済南事件

2015年09月28日 11時49分44秒 | Weblog

中村粲氏『大東亜戦争への道』より

我軍の警備を撤去させ、日本人を襲ふ

事件は我軍が警備を撤去した直後の五月三日朝に発生した。南軍暴兵が満洲日報取次販売店・吉房長平方を襲撃掠奪したのが発端だつた。 南軍兵は駆けつけた日本人巡査にも暴行を加へたため、我が救援部隊が現場に急行するや、中国兵は忽ち遁走して兵舎に隠れ、その中より銃撃を加へてきた。
ここに於て彼我交戦状態に入り、中国兵による乱射掠奪は一挙に市中に拡大した。間もなく両軍間に停戦の申合せができたが、中国軍はこれを無視し、白旗を掲げて停戦を呼びかける我が軍使さへ射殺する暴挙に出た。 市内は凶暴な中国兵のため忽ち修羅の巷と化した(参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』)。

 「南軍鬼畜と暴れ狂ふ」「日本人は狂暴なる南軍のため盛んに虐殺されつつあり」 - 中国兵の暴状を五月四日付東京朝日新聞はかう報じてゐるが、各所で多数の男女日本人居留民が暴兵の手で惨殺されて行つた。

 前出『昭和三年支那事変出兵史』によれば、五月三日、四日の戦闘に参加した我軍の兵力は歩兵約五大隊、騎兵一小隊、野砲兵二中隊その他であつたが、その中、戦死九、負傷三十二であつた。
またこの戦闘の間に、東西両地区警備隊は守備線外に離散してゐた我が居留民約二百八十名を弾雨を冒して収容したが、十二名(男十、女二)の居留民は三日正午頃、南軍の手によつて惨殺された。
その後五月五日、済南駅東方鉄道線路付近に隠匿埋没してゐた鮮血生々しい死体九を、六日津浦駅付近で一を、九日には白骨と化したもの二を発見した。
 
その他南軍の爆弾によつて負傷入院後死亡したもの二、暴行侮辱を加へられたもの三十余、凌辱された婦女二、椋奪被害戸数百三十六、被害人員約四百、被害見積額は三十五万九千円に達した。

酸鼻! 日本居留民虐殺さる

済南事件に於て、支那兵が我が居留民に加へた暴虐凌辱は言語に絶する悪鬼の所業であつた。事件直後に惨死体を実見した南京駐在武官・佐々木到一中佐はその手記に次の如く記した。
「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だつた。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。 ある者は焼かれて半ば骸骨となつてゐた。焼残りの自足袋で日本婦人たることがわかつたやうな始末である。わが軍の激昂はその極に達した」(『ある軍人の自伝」)

右の佐々木中佐手記は嘘でも誇張でもない。済南の日本人惨殺状況に関する左の外務省公電がこれを立証してゐる。

腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面上部を切落したるもの、右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの二(五月九日田中外相宛西田領事報告)

支那側の蛮行の模様を精細に記録したものがある。それは我軍及び警察と支那側の立会ひの下に済南医院が行なつた検視の結果である(小川雄三「済南事件を中心として」)。そのごく一部を抜粋して、支那軍の殺人の手口の残忍非道ぶりを推察する一助ならしめよう。

(同書 P270~P272)

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