福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「生類を神明に供ずる不審の事」

2019-05-14 | Q&A
八 生類を神明に供ずる不審の事

安芸の厳嶋は、菩提心祈請の為に、人多く参詣する由申し伝へたり。その故をある人申ししは、

「昔弘法大師参詣し給ひて、甚深の法味を捧げ給ひける時、(=神が)示現に、何事にても御所望の事承るべき由仰せられけるに、『我が身には別の所望は候はず。末代に菩提心祈請する人の候はんに、道心をたび候へ』と申し給ひければ、『承りぬ』と仰せありける故に、昔より上人ども常に参詣する事にてなん侍る」とぞ。


ある上人参籠して、社頭の様なんど見ければ、海中の鱗いくらといふ事も無く祭供しけり。和光の本地は仏菩薩なり。慈悲を先とし、人にも殺生を戒め給ふべきに、この様大きに不審なりければ、取りわきこの事を先づ祈請申しけり。

示現に蒙りけるは、「誠に不審なるべし。これは因果の理も知らず、徒らに物の命を殺して、浮ひがたき物、我に供ぜんと思ふ心にて、とがを我にゆづりて彼は罪軽ろく、殺さるる生類は報命尽きて、何となく徒らに捨つべき命を、我に供ずる因縁によりて、仏道に入る方便をなす。よつて我が力にて、報命尽たる鱗を、かりよせてとらするなり」と示し給ひければ、不審晴れにけり。

<江州の湖に大なる鯉を浦人捕りて殺さんとしけるを、山僧直(あたひ)をとらせて湖へ入れにけり。その夜の夢に、老翁一人来て云はく、「今日我が命を助け給ふこと、大に本意なく侍るなり。その故は、徒らに海中にて死せば、出離の縁欠くべし。加茂の贄になりて、和光の方便にて出離すべく候なるに、命のび候ひぬ」と、恨みたる色にて云ひけると古き物語にあり。

江州の湖を行くに、鮒の船に飛び入りたる事ありけるに、一説に山法師、一説に寺法師、昔より未だ定まらざるなり、この鮒を取りて説法しけるは、「汝放つまじければ生くべからず。たとひ生くるとも久しかるべからず。生ある者は必ず死す。汝が身は我が腹に入れば、我が心は汝が身に入れり。入我我入の故に、我が行業、汝が行業となりて、必ず出離すべし。しかれば汝を食ひて、汝が菩提を訪ふべし」とて打ち殺しけり。まことに慈悲和光の心にてありけるにや。またただ欲しさに殺しけるにや。おぼつかなし。>

信州の諏方・下野の宇都の宮、狩を宗として、鹿鳥なんどをたむくるもこの由にや。

大権(たいごん)の方便は凡夫知るべからず。真言の調伏の法も、世のため人のため、あだと成る暴悪のものを、行者、慈悲利生の意楽に住して調伏すれば、かれ必ず慈悲に住し悪心をやめ、後生に菩提を悟ると云へり。

ただ怨敵の心を以て行ぜんは、かの法の本意にあらず。さだめて罪障なるべし。また法もなすべからず。かへつて我が身災難に遭ひ罪障深し。されば神明の方便もこの心なるべし。

凡そは殺生をせずして、仏法の教の如く戒行をも守り、般若の法味を捧げんこそ、まことには神慮に叶ふべき事にて侍れ。その故は、漢土に儒道の二教を始めてひろめしに、牛羊等を以て孝養には祭る事なるを、古徳の云はく、「仏法はたやすく流布し難し。よつて天竺の菩薩、漢土へ生まれて、先づ外典を弘めて、父母の神識ある事を知らしめ、孝養の志を教へて仏法の方便とす」と云へり。

されば外典の教をば権教と云ひて、正しき仏法にはあらず。仏法流布しぬる後は、釈教を行ずる人は、かの祭を改めて、僧の斎とし、[供仏施僧のいとなみとし、]仏法を以て孝養の儀をなす。

これを以て思ふにも、我が国は仏法の名字も聞かず、因果の道理も知らざりし時、仏に仕へ、法を行ずべき方便に、祭といふ事を教へて、漸く仏法の方便とし給へり

本地の御心をうかがひ、仏法の教へ弘まりなば、昔の業を捨てて、法味を捧げんこそ、真実の神慮にかなふべきに、人の心に古くしなれぬる業をば、捨て難く、思ひ染みぬる心は、忘れがたきままに、ただ物を忌み祭を重くして、法味を奉る事少なきは、返々も愚かにこそ。和光の面も、なほ戒を守るこそ、神慮に叶ふ事なれ。

<熊野へ詣づる女房ありけり。先達この檀那の女房に心をかけて、度々その心を言ひける。さて先達の心を違へぬことなれば、すかして、「明日の夜、明日の夜」と言ひけり。今一夜となりて、しきりに「今夜ばかりにて侍る」と言ひける日、この女房物思ひたる色にて食事もせず。

年来近く使ひつけたる女人、主の気色を見て、「何事を思しめし候ぞ」と問ひければ、しかじかと語りて、「年久しく思ひたちて参詣するに、かかる心憂きことあれば、物も食はれず」と言ふ時、「さらばただ物もまゐり候へ。夜なれば誰とも知り候はじ。わが身代はりまゐらせて、いかにもなり候ふべし」と言へば、「おのれとても、身を徒らになさんこと悲しかるべし」とて、互に泣くよりほかのことなし。「しかるべき先世の契りにてこそ、主従となりまゐらせ候へば、御身に代はりて、徒らになり候はんこと、つやつや嘆くべからず」と、うち口説きて泣く泣く言ひけり。

さればとて物食ひてけり。さて夜より会ひたりけるに、先達はやがて金になりぬ。熊野には死をば金になるといへり。女人はことなることなし。この事隠すべくもなければ、世間に披露しけるに、人々、「すべて苦しからじ。ただ女人参るべし」と言ひけり。まことにつつがなし。津の制にかなへり。同心の欲愛ならば、二人金になるべし。主のため命を捨てて、わが愛心なき故にとがなし。律制に違はず侍るにひや。>

熊野詣等みな戒行に違はず。諸の霊社に中古より講行なんど行なはるは、本地の御意に叶ふべき故に、和光の威もめでたくおはすべきなり。


4 漢土のある山のふもとに、霊験あらたなる社ありけり。世の人これをあがめ、牛羊(ごやう)魚鳥なんどを以て祭る。その神ただ古き釜なりけり。ある時、一人の禅師かの釜を打ちて、「神いづれの所より来たり、霊いづれの所にかある」と云ひて、しかしながら打ち砕きてけり。

その時青衣着たる俗一人現じて、冠傾けて禅師を礼して云はく、「我ここにして多くの苦患を受けき。禅師の無生を説き給ふによりて、忽ちに業苦を離れて天に生ず。その恩報じがたし」と云ひて去りぬ。

されば「殺生をして祭るには、神明苦を受け、清浄の法味を捧げ、甚深の道理を説くには、(=神は)楽を受く」と云へり。この意を得て、罪なき供物を捧げ、妙なる法味を奉るべきなり。


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