フジの旅の最後に、コンソン島に行くスケジュールが組まれていた。
コンソン島に着いて、そこにあるのはトラの檻、フランス植民地時代からの「収容所」である、と聞いていた。
――トラの檻は、ホーチミンの戦争博物館でもう見学したからいい。
――平和ぼけの私はもうそんな辛い所は見たくない。
――実際、映画や写真で見るドイツの強制収容所の写真の鉄条網、高い塀、監視所、想像するだけで両足が震え鳥肌がたってくる。
中国東北瀋陽での終戦直後の1年間の体験は、実際には見てもいないのに、私に拒否反応を起こすのだった。
――しかし、愛する!ベトナムとベトナムの人たちは、そこを通ってきたのだ。
――恐ろしくても見なくてはいけない。
そのような複雑な思いでコンソン島を訪ねた。
コンダオ収容所の歴史は、1862年、フランスによるこの島とメコンデルタ南部の占領と同時に始まった。
コンダオ収容所は、大きく4つのブロックからなっている。
そのひとつ、フーハイ収容所に入った。
中庭を囲んで大きな赤い瓦屋根の建物に、5つずつ合計10部屋が並んでいた。
ひと部屋は中学や高校の教室よりかなり大きい。
中央の広い土間の周囲、四方の壁に沿って、奥行き2メートルくらいの床が一段高く巡らされており、裸の囚人たちは、そこに渡された直径7cmほどの太い鉄棒に、足を鎖で繋がれていたそうである。
一方の壁に30人くらい、ひと部屋に120人くらいが収容されていた。
こうした大部屋のほかに、独房もあった。
これらの建物は、囚人たち自身によって建てられた。
所内には、建築材料の石を割る採石場あともあった。
トラの檻は1940年に建てられたそうだ。
トラの檻に足を踏み入れると、初め、そこは、数人ずつ収容する牢屋のように見えた。
しかし、2階に上がると、そこは、全体が大きな工場くらいの大きな建物であることがわかった。
鉄格子がはめられた床下には、ずらりと120の牢屋が並んでおり、上から監視し、拷問する仕掛けになっているのだった。
生石灰を水と混ぜてかけたり、様々な拷問がなされたらしい。
屋外には屋根のない部屋もあった。
ここは、熱帯の激しい熱さやスコールを遮ることができない、拷問をする部屋であった。
1970年、この拷問部屋は国際的な問題になり、調査団が入るためにいったん壊されたが、翌年またアメリカによって建てられたそうであった。
アメリカがトラの建て直した檻は、ひと部屋もずっと小さく、廊下も狭く、ひとつの建物に50ほどの部屋があった。
ここに収容された囚人たちは、いろいろな形で抵抗し、また作業の合間に脱出の計画を実行した。
多くは再び捕まったが、1975年の解放まで生き延びた人もいて、ルーンさんはその一人を知っているとのことであった。
人間のすることとは思えない残虐な行為がなされていたこれらの建物群と収容所跡は、しかし、モモタマナとナンヨウスギが大きな木陰を作る明るい日ざしの中にひっそりと静まっていて、想像していた暗さや恐ろしさの影はなく、ただ不思議な空間を作っていた。(宮本記)
コンソン島に着いて、そこにあるのはトラの檻、フランス植民地時代からの「収容所」である、と聞いていた。
――トラの檻は、ホーチミンの戦争博物館でもう見学したからいい。
――平和ぼけの私はもうそんな辛い所は見たくない。
――実際、映画や写真で見るドイツの強制収容所の写真の鉄条網、高い塀、監視所、想像するだけで両足が震え鳥肌がたってくる。
中国東北瀋陽での終戦直後の1年間の体験は、実際には見てもいないのに、私に拒否反応を起こすのだった。
――しかし、愛する!ベトナムとベトナムの人たちは、そこを通ってきたのだ。
――恐ろしくても見なくてはいけない。
そのような複雑な思いでコンソン島を訪ねた。
コンダオ収容所の歴史は、1862年、フランスによるこの島とメコンデルタ南部の占領と同時に始まった。
コンダオ収容所は、大きく4つのブロックからなっている。
そのひとつ、フーハイ収容所に入った。
中庭を囲んで大きな赤い瓦屋根の建物に、5つずつ合計10部屋が並んでいた。
ひと部屋は中学や高校の教室よりかなり大きい。
中央の広い土間の周囲、四方の壁に沿って、奥行き2メートルくらいの床が一段高く巡らされており、裸の囚人たちは、そこに渡された直径7cmほどの太い鉄棒に、足を鎖で繋がれていたそうである。
一方の壁に30人くらい、ひと部屋に120人くらいが収容されていた。
こうした大部屋のほかに、独房もあった。
これらの建物は、囚人たち自身によって建てられた。
所内には、建築材料の石を割る採石場あともあった。
トラの檻は1940年に建てられたそうだ。
トラの檻に足を踏み入れると、初め、そこは、数人ずつ収容する牢屋のように見えた。
しかし、2階に上がると、そこは、全体が大きな工場くらいの大きな建物であることがわかった。
鉄格子がはめられた床下には、ずらりと120の牢屋が並んでおり、上から監視し、拷問する仕掛けになっているのだった。
生石灰を水と混ぜてかけたり、様々な拷問がなされたらしい。
屋外には屋根のない部屋もあった。
ここは、熱帯の激しい熱さやスコールを遮ることができない、拷問をする部屋であった。
1970年、この拷問部屋は国際的な問題になり、調査団が入るためにいったん壊されたが、翌年またアメリカによって建てられたそうであった。
アメリカがトラの建て直した檻は、ひと部屋もずっと小さく、廊下も狭く、ひとつの建物に50ほどの部屋があった。
ここに収容された囚人たちは、いろいろな形で抵抗し、また作業の合間に脱出の計画を実行した。
多くは再び捕まったが、1975年の解放まで生き延びた人もいて、ルーンさんはその一人を知っているとのことであった。
人間のすることとは思えない残虐な行為がなされていたこれらの建物群と収容所跡は、しかし、モモタマナとナンヨウスギが大きな木陰を作る明るい日ざしの中にひっそりと静まっていて、想像していた暗さや恐ろしさの影はなく、ただ不思議な空間を作っていた。(宮本記)