って端座して門人に語て曰く、無量の聖衆来迎して空に満ち玉へりと。言已って気絶ゆれども手の香炉傾かず。異香薫じ音楽天に響けり。時に歳七十歳とかや。